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櫂伝馬の公報活動はどうでしたか?

旅する櫂伝馬は地域の皆さんのご協力、

そして、地域の若者が立ち上がり、メディア、ネットで、

広報活動を活発におこなった。


特にネット関連の人、写真家、地元のサポーターに、たくさん応援をしていただいた。


広島ニュース 食べタインジャー


mika_red わぁ!ありがとうございますm(_ _)m 櫂伝馬、素敵でした(^^ゞ RT


彼女のサイトを見たとき、その行動力に驚きました。

あの炎天下の中 木江~垂水まで2時間半も歩かれたとは、

地元の人でもしませんよね。



そして、写真家の滝アヤさん

宮島で旅する櫂伝馬の撮影もお願いしていましたが、

その時は「ケジュールの関係で調整がとれません」

と丁寧にお断りを戴きました。


そして、

しっかりと写真を撮影に大崎上島の櫂伝馬を撮影して戴きました。


ありがとうございます。



櫂伝馬の魅力は良かったのですが、


アクセスが悪いため、苦労されています。

確かに、交通体系を頭にたたき込んでおかないと、

車以外で来られる場合は大変だと思いますね。

以前、携帯向けの時刻表のサイトを作ったことがあるのですが、

バス、おと姫バスの時刻表と連携したサイトは必要ですね。


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日本で唯一の島マガジン『島へ。』



55号(2010年9月号)には、

【連載】 知られざる島へ 第13回  
 大崎上島(広島県)

として記事が掲載されています。

書店でチェックしてみてください。

(取扱が少ないので、探すのに苦労されるかもしれません。)

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まきはだの由来

紹介しなければいけないと、思い急遽、なんとかお盆休みの間に、
「まきはだの由来」をピックアップしました。

平成22年8月15日(日)
この本は、昭和63年発行となっており、当時と今では「違う」結果になっていることを勘案して頂いて読んで欲しいと思います。

過去、先人達の不断の努力で販路を拡大し全国シェアのほとんどを独占していた事実をしると、過疎地域として打開策を見いだせない現在の大崎上島にとって、いい励みになるのでないかと思う。

また、そうしたことも先生の書きたかったことのひとつであると思います。

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以下抜粋


 大崎島は各町村共古くから海運・造船業が発達し、特殊繊維産業である「マキハダ」の製造が盛んであった。

中でも、木江町明石が一番古く、今なお一部でつくられている。

このマキハダは桧の皮で作ったやわらかい縄で、木船の外板デッキ(甲判)等板と板のつなぎ目を補填して、海水の浸入や水漏れを防止する重要な役割を持つ物で、木船建造上なくてはならないものである。

 このマキハダ産業は、幕末から明治・大正・昭和の中期にかけて弁才船・大型帆船・被曳船・機帆船・各種漁船・伝馬船等木船建造の殷賑を極めた時代には造船所の多い大崎島だけでも、その需要を満たしきれない有様で、明石・沖浦だけでもその従業員が300人を越え、各町村でも造船所の近くのおばあさんたちが、何処で誰に教えてもらったのかの納屋の片隅で二,三人が集まり、マキハダないの副業を始めたものである。


 明石に行ってみると中央の道端に、昭和27年10月、時の大蔵大臣であった池田勇人先生の「槙肌元祖の碑」と書かれた大きな記念碑が建てられている。






和船史話によると、一六世紀の後期倭寇の船に当時づでに鉄釘も槙肌も使われていたようであるから、「元祖」とはいえないと思うが、とにかく明石の人々によって180余年の長い間今日まで槙肌作りに専念され、瀬戸内海沿岸は勿論のこと四国・九州・朝鮮にまで遠く販路を拡大し、船釘と共に木江町の独占業までに発展せしめた、マキハダ産地としての誇るべき記念碑ではある。




 では、この「マキハダ作り」は如何にして明石に導入され、如何なる歴史をたどり、今日に伝えられたものであろうか、


何しろ長い間の出来事で色々な資料も散逸し、作られた人々も多く亡くなられ、その正否もとやかく言われているが、残っている資料といえば、「大崎南村郷土史-正畑規矩監修-昭和26年発行」のものに頼るしかないので、これによりその昔を尋ねてみることにしたい。



 享和元年(1801)頃、明石方村に組頭水内屋彦右エ門という人がいた。
当時村内で紫根即ち紅花という紅の染料になる草花を盛んに栽培していたらしい。
これを水内屋の船が毎年大阪へ持って行き販売をしていたのである。
ところが、この年大阪の紫根問屋に行ったところ、その近くでたまたまマキハダを製造している人に出会ったのである。

めぐりあわせというものは不思議なもので、つに話こんでいる間にこれは良いと感じたのである。
心安くなったのでそれとなく仕事の来歴・資材の購入先・製法・販路・経済制等について聞いてみると、島嶼部の船に縁の深い造船地にとって、将来性のある恰好の仕事であることを確信した。

大崎の方の造船所でもマキハダを使っているのであろうか、使っていれば取り寄せるのにもさぞかし困っている事であろう。

これは、是非習って帰らなければならぬ。

「仕事の少ない島でマキハダをつくれば、造船所も助かるが、明石の人も金儲けができ一石二鳥である。」と思っているとじっとしておられなくなり、早速無理をお願いして、自分のつれていた船員の中でも地元の人間で、しっかりしていた西某なる者に命じ、この仕事を伝習させ、帰村後直に諸準備を整え製造させることにした。

原料の桧の皮は最初、兵庫県高砂辺りから購入し、小規模の家内工業として、身近な気心の合った人々に奨励したが、汚い仕事で海のものとも山のものとともわからず、最初は心配の連続であったが、年寄りは、「ぞうり」作りや、網ない仕事にもなれておるので、早速ならい覚えだんだん優秀な製品ができるようになった。

最寄りの船大工さんに事情を話して使用してもらうと、これは近くで良いものを作ってくれたと、次から次と評判となり明石・沖浦・木江・東野へと販路も次第に広がっていった。

こうして量が増えると、お役所にも聞こえ、運上銀としてマキハダ一駄(馬一頭に負わせた荷物で約42貫目―約168キログラム)に付、銀二匁を上納することになった(課税年次不明)。

 かくして、この新産業は御山方の支配となり、村内に小頭をおいて取締りをすると共に。50年余りを経過した安政3年(1856)には縦10センチメートル、横5,5センチメートルの木製の合鑑を作り、当時仕事をしていた42名の者に下付した。

これは、一種の免許制度で、この鑑札を持たずに勝手にマキハダを製造した場合は、誰でもその製品全部を役人に没収されるおきてであったようである。

その後、文久元年(1861)6月24日のこと 当時の藩主浅野長公(竹若丸)が領内巡視のため来村された。

例によって明石方村床屋坂本泰三郎(新屋)宅に休憩され、泰三郎ともう一人の庄屋水内屋前司(善二-後水野家)を召されて、村民の生活状態について御質問があった。

農・漁・海運の情況を話すと共に、副業として、「マキハダ作り」をしている事をお話すると、それは珍しい是非見たいとの上意があり、大騒ぎになった。

殿様をせまい納屋の桧の皮をたたいて茶色のほこりだらけの作業場の中へ案内するわけにもゆかず、ばあさんでは趣がないということで、早速床屋の庭にムシロを敷き、大串屋嘉平の娘ハルと、森沢屋忠左エ門の娘オトワの明石方美人が2名選ばれ、御前に於いて上覧に供した処「ああ、よくない慣れたものよ、尚精進励めよ」と直々おほめの言葉を戴いたのである。

こんなこともあって、世は間もなく明治維新となった。

「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする。チョンマゲ頭をたたいてみれば、因循姑息の音がする。」と当時世間で唄ったそうであるが、いよいよ何もかも文明開化の時代となり、明治4年廃藩置県が施行され、幕藩体制の崩壊と共に、マキハダ合鑑の制も廃止された。

これから四民平等で誰でも自由に製造できるようになったが、課税として一人年間二十銭を納入することになった。

しかし、これも明治12年県会が開始された年免税となり、農業の副業として取り扱われることになった。
(以上大崎南村郷土史による)

その後、明治になって瀬戸内海にも石灰船がふえ、御手洗・木江・鮴崎港がにぎやかになり、造船所や燥場に寄港する船舶も多くなった。

大正になって第一次欧州大戦が勃発すると、造船ブームで大崎島は一時黄金時代となったが、関連産業であるマキハダもさぞかし発展したことであろう。




筆者は或る日生涯をこの道一筋に生きてこられた明石の森田清人氏(89才)をお訪ねし、長年にわたる苦労話の一端をお聞きした(昭和59年5.17)。


氏は、この特殊繊維業のかたわら長年町会にも出られ、議長の要職につき昭和49年には、勲五等端宝章を賜ったような人である。

原材料は今奈良の桜井からきているが、木曽・熊野など何十年も何百年も育った御料材の桧の皮が良質なので、この交渉にあたられたり、販路拡張のためには国内は勿論、遠く朝鮮の各港を訪ね国境の新義州方面にまで足を進められたそうである。

また明石は古くから海運業が盛んで小船が沢山いたが、槙肌船専用船(機帆船)もいて、マキハダの外沖浦や鞆の船釘、錨等を積んで、近辺から四国・九州・阪神・朝鮮にまで廻船され、長崎からの帰り等にはイリコを積んで尾道に行くとか往復をかけ、とにかく小さい船で玄界や太平洋の荒波を越え、命をかけて商売を続けられたわけである。

また、この道の練達者平岡壮氏にも、その昔南小時代長崎の井筒造船所へ御案内してもらったことがあるが、商売は厳しいもので買ってもらうためには、常に取引先と緊密な連絡を取られよ、よい品物を確実に納品する信用を獲得されることが大切のようである。

かくの如く、木江町の作る人、売る人、運ぶ人が長年にわたり真面目に、正確に良品を需用者にお届けしたから、今日まで180年の歴史を保持することができ、戦前に於ける全国市場では、100%を占めていたそうであるが、将に日本一となったのである。


しかし、戦時中一時原材料の購入・運搬がむつかしくなり、産地である奈良・三重・岐阜県の方へ、当町から従業者が一部移転したことがあり、戦後70~80%に落ちたが、当町は常に独占的地位を確保した。


更に昭和30年以降年々木船が減少し、鋼船に移行する傾向が強くなってきたので、マキハダの流通対策の課題解決のため、当時32の業者が結束し、出資金(32万円)を出して同35年11月広島県マキハダ協同組合を設立し、対県対国交渉の結果、国の輸出対象物に取り上げてもらうことになった。




海国日本、造船日本として船と縁を切るわけにはいかない我が国ではあるが、鋼船やプラスチック船の時代となった今後のマキハダ産業は、販路を国内から国外に広げ、木船漁船の多い後進諸国に輸出したり原材料並びに製品の共同斡旋を頼むとか、生産から販売に至る有機的機構の樹立こそが、斜陽産業に残された課題のようである(木江町新町建設計画書による)。


以上抜粋終わり


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

関連資料

明石のまきはだ、船釘について


明石のマキハダについて

お盆

せっかくのお盆だが、日程の関係で前倒しで休んだため、

お盆は、上島で迎えることのできない残念な結果となった。


といっても、初めて、お盆時期に休みが取れたのが、ちょうど2年前

大崎と東野の祭りと花火大会を同時に体験することができた。

人口が減っても、これだけしっかりとした祭りができるとは、

田舎は、豊かな場所だなと実感そして感謝した。


しかし、一体何十年経って初めてなんだろう!


トラウマとして、つきまとうこと、

「当たり前のことが、ここでは、ないもできなかった。」

ことだ。

それは、色々な原因があるけれど、主に人間関係が原因。


中々、起承転結という流れにならないのが、魑魅魍魎とした

人間界の掟なのだろう。

所詮人間の視界とは、自己中心であり、広く見渡せるには

鍛錬するしか方法がないのだろう。

大崎上島備忘録も、

みなさんから、たくさんのアクセスを頂いているということは、

「公器」として度量と資質を問われているのかもしれない。


そんな、やや気落ちした気分のお盆だけれども、

福本先生の本

図説大崎島造船史を読んでいる。


造船の歴史を古代から、

近代、そして昭和63年ごろまで書かれている。

主筆中には、思わぬ出来事として、伏せられているが、

大型倒産があり、この島の造船業が不況のまっただ中に陥った時である。

また、それまで保持してきた、雇用の場も失うことになり、

人口流出が、これ以降加速していくことになる。

先生には失礼で申し訳ないが、個々の船舶会社の説明はされているが、

雇用の移り変わり、労働形態の部分までは、時間の関係だろうか、

不足しているように思える。

正直にいえば、今の国の労働管理方針は少々行きすぎた嫌いがあり、

俗にいう労働集約型産業3Kの職場、中小零細の企業のひしめく世界では、

収益力の点からも、経営側に無理難題を押しつけられている感が否めない。

決算方法も通常では考えられない、商習慣があるみたいだ。

会社経営は、常に危ない綱渡りを強いることになり、安定などあり得ない世界となっている。

何だか、知ったかぶりで脱線してしまったが、

この本でとりあげられている

「まきはだの由来」



明石のマキハダについて



などは、インターネットの世界で殆ど取りあげられておらず、

先生の本は凄く詳しく書かれてる。


また、鋼船の前の木造船の時代の材料の話題




櫂伝馬競漕



神社に祭られている絵馬の話



そして、

色街としての、木江、東野、御手洗の話

「消えいていったオチョロ船」



この章の記述は、私が読んできたどの本よりも、先生の書かれた内容のほうが、

遙かに優れた分析と適確な記述をされていた。

古今東西

色街など、

戦前・戦後の赤線を含め、風俗関連は、

いつの世も、男性にとって、興味をそそるものだし、関心が高い。

しかし、史実を歪めた過大に拡大したりしたものが、多く

風俗雑誌の一ページ的な扱いをされていることが多い。


せっかくの先生の書かれた本です。

粗末に扱わず、しっかり、考えて扱っていこうと思います。

イラク戦争民間死亡者より多い日本の自殺者の現状

平成21年度の日本の自殺者は、12年連続3万を越えることになったそうだ。

平成22年版 自殺対策白書

単純に12×3万で36万人




その話を、元自衛隊の方と話をしていると、

「知っています?イラク戦争の犠牲者数よりも多いんですよ!」

と、彼から言われた。

戦争と自殺者の比較は全くしたことがなかったので、

調べる事にした。

当然、正確な数字ではないだろうけれど、

Iraq Body Countのよると、2003年から、現在までで、民間人は、97,192 – 106,067と推定されている。


イラク戦争が開戦してから、現在まで7年だから、単純に3万をかけると21万人

つまり、日本は、

「平和、平和」

と国内では戦争を社会問題化しているが、

内なる戦争、「自殺戦争」は、

イラク戦争の二倍の死亡者を出していることになる。

自殺の年代別では、40から60までの男性が多く

社会の中心として財政的にも、精神的に中心にならなければいけない中核となる年代が目立つ。

自殺者の分析をしても、専門ではないので、私論ばかりかいてもどうかと思うので、控えるけれど、イラク戦争の二倍以上のペースで、自殺をしていく日本の社会は、クレージーとしかいいようがない。

リスクを伴うことを避ける日本の政治家も、

うわべの理想論を振りかざし、無知な国民を欺くのではなく

国益を考え、

そろそろ、真の愛国心に目覚めてはどうかと思う。

どちらにむいて政治をしているのか?

Twitterどころではないでしょう?


戦争のない平和な国家日本が、戦争している国よりも、死亡者が多いなんて、

世界から病的国家と見られていても、致し方ない。





海と島の歴史資料館(大望月邸)

大望月邸の話をしたいと思います。

この施設ができた過去の経緯は、

色々なところで書いてきたので、(望月圭介のお化けの話も含め)今回は止めておきます。

貴重な写真もありますので、是非 確認にいって欲しいと思います。

池田(父親か?)、宮沢喜一のおとうさん宮澤裕、そして、望月圭介と一同がそろった写真もあります。


つまり少し乱暴な言い方かもしれませんが、

宏池会の前進がここに既にあった訳です。

でも、皮肉ですよね。

呉線を開通させたり(大久ノ島の毒ガス工場誘致など負の遺産もあるけれど)、功労者ですけど、物流の主流が海から陸に変わることにより、

家業の廻船問屋が廃れることになりました。


昔の政治家は穀潰しと言われ、

破産するのも当たり前の時代だったそうですから、今の政治家と較べ価値観がまったく違っていたと思います。


望月圭介大臣のこの実家も 抵当にだされ、人手に渡り、

小学生時代に見学に行ったときには、ボロボロの状態でした。



幸い、大金ですが、町が管理保存する方向で動いたお陰で、この島の文化がどうにかして、保護ができた状態でした。

異論反論はあるでしょうけれど、

私は英断だったと未だに思っています。



毎年ですが、どれぐらい人がこの資料館にこられているのかわかりませんが、

私が訪れる時は、必ず複数の人がおいでになられています。

いつも、学芸員さんにお願いしているのは、

「こんなに、立派な資料館、もっと活用してもらわないともったいないですね。」

「立派な資料を作られてそれが、外部にアピールできないのは、非常に残念ですよ。」

「島の他にある資料館、木江ふれあい郷土資料館と体系的に、連携してみてはどうか」

などなどです。

今回も、

「大崎上島 文化財・史跡名勝マップ」

なるものを頂きました。

郷土史研究会が編集され、平成20年に再販として出されています。



よく調べられています。



こういう素晴らしい作業をされておきならが、

アピール出来ないのは、もったいないと思います。

こういった素晴らしい資料は、

GoogleMapを使って、ネット上で公開してもいいのでは と思います。

もっと顔の見える共同作業をみせて頂けると、

もっと活性化すると思います。

大望月邸は、この島の文化灯台の役割を果たさなければいけない資料館です。

私にとって郷土の誇りであり、

櫂伝馬同様、大崎上島ではなくてはならない存在です。


参考

明石のまきはだ、船釘について

機帆船のできるまでの流れ

大望月邸ギャラリー企画展

大崎上島と種田 山頭火

草木塔 種田山頭火

旅日記

瀬戸内の宝島、大崎上島

生野島にいってきました!その10

白水から帰宅途中

大望月邸へ

学芸員さんと談笑



何度もここには来ているので、馴染みの学芸員さんが多い。

どの方でも言えることだが、

大望月邸の学芸員さんは、熱心な人ばかり

質問に対して、誠意をもって答えてくれる。

「以前、ここでやられていた、

足利浄圓師と生野島・そして迦洞無坪氏はどうでしたの?」

「あの資料はもう終わったので、今は置いていませんが、こちらにはまだあります。」


と資料館に案内して頂いた。

「実は、今日生野島に行ってきました。小学校時代の先生がおられたので」

との私の話に、

「福本先生ですね!」

と即答された。

しかも、資料の中から、先生の書かれた本を出して頂いた。



この場所でしかないであろう先生の本を女性の学芸員の方の好意により

確認することができた。

その本の名前は、

「図説 大崎島造船史」

木江地区造船海運振興協議会が、お願いして

福本先生に書いてもらった本だ。

昭和63年の発行となっている。

この本は、造船のみならず、

大崎島の歴史も詳しく書かれている。


和船の研究の第一人者 石井 謙治さんと親交があったことを初めてしった。

まさか、石井 謙治さんと接点があったとは、


「図説 大崎島造船史」は、石井さんの本に負けず劣らず、

素晴らしい本だ。

よくここまで、地方史を丁寧に調べ、まとめ上げたものだ。



和船、鋼船、のみならず、櫂伝馬もしかり、

おちょろ等、すべて海のネットワークに関することがこの本に網羅されている。


幸運にも学芸員さんの好意で、一冊 分けてもらうことができた。



竹原から呉線で三原に向かう電車の中で、

何度も、この本に目を通した。

言葉の端々に、先生が言いたかったこと

また、気の遠くなるような、史実の確認作業を想像すると、

執念を感じずにはおられない。

時間の経過と伴に、重くなる大変な本だ。

この島にとっても、歴史を確認するうえで、これ以上のものはない。





本当にこの本を有効活用し、

島の歴史を

インターネットを活用し、

多くの人に興味をもって頂いたり、

関心を持っていただけたら、どれだけ素晴らしいことだろうか。


できの悪い教え子が、

40年かけて、

先生の本を手にするのも、なんたる奇遇。

落第しないよう、成績をとらないといけない。


とりあえず、一日かけて書いた生野島のことだけれど、

これで終わりとします。


追記

生野島の体験を書かれているサイトがありました。
http://setouti0202.ocnk.net/diary
生野島の住民の方と話をされ歴史を詳しく書かれています。
併せて読んで頂けると、面白いと思います。

今回の画像は、
2010-08-07 - takabow - Picasa ウェブ アルバムですべて公開しております。
是非、ご覧頂ければと思います。

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