日時:
2005/01/19
分類:
その他
見出し:
槙肌運搬船、最後の出航 広島県大崎上島
内容:
瀬戸内文化 鳥羽の博物館に保存へ
木造船の浸水防止に使う槙肌(まきはだ)の生産と行商で栄えた、広島県大崎上島町の明石地区に一隻だけ残っていた木造の槙肌運搬船正宝丸(一九・八トン)が、三重県鳥羽市の「海の博物館」で保存される。十八日、四十年間苦楽を共にした船長西卓男さん(67)夫婦たちに見送られて、明石港を出航した。
全長約十六メートル、幅約四メートルの船は、祖父の家業を継いだ西さんが妻紀美さん(63)と結婚した一九六四年の十二月に進水。船倉に最大五十トンの槙肌縄や船くぎを積み、下関市や萩市の造船所を回った。紀美さんが機関長を務め、一回の航海は二十日間。船上生活のため、二畳の部屋やデッキに台所もある。
明石港には、六〇年代まで二、三十隻の槙肌運搬船がひしめいた。鋼やプラスチック製の船に押されて槙肌の需要が減り、約十年前から一隻に。西さんも足を痛めて三年前に船を下り、車での行商に切り替えていた。
昨年五月、槙肌研究で訪れた同博物館の石原義剛館長(67)が保存を提案。九九年に同町の櫂(かい)伝馬船を受け入れた経緯もあって、寄贈話がまとまった。「まだ乗りたい。でも、船にまた会えるから」と西さん。石原館長は「瀬戸内海の文化を伝える貴重な船」と話している。
槙肌 マキやヒノキの内皮を加工し、縄状にした造船の材料。板の合わせ目に詰めて浸水を防ぐ。明石地区では1801年に、村人が大阪で習った製法を広めたとされる。材料は主に奈良県から仕入れ、昭和初期には全国の7割を生産した。
【写真説明】桟橋から離れる正宝丸を見送る西さん夫婦(左手前)と家族
写真:
また、小説にもなっています。
ポンポン船の旅
倉掛 喜八郎 著 大阪書籍 版
クラガケ,キハチロウ オオサカシヨセキ
1986年05月 発行
夫婦行商船
大崎上島 (広島・木江町)
要約
香川県坂出市、兵庫県高砂、明石、そして神戸。家移りのたび、海辺の町に住んだ。
塩田、遠浅の海、港、船、荷役、小さな造船所などで、遊びながら海を見て育った。
船大工、漁師、船乗り、浜の男たちは皆、物知りで心優しかった。
見るもの聞くもの、触れるもの、触るものすべてが子供心をワクワクさせた。
海好きなのは、明治の後期、北前船と外国航路船の航海士であった祖父の血筋かもしれない。今も海辺は居心地がよい。
明治30年代、港町の縁日には海から行商船が来た。
行商船は瀬戸物、漆器、日用雑貨品 衣料品と売る品物が船によって異なっていた。
車社会になって、船が伸び立ちをした文化、人や物の交流が年々失われつつある。
商港は次々と漁港に変わった。行商船を見かけることも少なくなったが、まだまだ健在である。
広島、愛媛両県にまたがる芸予諸島や山口県熊毛群島で果物、衣料品、漁網を売る行商船を偶然見た。懐かしくも嬉しかった。
木造船の板の継ぎ目に打ち込み、船のアカ(浸水)を防ぐ槙肌縄の行商船が健在と知り、大崎上島木江町明石を訪ねた。
槙肌縄は檜の上皮を加工したもので、つやのある赤茶色の細い糸。束ねて板の継ぎ目に打ち込む。
明石は、その槙肌縄の特産地であった。製造の始まりは享和元年(1801)。
明治に入ると全国の70%をこの島で製造して栄えた。
木造船華やかかりし頃は、多かった需要も、鋼船、強化プラスチック船の普及につれて減少。残る製造業社は一社、行商船は五隻。全盛時の4分の一に減った。
西卓美さん、紀美さん夫婦は造船資材の行商をしている。
二十トンの機帆船″正宝丸〟で年に四,五回祖父の代からの得意である山口県下関、山陰海岸の萩までの各地造船所を巡る。卓美さんが船長、紀美さんが機関長。一海が二十日ほどかかる。売り物の多くはプラスチックの接着剤、鉛釘、ボルト。槙肌縄はほんの少量である。
商売、航海、両親を案じる中学三年の長男に見送られて、″正宝丸"は冬の日本海へ旅立った。
大崎上島町広報にも関連した内容が掲載しています。
・明石のマキハダ、沖浦の船釘を追って2004年7月
・マキハダブネは伝え続ける2005年12月号
木江では、女の子が生まれるとヒノキを植え、結婚の時の持参金代わりにしていると、いう伝承があるそうだ。私は知らなかった。
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