地域結んだ、旅する櫂伝馬
ひろしまのチカラ!朝日新聞から 2011年01月10日
「旅する櫂伝馬」に取り組んだ大崎上島の青年たち=大崎上島町、高橋正徳撮影
厳島神社の鳥居に迫った「旅する櫂伝馬」=昨年6月6日、廿日市市、旅する櫂伝馬実行委提供
漕ぎ出す 元気ある島へ
赤い大鳥居が近づいてきた。昨年6月6日。約70キロ東の大崎上島(大崎上島町)から宮島へきた全長11メートルの櫂(かい)伝馬(でん・ま)船が、厳島神社の鳥居の下をくぐった。櫂を漕(こ)いできた18人の若者たちは互いにハイタッチして喜びをはじけさせた。島の伝統を島外にPRしようと、初めて企画された「旅する櫂伝馬」。リーダーの藤原啓志(けい・し)さん(26)は胸を熱くした。
大崎上島は周囲60キロ、面積38平方キロ。対岸との橋がない、県内最大の離島だ。だが主要産業だった造船業の衰退で、1965年に2万人だった人口は8500人に。島で生まれた人の8割が、進学・就職先を求め、高校卒業までに島外へ去る。
島内木江地区出身の藤原さんもその一人。福山市の大学を中退し、広島市へ。音楽バンド・扇風機mania(マニア)を結成し、5年前にインディーズデビューした。都会生活にすっかりなじみ、将来が輝いて見えた。
ただ、毎年夏は必ず故郷へ帰った。櫂伝馬船の競漕(きょう・そう)に漕ぎ手として参加するためだ。中世に水軍として活躍した「大崎衆」の流れをくみ、200年以上の歴史を持つ勇壮な神事。だが帰るたび、年々すたれているように見えるのが寂しかった。
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「櫂伝馬船で、今までにない、何かおもしろいことしませんか」。08年8月、藤原さんはインターネットの交流サイトに書き込んだ。島外から多数の反応があり、うち2人の男性が参加してくれた。
呉市の会社員、野村誠治さん(47)と山口県下関市の船員有田翼(たすく)さん(27)。藤原さんは競漕を撮ったDVDを送り、交流を深めた。すると有田さんが「島とゆかりが深い土地を船で結んだら」と提案した。思いがけないアイデアだった。
09年5月、藤原さんは有田さん、野村さんと島へ渡り、同世代の漕ぎ手約10人を居酒屋に集めた。「櫂伝馬船で外洋へ出よう」。波の荒さを心配する人もいたが、「やろう」という声が勝った。島には厳島神社の分社が三つあり、毛利元就が宮島で陶晴賢(すえ・はる・かた)に大勝した1555年の厳島合戦の前、大崎衆が救援に駆け付けた故事も伝わる。だから宮島まで船でいこう――。構想が固まった。
バンド仲間が就職し、一人で音楽活動を続けていた藤原さんだが、“旅”を成功させたい思いが募った。「音楽はどこでもできるが、櫂伝馬は島にしかない」。09年12月に帰郷、町の臨時職員に採用された。
通常、島の祭りは地区ごとに別々だ。だが藤原さんたちはあえて、島中の漕ぎ手に参加を呼びかけた。8~56歳の男28人が名乗りを上げた。その一人、岡本哲和さん(39)は「島の若者が一つになるのは、本当に大きな意味がある」と振り返る。
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455年前に大崎衆が宮島へ旅立ったのと同時期の昨年6月5日、快晴の木江港から、櫂伝馬船が滑り出した。途中で1泊した呉市の阿賀港で地元の子どもたちを体験乗船させた。みんな「大崎上島へ行ってみたい」と目を輝かせた。
2日目の午後からは、岡本さんら先輩世代が宮島の直前まで櫂を引き受けた。「ゴールは任せる。伝馬船を見せてこい」。藤原さんたちは、ラストスパートをかけた。
大崎上島の人々が、ゴールに待ち受けていた。「フレー、フレー、大崎!」。声援が押し寄せた。宮島の住民も「感動をありがとう」と横断幕で迎えた。藤原さんは涙をぬぐいながら言った。「僕たちの島に、素晴らしい祭りと船があります」
7月には愛媛県・大三島の祭りに参加。「島を越えて、仲間の輪が広がれば」。同島や因島(尾道市)で櫂伝馬に携わる人々と交流した。さらに同月、島の夏祭りで伝馬船に腰掛け、打ち上げ花火を見ていた時だった。見知らぬ人たちに話しかけられた。関東などで暮らす島の出身者たち。「旅する櫂伝馬をニュースで見て、久しぶりに帰ってきた。本当にうれしかった」。口をそろえた。
「島はやっぱり不便」と藤原さん。だが、あの旅で確認できた。「櫂伝馬は僕の生きがい。それがある島を、人生をかけて元気にしたい」。今年も、新たな旅を考えている。(中野寛)
≪キーマーク≫広島県の島
海上保安庁によると、県内には約140の島がある。このうち、本土との橋がないなどの理由で離島振興法上の「離島」に指定されているのは大崎上島など14島。1980年に江田島など5島が指定を解かれたのを始め、計14島が離島でなくなった。島と本土間が比較的近く、瀬戸内しまなみ海道など架橋整備が進んだためだ。一方で都市部に人口が流出するストロー現象も深刻で、指定解除イコール島の発展、との構図にはなっていない。