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宮本常一 

宮本常一は、日本を代表する民俗学者の一人である。

生前、彼は、全国津々浦々を日本の原風景を写真で撮影している。

宮本常一データベースの中にも掲載されていない写真を見つけた。

写真・日記集成 上巻 毎日新聞社

昭和32年に撮影となっているが、このブログで紹介した、消えたオチョロ船  井伏鱒二も、ほぼ前後して来町している。

これは偶然なのだろうか?

1957年(昭和32年)8月27日(火曜日)ルートは、 豊島→大長→御手洗→木江→宗方→木江→宮浦→大山祗神社 となっている。

撮影した場所を考えると、中央区~栄通~港区を歩いて撮っていったのだろう。
翌日は大三島に滞在となっているため、限られた時間で慌ただしく撮影に集中したに違いない。



木造建築としては、5階建てのユニークな建物。
当然、重量がかかるので、基礎部分での加重は大変なものがあるだろう。
写真をみると、傾いているように見える。いや、撮影当時は傾いていた。
平地の少ない瀬戸内海の町は、坪効率を高めるため、こういう作りとなった。
また、本書では、間違って四階建てとなっている。




これは、おそらく港区辺りだろう。
酒屋の手前に靴の看板が見える。
また、車に甲姫(かぶとひめ)の文字が見える。
これは、今は亡き高田酒造のブランドである。
一方、瓦には、金泉と看板がある。
これは、安芸津町にある堀本酒造の金泉(Kinsen)なのだろうか。

高田酒造に関しては、島唯一の酒屋であり、水は地下水を利用していたが、塩分が若干入るのか、辛口の酒として知られていたそうだ。

煙突も無残に壊れて今では更地になり当時を忍ばせるものは何もなくなったが、これも時代の流れなのだろう。





また、宮本常一がチョロ船を撮影していたことは大変興味深いことだろう。
表記では、チョロ船となっていたが、オチョロ船と、チョロ船はその目的が違う。

ふれあい郷土資料館にあるオチョロ船の形がほぼ同じということで、撮影した船を浮かべている場所からしても、オチョロ船と断定してもいいのではないか。

となると、この撮影した8月27日の来島の目的のほとんどは、昭和31年に施行された売春防止法後の視察なのかもしれない。

御手洗、木江と遊郭で有名だった場所なのだから、偶然ではないだろう。


追加

昭和49年にもう一度木江の栄通りにある木造船の建築現場を撮影した写真がある。
いずれにしても、短時間の滞在であり、彼にとって特筆すべき発見はなかったのだろう。
また、常識的に考えて、こういった滞在方法だと満足いく取材など不可能だと思う。
2回の大崎上島の来島といっても、木江町だけの短時間の滞在であり島全島をくまなく見れる時間はない。
民俗学者として有名な方で、島の歴史を語る場合、固有名詞が話題に出てくるケースが多く見られるが、大崎上島との関係はきわめて薄いと思わざるえない。




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三つの村上氏の歴史

家船に関して、
・因島(いんのしま)村上氏
・来島(くるしま)村上氏
・能島(のしま)村上氏
の運命と、その後に関して調べていこうと思います。

徳川時代になり、瀬戸内海のルートの安全が確保され、西廻り航路が開発され、飛躍的に海運のニーズが増え物流量が伸びることになります。

※村上氏の姻戚関係は複雑に入り組んでおり、簡単に割り切れないことが多い。また同族の争いもたくさんあり、複雑怪奇である。
活動範囲、交流範囲を考えると、単純に瀬戸内水軍というよりは、対馬を含め海民と捉えたほうが、適切ではないかと思う。

日本国として海外勢力の侵略に備えるため、対馬に防人を置いて徴兵制を敷いていたのだから、当然、畿内本土から太宰府、対馬ルートの海の道(航海技術)は、必要最低限のものだったのだろう。
間違いなく日本は海洋国家だったのだろう。


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櫂伝馬の歴史も近世以降は形骸化していったものと思います。

勉強していきます。



能島村上水軍の本拠地は、能島

島全体が、要塞化され城が造られていた。

しかし、国定史跡になりながら、なんと情報が少ないことか。
この能島城がどんなものだったのか、調べても画像がでてこない。
前の「櫂伝馬の歴史を考察する」で紹介したビデオには、想像図が載っていたので、やはりあのビデオは貴重な資料だと改めて思う。

愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』にも最近の能島が取りあげられている。

昔のブログで、リンク紹介させていただいいた、●瀬戸内和船工房●の工房は、実は能島の手前の鵜島の海岸にある。
ネットで見ていると建物が確認できたので、すぐ側にあるではないか。
なんとも奇遇、というよりは、これは間違いなくネットワークなんだと思った次第である。
決して偶然ではない。

瀬戸内海によくある姓、河野、村上、藤原、は珍しくないけれど、もっとみなさん、歴史を研究し興味をもって頂きたいとお願いしたい。

能島の姿を見ると古老がおっしゃるとおり没落し埋没して恨みの一つも言いたくなる心境は察するに十分である。

家船とは

村上水軍の話の続きより少し横道のそれますが、

家船とは、いったい何なのか?


詳しくは、ウエッブでは、沖浦さんの書籍「辺界の輝き」に書かれています。




今回は歴史学的な話題ではなく、実体験をもとに家船を書きます。

昭和30年後半の生まれである私は、家船が、どんなものかわかりませんでした。
住んでいる場所が瀬戸内海といえども、造船の町でしたから、家船なるものがどんなものか予備知識もなかったのです。

ただ、当時同じ豊田郡であった豊島の学校に寮があること。
また、遠洋漁業のために子供を預かるための施設であることなど中国新聞の記事を読んでしっていました。

遠洋漁業と言えば、横浜ベイスターズの以前の親会社、マルハなどの水産会社の関連の施設があるのかなと思っていました。

実際は、違っていましたが。

しかし、家船の原形になるものには、祭りの時にのせてもらったことがあります。

小さな木造船ですが、船の中に畳もあれば、ラジオ、テレビまでついていました。

なんとも、贅沢・・・というよりは、船を生活の場にしている道楽の極みだと、無知ながら思っていました。

釣り好きの極みだなと、幼心に思っていました。


恥ずかしいことに、学校教育で、家船のことは教わらなかったし、おちょろ船の話さえも話題にすらならなかった。

農家だからなのかもしれませんが、海のことはほとんど予備知識が備わっていなかった。

まさか船が住居だの夢にも思わなかった。



瀬戸内海は、両極端で、造船の町もあれば、もう一つ違う港を挟んで、漁師だけの町もある。


大三島の知り合いに会えば、「三島には漁師なんておらんのよ。」と言われました。

「魚を殺すことが殺生だから」、だそうです。

櫂伝馬にしても、木江の櫂伝馬は、宮島系、東野の櫂伝馬は、大阪の住吉系、

因果関係もわからず、どうしてこうなったのか、整理が必要です。

支配階級が変更することで瀬戸内海の地域の羅針盤は、少々狂いが生じているのではないかと思います。

本来のアイデンティティを取り戻すことが必要だと思います。





家船の起源など諸説あり似通ったところもあれば、そうでないところもある。
凄く当たり前のことですが、考える上で大切な要素

島嶼部では、開墾できる土地が限られているため、相続する際 限界点が訪れる。
そうなると必然的に漁師になるしか生活が守れなくなる点。

また、彼等は海のプロなのだから、漁業権、縄張りは明確にあったはずである。
そうなると、どこまで限定された海域でカバーできるのか。

これも飽和点があるため、時代と伴に遠洋漁業に向かったのではないだろうか。

実際は国家には、権益の付与に関することだから、こういった資料は残っているのだろうが、しっかりと分析、見極めをしないといけないと思う。

自戒を含め一番いけないことは、混同しないことだと思います。




家船に関しては、色々な文章を読んでいます。
沖浦さんの記述も確かに一理あります。

が、それだけでいいのか という疑問が頭をよぎります。

平家伝説、差別、

う~ん、納得できない。

古代日本は、海の時代です。

畿内から、瀬戸内海経由して、下関を通過して、九州 隠岐の島、対馬まで、

そこから韓国へ

当時の防人に気持ちはどんなものだったのだろうか?

また、瀬戸内海の漁民の漁業区域も対馬あたりもカバーしていた。

また東南アジアの海民に見られる、抜糸、入れ墨などの風習もあったということだから、交易がどうだったのかも、考慮していかなければならない。

単なる差別問題以前に、凄く大きなテーマが現前とあります。

書物の中の活字では、推測できない世界です。

櫂伝馬の歴史を考察する1

いよいよ木江17夜祭が8月1日に開催されます。

祭りのイベントは櫂伝馬競争です。




これについて、色々と考察していこうと思います。
正直に言えば、長くなるテーマだと思います。

また、加筆することによってどんどん修正していくと思います。

櫂伝馬のルーツは、もともと、瀬戸内海の水軍が使っていた小回りのきく偵察用の船だと言われています。

水軍の全盛期は、安土桃山時代、織田信長の時代です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/石山戦争 から引用

木津川口海戦 [編集]

天正4年(1576年)春、顕如は毛利氏に庇護されていた将軍足利義昭と与して三たび挙兵した。
信長は4月14日、明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲した。
しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市中央区)や木津(同浪速区)から海上を経由して弾薬・兵糧を補給しており、信長軍が木津を攻めると、本願寺軍は逆に一万を超える軍勢をもって木津の信長軍を蹴散らし、天王寺砦付近まで攻め入った。
この敗報を聞いた信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発したが、突然のことであるために兵の集結が遅かった。
そのため信長は痺れを切らし、三千ばかりの兵を連れて天王寺を包囲している一万五千余の本願寺軍に攻めかかった。
また、包囲を突破して砦に入ると、すぐさま砦内の兵と合流して討って出た。そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し、石山本願寺に退却した(天王寺合戦)。その後、信長は石山本願寺の四方に付城を、住吉の浜手に要害を設けて本願寺を完全包囲下に置いた。

経済的に封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請した。
輝元は要請に応じ、7月15日に村上水軍など毛利水軍の船七、八百艘(実際は六百艘程度と言われる)が兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れた。信長軍はすぐさま、配下の九鬼水軍など三百余艘で木津川河口を封じたが、毛利水軍は数の利を生かして火矢や焙烙玉(中に火がくすぶっており、目標に当たると中身が出て一気に燃え広がる武器)で信長軍の船を焼き払い、大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けた(第一次木津川口海戦)。信長は仕方なく、三方の監視のみを強化して一旦兵を引いた。

瀬戸内海の島々、沿岸部は熱烈な浄土真宗の信者でした。
安芸門徒も浄土真宗です。

この戦いで村上水軍の力が誇示されることになり、これを見ていた側近であった、豊臣秀吉は、信長亡き後、瀬戸内海の海賊封じを徹底します。

陸路はまだ整備されていない時代ですから、大量輸送に大陸や九州などの物流ルートとして瀬戸内海の海上ルート確保はもっとも政治的にも優先しなければいけない重要政策のひとつでした。



1588年豊臣秀吉は刀狩(かたながり)令と同日に3ヵ条からなる〈定〉で発令。以前に出していた海賊停止令の徹底を図るため,土地の領主に浦ごとの海民調査,海賊行為をしないとの誓約連判状の提出を命じました。

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海上賊船禁止令

一、諸国海上において賊船の儀、堅く停止の処、今度、備後伊予領国の間、伊津喜嶋にて、盗船仕の族、これあるの由、聞食され曲事に恩食事

一、国々船頭猟師、いづれも舟つかひ候もの、その所の地頭代官として、速に相改、向後、聊以て海賊仕るまじき由、誓紙申付、連判をさせ、其国主とりあつめ上げ申すべき事

一、自今以後、給人領主油断致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所、知行以下末代召上らるべき事、右条々堅く申付くべし、若違背の族これあるにおいては、忽厳科すべき者也


天正十六年七月八日   秀吉
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要約すると、
諸国の海上において速やかに海賊行為を辞めよ。備後・伊予両国の間の伊津喜嶋(斎島)にて盗船をした族がいることを秀吉は聞いた

国司は速やかに、国々浦々船頭猟師、いずれも船を使う者は今後は絶対に海賊をしないという旨の誓詞を書かせて、それを取り集めよ

これより、海賊の輩が出没したら成敗を加え、さらにその領主の在所・知行を末代まで没収する


斎島とは、現在は呉市になった斎島であり、秀吉の政略により、斎島の島民は皆殺しされたとあります。


ほとんどの歴史書はこの部分は触れていません。

また、この海上賊船禁止令は、瀬戸内海、特に村上水軍一族の長い差別の歴史の始まりともいえます。

瀬戸内海で島々でも現在でも櫂伝馬競争が残っているところがありますが、歴史的考察はせいぜい江戸時代ぐらいからであり、瀬戸内水軍との歴史的背景や因果関係には、触れていません。


参考サイト
この東京財団の動画 海賊 村上一族 盛衰記(約40分)は、瀬戸内海の村上水軍の歴史を考察する上で非常に貴重な映像ですので、是非ご覧ください。
海賊 村上一族 盛衰記
村上水軍博物館
http://www.1101.com/shinran/index.html
http://www.enjoy.ne.jp/~toyohama/bunka.htm

瀬戸内海の天候

大崎上島を含め、瀬戸内海の島々は歴史的に干ばつに苦しめられた苦い経験がある。

石高が近世以降、財の標準価値基準となり地域で連座制がしかれた近世以降は、不作は農民にとってもその村にとっても生きるか死ぬかの大変な心配ごとだったろう。

これを連想させる話が、江戸時代の逸話として残っている。

有難いことに、旧東野小学校がこのテーマを取りあげている。

---------

「直兵衛の首切りもち」の話 

むかし,浪速(いまの大阪)に,直兵衛というひとりの船頭がおった。生まれは大崎島という瀬戸内の小さな島である。

 ある年の暮れ,直兵衛は九州の殿様のご用で年貢米を大阪の蔵屋敷へ船で運ぶことになった。

 直兵衛はさっそく,荷を積んで船出をした。

 日よりも良く,潮にもめぐまれ,船は順調に進んで,直兵衛の生まれ故郷である,大崎島のあたりまで来たのは,船出してから四日目の夕方のことであった。

「永いこと島に帰らんが,みんな達者かのう。」

 直兵衛がなつかしい思いで島のあたりを眺めておると,島の磯のあたりで,四,五人のものが,なにやら白い布のようなものを,しきりに振っておるのが目についた。

「おうい・おうい」
 耳をすますとかすかに声も聞こえてくる。

 どうやら自分の船を読んでおるらしいが,大事な御用米を運ぶ途中じゃむやみに,寄り道するわけにもいかん。

 そのまま,船を進めておったが,自分の生まれた故郷でもあるし,それに,なにかわけがありそうにも思えたので,立ち寄ってみることにした。

「おう,直兵衛さんの船じゃったんが,これはよかった。」
「よう島へ上がっておくれんさったの。」
 いそに出ていた顔見知りの村人たちは,直兵衛の姿を見て,泣かんばかりによろこんだ。

「わしも,しばらく島に帰らなんだが,みんな元気か。」
「元気なもんか,見てくれ,この骨と皮ばかりのからだを。」
「そういえば,そうじゃ,いったい,どうしたというんじゃ。」
「お前さんの船を呼びとめたのも,実は・・・・・・。」
と話し始めたわけというのはこうである。

 その年,瀬戸内の島々は近年になり日照り続きで,とくに大崎島はひどかった。
 梅雨になっても雨が少なく,降ってもおしめり程度で,田植えはできんし,飲み水にもことかく有様じゃ。

 困った村人たちは,山に登って火を焚き雨乞いもしたが,日照りはいっそうひどくなるばかり。

 ふだんでも食料の乏しい島のことでそのうち,わずかの蓄えも,すっかり食いつくしてしまった。

「正月も近い,なんとかせにゃ,島中がみんなかつえ(飢える)死んでしまう。」
 村人たちが直兵衛の船を見たのは,そんなときであった。

 直兵衛は話を聞いているうちに,村人が自分に,なにを頼もうとしておるかが,すぐにわかった。

 船に積んでいる米をわけてくれというのである。

「直兵衛さん,通り合わせたのも,なにかの因縁とおもうて,どうか,わしらを助けてつかあさい。」
 村人たちは,直兵衛の前に土下座して頼んだ。
 直兵衛は困った。

 しかし,話を聞いたからには,ほうっておくわけにはいかん。
 それかというて,大切な御用米に手をつければ,自分はおろか,家族まで殿様から,厳しいおとがめを受けるにきまっておる。

 困り切った直兵衛は,
「ひと晩考えさせてくれ。」
と村人に頼んだ。

 あくる朝,直兵衛は村人たちの案内で,村のあちこちを見て歩いた。

 話の通りその荒れようは,ひどいものであった。

 昔,小ブナをすくった小川は,川底を見せ,遊び回った野山の草木は,からからに干からびている。

 腹をすかした子どもたちの姿は,直兵衛の涙をさそった。

 船に帰った直兵衛は,すでに心を決めていた。(船の米を,一粒残らず村人にあたえよう。殿様には,船が沈んだといえばいい。それでなお,罰せられても,島のためならかまわん。)

 その夜,直兵衛は年貢米を,一粒残らず島におろすと,船に穴をあけ,海の底に沈め,難破船にみせかけたのであった。

 そして,船が沈んだのを見とどけると,自分は,いそぎ小舟に乗って,九州の殿様に報告にいった。

「わたくしの不注意から船を難破させ,大切な御用米を海に沈めてしまいました。このうえはいかようにもおしおきくださいませ。」

 ところが悪いことに,うまく沈めたとおもうた船が,そのまま伊予(現在の愛媛県)の大洲に流れついた。

 そして土地の役人に調べられ,その船が直兵衛の船であること,そして,積んでいた御用米を,全部村人たちに与えたことなどが,次々に調べられてしまった。
 直兵衛はすぐに,役人にとらえられた。

「お上の年貢米を無断で分け与え,その上,船を難破船に見せかけるなど,お上をあざむく,ふとどきな所業である。」
というて,たちまち死罪をいいわたされた。

 だが,もとより死は覚悟の上,直兵衛は後悔せなんだ。
 はりつけの刑は,村人たちの見せしめもあって,直兵衛の生まれ故郷である大崎島の脇の浦でとりおこなわれた。

 文政九年(1826年)十一月二十六日,直兵衛,三十三才の若さであった。

 遠くから見まもっていた村人たちの嘆き悲しんだことは,いうまでもない。

 村人たちは,役人の帰ったあと,こっそりと直兵衛の亡きがらをもらいうけて密かに弔いをすますと,その骨を,近くの浄泉寺山に手厚くほうむった。

 そして,それからのち,村人たちは,直兵衛をいのちの恩人として,永く供養すると共に,命日の十一月二十六日はいうまでもなく,六のつく日には直兵衛さんにすまないといって,「もち」をつくことを避けるようになった。

 この習わしは,いまでも残っていて,もしも六のつく日に,「もち」をつく者がおると,<直兵衛の首切りもち>といって,その人をさげすむという。


広島の民話 再話・大町美智子氏
以上原文のまま転記
中国放送「ひろしまの民話」より引用

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瀬戸内海の島々を歩けば米作に適した畑などなく、耕作率を高めるためには、山を開墾し段々畑にすることになる。



大崎上島も今では森に戻ってしまったが、こういった海の見える山に入ると突然、段々畑にでくわしたことが何度かある。



信じられないぐらい急斜面に石組みの畑が突如として落ち葉の下から現れた。
いつ放棄されたのか見当はつかないが、先人の苦労は大変なものだったのだろう。

島とさつまいもの関係もわすれてはならない。

山口方面に人に言わせると「大島の芋食い」という言葉があるそうだ。
大崎上島の海を挟んで、大三島では「三島の芋食い」という言葉がある。

天候に左右され米作に頼ってばかりでは人口を維持できない瀬戸内海の島々にとって、長期保存がきき、カロリーが高く、生産性の高い作物の登場で人口が維持できることになる。殺生を禁じていた初期の仏教の影響も色濃く残っていただろう。

いまだに瀬戸内海の降水率と人口の変化など学問として研究してくれる学者はいない。

※写真は、山田洋次監督の映画「故郷」から
 この映画のレポは「映画 故郷の真実」というタイトルで別項で書こうと思います。


参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/故郷_(映画)
http://ja.wikipedia.org/wiki/サツマイモ

統計でみる市区町村のすがた



統計局ホームページ/統計でみる市区町村のすがた2009
の全国版にエクセルファイルで、以下の分類で掲載されています。
A 人口・世帯
B 自然環境
C 経済基盤
D 行政基盤
E 教育
F 労働
G 文化・スポーツ
H 居住
I 健康・医療
J 福祉・社会保障
K 安全
市区編

市区町村コードは、大崎上島町は、34431 です。
検索機能を使うと便利です。

データを見ると、
・児童数の減少
・交通アクセスが悪いため、近隣の都市に勤めることができない
・生産者人口の減少、第一次産業従事者の減少、

が目立ちます。

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