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神戸港・船の大工展の紹介

「神戸港開港140周年記念事業」の一環として、2009年9月25日(金)まで、神戸学院大学・神戸海洋博物館に、神戸港 船の大工展を開催しています。



PDFファイルはこちらから








大崎上島からも協力しています。

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明石のマキハダについて

明石のマキハダについて、過去に報道された内容を載せておきます。


日時:
2005/01/19
分類:
その他
見出し:
槙肌運搬船、最後の出航 広島県大崎上島
内容:
瀬戸内文化 鳥羽の博物館に保存へ

木造船の浸水防止に使う槙肌(まきはだ)の生産と行商で栄えた、広島県大崎上島町の明石地区に一隻だけ残っていた木造の槙肌運搬船正宝丸(一九・八トン)が、三重県鳥羽市の「海の博物館」で保存される。十八日、四十年間苦楽を共にした船長西卓男さん(67)夫婦たちに見送られて、明石港を出航した。

全長約十六メートル、幅約四メートルの船は、祖父の家業を継いだ西さんが妻紀美さん(63)と結婚した一九六四年の十二月に進水。船倉に最大五十トンの槙肌縄や船くぎを積み、下関市や萩市の造船所を回った。紀美さんが機関長を務め、一回の航海は二十日間。船上生活のため、二畳の部屋やデッキに台所もある。

明石港には、六〇年代まで二、三十隻の槙肌運搬船がひしめいた。鋼やプラスチック製の船に押されて槙肌の需要が減り、約十年前から一隻に。西さんも足を痛めて三年前に船を下り、車での行商に切り替えていた。

昨年五月、槙肌研究で訪れた同博物館の石原義剛館長(67)が保存を提案。九九年に同町の櫂(かい)伝馬船を受け入れた経緯もあって、寄贈話がまとまった。「まだ乗りたい。でも、船にまた会えるから」と西さん。石原館長は「瀬戸内海の文化を伝える貴重な船」と話している。
槙肌 マキやヒノキの内皮を加工し、縄状にした造船の材料。板の合わせ目に詰めて浸水を防ぐ。明石地区では1801年に、村人が大阪で習った製法を広めたとされる。材料は主に奈良県から仕入れ、昭和初期には全国の7割を生産した。

【写真説明】桟橋から離れる正宝丸を見送る西さん夫婦(左手前)と家族



写真:








また、小説にもなっています。


ポンポン船の旅
倉掛 喜八郎 著 大阪書籍 版
クラガケ,キハチロウ オオサカシヨセキ 
1986年05月 発行

夫婦行商船
大崎上島 (広島・木江町)

要約

香川県坂出市、兵庫県高砂、明石、そして神戸。家移りのたび、海辺の町に住んだ。
塩田、遠浅の海、港、船、荷役、小さな造船所などで、遊びながら海を見て育った。
船大工、漁師、船乗り、浜の男たちは皆、物知りで心優しかった。

見るもの聞くもの、触れるもの、触るものすべてが子供心をワクワクさせた。

海好きなのは、明治の後期、北前船と外国航路船の航海士であった祖父の血筋かもしれない。今も海辺は居心地がよい。

明治30年代、港町の縁日には海から行商船が来た。

行商船は瀬戸物、漆器、日用雑貨品 衣料品と売る品物が船によって異なっていた。
車社会になって、船が伸び立ちをした文化、人や物の交流が年々失われつつある。

商港は次々と漁港に変わった。行商船を見かけることも少なくなったが、まだまだ健在である。

広島、愛媛両県にまたがる芸予諸島や山口県熊毛群島で果物、衣料品、漁網を売る行商船を偶然見た。懐かしくも嬉しかった。

木造船の板の継ぎ目に打ち込み、船のアカ(浸水)を防ぐ槙肌縄の行商船が健在と知り、大崎上島木江町明石を訪ねた。

槙肌縄は檜の上皮を加工したもので、つやのある赤茶色の細い糸。束ねて板の継ぎ目に打ち込む。

明石は、その槙肌縄の特産地であった。製造の始まりは享和元年(1801)。
明治に入ると全国の70%をこの島で製造して栄えた。

木造船華やかかりし頃は、多かった需要も、鋼船、強化プラスチック船の普及につれて減少。残る製造業社は一社、行商船は五隻。全盛時の4分の一に減った。
西卓美さん、紀美さん夫婦は造船資材の行商をしている。

二十トンの機帆船″正宝丸〟で年に四,五回祖父の代からの得意である山口県下関、山陰海岸の萩までの各地造船所を巡る。卓美さんが船長、紀美さんが機関長。一海が二十日ほどかかる。売り物の多くはプラスチックの接着剤、鉛釘、ボルト。槙肌縄はほんの少量である。


商売、航海、両親を案じる中学三年の長男に見送られて、″正宝丸"は冬の日本海へ旅立った。






大崎上島町広報にも関連した内容が掲載しています。

・明石のマキハダ、沖浦の船釘を追って2004年7月
・マキハダブネは伝え続ける2005年12月号


木江では、女の子が生まれるとヒノキを植え、結婚の時の持参金代わりにしていると、いう伝承があるそうだ。私は知らなかった。

明石のまきはだ、船釘について

マキハダについて

木造船造りの際、板と板のすき間につめ水もれ防止用に使われたものをマキハダと言う。
桧の皮で作るやわらかい縄のことで、水分を含むと膨張する性質があるため、これを使うと板のすき間を完全に埋め、船の浸水を防ぐことができました。
このため木船建造にはなくてはならないものです。

マキハダが明石で生産されるようになったのは江戸時代、享和元年(1801)のこと。
その後、急速に発展して明石のマキハダづくりは、安政三年(1856)に保護する目的で、無許可で製造した者を罰するお止め産業に指定され、42の業者に合艦(免許)が交付されました。





明治から昭和のはじめにかけて木船づくりが盛んになるとともにマキハダの製造も伸び、全国の約7割をここで生産していました。

マキハダの原材料桧の主な産地は奈良県桜井市で、そこから明石へ運ばれてきた桧は、まず天日に干し、はいだ上皮を火を使って乾燥させます。

それをベルトハンマーでたたき、繊維状にし、それを水につけた後、ふたたび天日で乾燥、最後に縄になってできあがります。

こうしてできた製品は、古くはマキハダ専用船で四国・九州・阪神や遠く朝鮮半島まで販売に廻船していました。

木船の建造が減少するとともに、生産量も減り、今では漁船などの木船のほか木の風呂おけなどに活用されている程度です。
このため最近では、国の輸出対象物として販路を広く国外に向けつつあります。





正式名称を記述している資料が少ないので困惑する。
紹介されているホームページも、決していい加減な名称を載せるような品格のサイトではないので、非常に悩みます。

資料の名鑑には、槙隙道具となっている。
また、ゲンノウという名前で紹介されている。
また、あるサイトには、ポンコチという名で紹介されている。







沖浦の船釘

マキハダとともに木船造りにかかせないのが船釘

福山の鞆の浦とともに沖浦の船釘は盛んであり船釘は薄手で細目に作られていたため瀬戸内海の小型船舶に適していた。

大正時代は、30軒もの鍛冶屋が沖浦にあったが、木造船から鋼船へ形態が変わると伴に、昭和60年7月24日の山本正一さんを最後に沖浦の船釘製造の火は消えてしまう。













機帆船のできるまでの流れ

木江ふれあい資料館で貴重な機帆船の建造過程を写真で丁寧に説明してくれていたので、掲載します。

今では、非常に貴重な資料となっています。
※カメラの腕が悪いので、一部焦点のあっていないものもあります。


宮司さんがこられ、建造の安全を祈願
如何に、船を造ることが神聖なことなのか、張り詰めた空気が読めるのでよくわかる。


この場所は、見覚えがある。
しかも、手前の大三島の位置からいって場所は特定できた。
今では埋め立てしてしまい、駐車場になっている。


助骨の固定
できれば、木材を湾曲する作業を見てみたかった。


当時の記憶があるかたなら覚えれているだろうが、建造している写真は、望月造船所だろうが、この横に材木商があり、塩漬けした丸太がたくさんあった。

オイルショック前、外材が入ってくるまでは、国内の木材は高い値段で取引されていた。その後暴落することになる。
元が山林地主なのでよくわかる。島にこなければ、自分の運命も劇的に変わっていただろう。


これだけの大きさの船だと、使われる材木の数はどれだけのものだったのだろうか?














ある程度の基礎ができたので船大工の安堵感と、プライドを感じる写真だ。
井伏鱒二の小説に出てくるように、昭和32年頃から、木造船の建造が急激に減少してくることになる。

木江は駄目だと落胆する人も多かっただろう。

鉄鋼船にうまく切り替えたところは息を再び吹き返すことになる。


船大工と言われる時代は終わり、新しく溶接工の時代に切り替わる。



しかし、木造船建造は、人力で船の肋骨を組み立てていく作業であり、力とチームワークを必要としたに違いない。

厳しい徒弟制度は必然であり、そうでなければ、木と格闘して一つの作品など作れるはずがない。



海岸線から見える新造船が月日の経過と伴に、形ができあがっていくのは、造船と関係のない人達にも勇気や夢を与えることができた。





ここまで写真をみて、あることに気がつかないだろうか?
造船所に、必ずあるものが、木造船には見あたらないのだ。



答えはクレーンです。

機帆船を建造する際、ほぼ人力で作業をしていたことになる。

今では当たり前になったクレーンだが、昭和30年代初期の写真には、はまだ見あたらない。



昭和32年6月24日から着工して、3月頃に完成することになると、8ヶ月程度費やすことになる。
この船の名前は、第三 芳栄丸という文字が見える。


造船所にとって一隻の船が完成するということは、子供を送り出すようなものなのかもしれない。

万感の想いで一杯だっただろう。

下の年表でわかるように、

昭和32年(1957)木と鉄による木鉄交造船から鋼船建造に切り替わる

となっている。

鋼船建造に切り替わることは、大量輸送時代の幕開けを意味する。



オチョロ船の終焉と、木造船の停滞

小さな瀬戸の港町にとって激動の時代の幕開けとなる。





現代の船の建造過程を見るには、松浦造船 日記 を是非参考にしてください。

機帆船と対比すると面白いです。





焼玉エンジン船 「ポンポン船」

この音をきけば思い出す人が多いかも




歴史のよもやま話

たまたま、偶然に、古代、中世の歴史の宝庫 関西地方に住んでいるので、歴史の話題にはことかかない。

畿内の歴史的遺跡や寺社仏閣を、歩いて回られている歴史のプロフェッショナルな人と話をする機会がありもりあがった。

プロフェッショナルというのは、単に歴史の本を熟読しているだけでなく、現場もしっかりと押さえている人のことです。

話題は多岐にわたったけれど、

・古代宗教と仏教の関わり
・神社とお寺の違い
・廃仏毀釈で残ったお寺とは
・古代日本人と王族の関係 隼人、土蜘蛛、蝦夷、アイヌ、沖縄など
・三輪大社と出雲大社の位置関係
・古事記にみる神話の時代の検証
・消えた天皇家の歴史と、宮内庁の関係など

特に出雲大社と三輪神社の方角の関係など、初めて知ることが多く驚いたし、大変収穫のある時間を過ごせた。

検索すれば、凄いページにも出会えた。

暗号「山上憶良」
大山祗神社も出てきますよ!

ボリュームもあり考察したいが、一朝一夕ではできない。

※余談が、2日も続くと遊んでいる傾向になる。しっかりと、内容のあるブログにしないといけないと反省する。アルコールが抜けないといけない。

熱病のごとくうなされる

いつものことだけど、短期間の帰省で島の資料館にいくと、色々な想いに悩まされる。

実際、帰省は楽しいものでなければいけないのだろうが、根無し草の私としては、そういった気持ちになれない。

しかし、人間とは、生きるために移住する生き物だから、いわば、蝉の抜け殻のような状態が正しいのかもしれない。

船に関する資料館、特に浪華丸のある大阪の海の時空館には何度も足を運び、そのつど、写真を撮影し、道具、歴史など、メモにしたりして貧弱な知識を肉付けしている状態なのだが、6年ぶりに訪れた木江ふれあい資料館の展示物を見ると、非常に貴重な近代木造船の建造行程が丁寧に展示されており、これを今の時代で調べようと思うと大変な苦労を伴うことになるだろう。

それぐらい、木造船建造の資料は充実している。

館内の委員の人の話によると県内有数だということだ。

そういった、展示物を見るつけ、ふつふつと、交流のあったであろう多くの人たちの姿が、想像だけれど頭によぎることになる。

蝉の抜け殻となった、大崎上島、とくに木江地区だけれど、栄枯盛衰 かっての繁栄を考えると、

「人間っていったいなにを基準に生きるんだろう?」

と問いかけてみる。

簡単な答えだと、

「お金」

なんだろうけれど、それだけでは割り切れない何かが残るのは確かだ。

つまり、それは、間違いなく「歴史」であると思う。

しかし、こういった歴史も誰かが、形にして保存しなければいけない。

また、伝承しなければいけない。

偶然、ネットを扱える訳だし、また、誰も島と文化を関連づけ電子化している人は何年たってっても現れそうにない。

しかし、日本中に木造船との文化を発信している非常にコアな人達が存在している。

彼等の殆どが、目に見えない使命感で動いている。



埋没させることはできないし、誰かが、先鞭をつけなければいけない。

浅はかな力であるが、一矢報いることは、可能である。

長い間 培ってきた歴史を人間の一方的都合で埋没してはならない。

こうなってくると、決して楽しい夏休みにはならない。

そう、いつものごとく、熱病にうなされるがごとくだ。

歴史=人魂は、しっかりと大崎上島に存在している。

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