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瀬戸内海の天候

大崎上島を含め、瀬戸内海の島々は歴史的に干ばつに苦しめられた苦い経験がある。

石高が近世以降、財の標準価値基準となり地域で連座制がしかれた近世以降は、不作は農民にとってもその村にとっても生きるか死ぬかの大変な心配ごとだったろう。

これを連想させる話が、江戸時代の逸話として残っている。

有難いことに、旧東野小学校がこのテーマを取りあげている。

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「直兵衛の首切りもち」の話 

むかし,浪速(いまの大阪)に,直兵衛というひとりの船頭がおった。生まれは大崎島という瀬戸内の小さな島である。

 ある年の暮れ,直兵衛は九州の殿様のご用で年貢米を大阪の蔵屋敷へ船で運ぶことになった。

 直兵衛はさっそく,荷を積んで船出をした。

 日よりも良く,潮にもめぐまれ,船は順調に進んで,直兵衛の生まれ故郷である,大崎島のあたりまで来たのは,船出してから四日目の夕方のことであった。

「永いこと島に帰らんが,みんな達者かのう。」

 直兵衛がなつかしい思いで島のあたりを眺めておると,島の磯のあたりで,四,五人のものが,なにやら白い布のようなものを,しきりに振っておるのが目についた。

「おうい・おうい」
 耳をすますとかすかに声も聞こえてくる。

 どうやら自分の船を読んでおるらしいが,大事な御用米を運ぶ途中じゃむやみに,寄り道するわけにもいかん。

 そのまま,船を進めておったが,自分の生まれた故郷でもあるし,それに,なにかわけがありそうにも思えたので,立ち寄ってみることにした。

「おう,直兵衛さんの船じゃったんが,これはよかった。」
「よう島へ上がっておくれんさったの。」
 いそに出ていた顔見知りの村人たちは,直兵衛の姿を見て,泣かんばかりによろこんだ。

「わしも,しばらく島に帰らなんだが,みんな元気か。」
「元気なもんか,見てくれ,この骨と皮ばかりのからだを。」
「そういえば,そうじゃ,いったい,どうしたというんじゃ。」
「お前さんの船を呼びとめたのも,実は・・・・・・。」
と話し始めたわけというのはこうである。

 その年,瀬戸内の島々は近年になり日照り続きで,とくに大崎島はひどかった。
 梅雨になっても雨が少なく,降ってもおしめり程度で,田植えはできんし,飲み水にもことかく有様じゃ。

 困った村人たちは,山に登って火を焚き雨乞いもしたが,日照りはいっそうひどくなるばかり。

 ふだんでも食料の乏しい島のことでそのうち,わずかの蓄えも,すっかり食いつくしてしまった。

「正月も近い,なんとかせにゃ,島中がみんなかつえ(飢える)死んでしまう。」
 村人たちが直兵衛の船を見たのは,そんなときであった。

 直兵衛は話を聞いているうちに,村人が自分に,なにを頼もうとしておるかが,すぐにわかった。

 船に積んでいる米をわけてくれというのである。

「直兵衛さん,通り合わせたのも,なにかの因縁とおもうて,どうか,わしらを助けてつかあさい。」
 村人たちは,直兵衛の前に土下座して頼んだ。
 直兵衛は困った。

 しかし,話を聞いたからには,ほうっておくわけにはいかん。
 それかというて,大切な御用米に手をつければ,自分はおろか,家族まで殿様から,厳しいおとがめを受けるにきまっておる。

 困り切った直兵衛は,
「ひと晩考えさせてくれ。」
と村人に頼んだ。

 あくる朝,直兵衛は村人たちの案内で,村のあちこちを見て歩いた。

 話の通りその荒れようは,ひどいものであった。

 昔,小ブナをすくった小川は,川底を見せ,遊び回った野山の草木は,からからに干からびている。

 腹をすかした子どもたちの姿は,直兵衛の涙をさそった。

 船に帰った直兵衛は,すでに心を決めていた。(船の米を,一粒残らず村人にあたえよう。殿様には,船が沈んだといえばいい。それでなお,罰せられても,島のためならかまわん。)

 その夜,直兵衛は年貢米を,一粒残らず島におろすと,船に穴をあけ,海の底に沈め,難破船にみせかけたのであった。

 そして,船が沈んだのを見とどけると,自分は,いそぎ小舟に乗って,九州の殿様に報告にいった。

「わたくしの不注意から船を難破させ,大切な御用米を海に沈めてしまいました。このうえはいかようにもおしおきくださいませ。」

 ところが悪いことに,うまく沈めたとおもうた船が,そのまま伊予(現在の愛媛県)の大洲に流れついた。

 そして土地の役人に調べられ,その船が直兵衛の船であること,そして,積んでいた御用米を,全部村人たちに与えたことなどが,次々に調べられてしまった。
 直兵衛はすぐに,役人にとらえられた。

「お上の年貢米を無断で分け与え,その上,船を難破船に見せかけるなど,お上をあざむく,ふとどきな所業である。」
というて,たちまち死罪をいいわたされた。

 だが,もとより死は覚悟の上,直兵衛は後悔せなんだ。
 はりつけの刑は,村人たちの見せしめもあって,直兵衛の生まれ故郷である大崎島の脇の浦でとりおこなわれた。

 文政九年(1826年)十一月二十六日,直兵衛,三十三才の若さであった。

 遠くから見まもっていた村人たちの嘆き悲しんだことは,いうまでもない。

 村人たちは,役人の帰ったあと,こっそりと直兵衛の亡きがらをもらいうけて密かに弔いをすますと,その骨を,近くの浄泉寺山に手厚くほうむった。

 そして,それからのち,村人たちは,直兵衛をいのちの恩人として,永く供養すると共に,命日の十一月二十六日はいうまでもなく,六のつく日には直兵衛さんにすまないといって,「もち」をつくことを避けるようになった。

 この習わしは,いまでも残っていて,もしも六のつく日に,「もち」をつく者がおると,<直兵衛の首切りもち>といって,その人をさげすむという。


広島の民話 再話・大町美智子氏
以上原文のまま転記
中国放送「ひろしまの民話」より引用

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瀬戸内海の島々を歩けば米作に適した畑などなく、耕作率を高めるためには、山を開墾し段々畑にすることになる。



大崎上島も今では森に戻ってしまったが、こういった海の見える山に入ると突然、段々畑にでくわしたことが何度かある。



信じられないぐらい急斜面に石組みの畑が突如として落ち葉の下から現れた。
いつ放棄されたのか見当はつかないが、先人の苦労は大変なものだったのだろう。

島とさつまいもの関係もわすれてはならない。

山口方面に人に言わせると「大島の芋食い」という言葉があるそうだ。
大崎上島の海を挟んで、大三島では「三島の芋食い」という言葉がある。

天候に左右され米作に頼ってばかりでは人口を維持できない瀬戸内海の島々にとって、長期保存がきき、カロリーが高く、生産性の高い作物の登場で人口が維持できることになる。殺生を禁じていた初期の仏教の影響も色濃く残っていただろう。

いまだに瀬戸内海の降水率と人口の変化など学問として研究してくれる学者はいない。

※写真は、山田洋次監督の映画「故郷」から
 この映画のレポは「映画 故郷の真実」というタイトルで別項で書こうと思います。


参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/故郷_(映画)
http://ja.wikipedia.org/wiki/サツマイモ
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