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消えたオチョロ船 井伏鱒二


昭和30年前半に井伏鱒二が、友人と木江の町に訪問された時の実話をもとにされた小説です。

実名で出てきますが、当時のことを地元の人も殆どしらないぐらい認知されていない小説です。

参考になりましたので以下、要約した文章で載せます。(20%要約)※

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 瀬戸内海における広島蜜柑の主要産地、大崎島に行こうじゃないかというので、出かけていった。
大崎島は大崎上島と大崎下島に分かれ、どちらでも内海通いの船乗りたちの間にはオチョロ船で馴染みの深かった島である。オチョロ船は港に停泊している船に遊女を配ってまわる船であった。上島では、明治二十年代から木ノ江港とメバルという港に存在し、下島には、慶長年間からずっと御手洗という港にあった。「木ノ江も御手洗も、オチョロ船のために栄えていた港だということだ。今では御手洗も木ノ江も、亡びて行っている港町に違いない。と、私は初め丸山君にそう云ったことであった。

その船客は、反対側の島を指差して云った。
「あの島です。または毒瓦斯製造島です。」

秀山を持った島であった。




この港にも、四年前までは六艘のオチョロ船がいたそうだが、今では景気のいい港とは思われない。
町は海沿いに続く一本町で、ところどころに以前オチョロ屋であったという二階づくりの大型の家がある。陸の二つの出っぱりが港の水を両側から抱へ、東側の出っぱりを一貫のハナ、西側の出っぱりを天満のハナと云い、そこに西と東のオチョロの検番があったそうだ。
沖芸者が即ちオチョロである。
「オチョロ船は日没から出没して、日の出に活躍を終わります。」と局長さんが云った。
「日没になると、オチョロ船は女を四人五人と乗せ、置屋のおかみが、一緒で酒や料理なども積み、停泊して船に漕ぎつけます。 局長さんの話では、木ノ江の町は、木ノ江千軒と云い、木造船の造船所として栄えた町で、これにオチョロ船がいたから停泊する船で尚ほ栄えていた。
止むなく木ノ江に船を着けることになる。」
お庵主さんはそう云って、
「あの望楼の上から、オチョロ船に合図をしていたのです。」と局長さんが云った。
「オチョロ船が勢揃いすると、あの望楼で赤い旗を振る。すると、オチョロ船は、停泊している船を目がけて順番にこぎだして行くのです。または、女の馴染みの船員の乗っている船に漕いでいくのです。夕方になると、天満のハナのオチョロ船と、一貫のハナのオチョロ船が波止場の前あたりにずらりと一列に並ぶ。
オチョロ船は幅五尺に丈三間の、船脚の速い尾形船である。
さっとばかりに目的の船に向かって突き進んで行く。
と局長さんが云った。
 私はオチョロ船の実体を見ておきたいと思ったが、今ではもう原型のままのものは一艘も残っていないということであった。
局長さんは岸壁の上からいろいろと物色して、昔のオチョロ船の成れの果てだという一艘だけ見つけてくれた。
「それからオチョロ船のほかに、夜なきうどんの船もありました。あの船がその名残です。」
これはウロと云って海上の雑貨船である。
と、停泊している船に呼びかけて漕ぎまわる。
町自体が、希望を持ちたいのです。つまり、町自体が……。」

 局長さんはその後を云わなかった。不況は、木造船がすたれたこと、オチョロ船の消滅したことに大きく由来するらしい。

と云っていた。






 内海通いの船乗には、オチョロ船の魅力は一種格別のものであった。
次には船のロープを売り払った。
次に、「また七日」で船の錨を売り、次にコンパスを売り、最後に船を売り、オチョロを身請して木ノ江で世帯を持った。

 私は木ノ江のオチョロに関する記録を見たいと思ったが、局長さんは以前から蒐集して来た資料をすっかり無くしてしまって残念だと云った。

御手洗は大崎下島の主要港であって、ここには享保以来の若胡屋という代表的なオチョロ屋があった。
現在、その建物は御手洗の町の公民館として残されている。
長崎在住のオランダ商館長ウエールスも、江戸参府のときこの港に寄っている。

「九日、午後四時、御手洗に着す。他の三十隻の船と並んで碇を下ろす。 この愛の女神を乗せた船は、後世のオチョロ船と同一のものであったかどうかわからない。
御手洗には四軒あった。これは日本風のやりかたである。当時、御手洗にはあらゆる階級の者が寄っていた。
 長崎出島にいたオランダ人たちのうち、私たちに一ばん馴染みが深いのはシーボルトという名前である。夕方、御手洗から三里ほどの沖に碇を下ろす。
 ここで御手洗の町年寄が、酒席におけるオランダ人の談笑ぶりを書きとめていないのが残念である。

 蘭茶は若胡屋と藤屋の旦那が貰い、二葉屋の旦那だけ貰っていないのが、納得できかねる。
いつごろ茶屋がオチョロ屋と云われるようになったかしらないが、その経営のありかたは江戸時代の昔から大して変わってはいなかったろう。
元禄五年、ケンブエルの見たという「愛の女神」を乗せた船は、オチョロ船とは似た性質のものではなかったろうか。

 老船頭はそう云って、問わず語りに木ノ江における体験談を話しだした。
 私はその話を聞いて初めてオチョロ船というものの存在を知った。
 さて、私はその老船頭にオチョロの話を聞いてから、四十年目ぐらいにオチョロ船の本拠地木ノ江に行ったわけである。


業者も町の人もたいていそう思っていたそうです。木ノ江だけは大目に見てもらえる。 この町の人は別に運動もしなかったが、新聞人たちが来てオチョロ船を写真にとったりして運動の代弁をしてくれたそうである。

 私と丸山君は、町や密柑山を見て宿に帰った。
ちょっとした耕作のときなどには朝早く船で大長の村を出て、朝飯は船のなかで炊き、船のなかで食っているそうだ。
福山市の村上さんが私に資料を貸してくれるとそう云った。


参考
もう二度と戻らない、艶めく街のさざめき。江戸文化研究・法政大学教授/田中優子
http://ja.wikipedia.org/wiki/井伏鱒二

大崎下島 御手洗
http://shimaokose.blog.shinobi.jp/Entry/245/
http://shimaokose.blog.shinobi.jp/Entry/246/
色彩の魔術師 緑川洋一
記述が少しひっかかるところがありますが・・・・。
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