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三つの村上氏の歴史

家船に関して、
・因島(いんのしま)村上氏
・来島(くるしま)村上氏
・能島(のしま)村上氏
の運命と、その後に関して調べていこうと思います。

徳川時代になり、瀬戸内海のルートの安全が確保され、西廻り航路が開発され、飛躍的に海運のニーズが増え物流量が伸びることになります。

※村上氏の姻戚関係は複雑に入り組んでおり、簡単に割り切れないことが多い。また同族の争いもたくさんあり、複雑怪奇である。
活動範囲、交流範囲を考えると、単純に瀬戸内水軍というよりは、対馬を含め海民と捉えたほうが、適切ではないかと思う。

日本国として海外勢力の侵略に備えるため、対馬に防人を置いて徴兵制を敷いていたのだから、当然、畿内本土から太宰府、対馬ルートの海の道(航海技術)は、必要最低限のものだったのだろう。
間違いなく日本は海洋国家だったのだろう。


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櫂伝馬の歴史も近世以降は形骸化していったものと思います。

勉強していきます。



能島村上水軍の本拠地は、能島

島全体が、要塞化され城が造られていた。

しかし、国定史跡になりながら、なんと情報が少ないことか。
この能島城がどんなものだったのか、調べても画像がでてこない。
前の「櫂伝馬の歴史を考察する」で紹介したビデオには、想像図が載っていたので、やはりあのビデオは貴重な資料だと改めて思う。

愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』にも最近の能島が取りあげられている。

昔のブログで、リンク紹介させていただいいた、●瀬戸内和船工房●の工房は、実は能島の手前の鵜島の海岸にある。
ネットで見ていると建物が確認できたので、すぐ側にあるではないか。
なんとも奇遇、というよりは、これは間違いなくネットワークなんだと思った次第である。
決して偶然ではない。

瀬戸内海によくある姓、河野、村上、藤原、は珍しくないけれど、もっとみなさん、歴史を研究し興味をもって頂きたいとお願いしたい。

能島の姿を見ると古老がおっしゃるとおり没落し埋没して恨みの一つも言いたくなる心境は察するに十分である。
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家船とは

村上水軍の話の続きより少し横道のそれますが、

家船とは、いったい何なのか?


詳しくは、ウエッブでは、沖浦さんの書籍「辺界の輝き」に書かれています。




今回は歴史学的な話題ではなく、実体験をもとに家船を書きます。

昭和30年後半の生まれである私は、家船が、どんなものかわかりませんでした。
住んでいる場所が瀬戸内海といえども、造船の町でしたから、家船なるものがどんなものか予備知識もなかったのです。

ただ、当時同じ豊田郡であった豊島の学校に寮があること。
また、遠洋漁業のために子供を預かるための施設であることなど中国新聞の記事を読んでしっていました。

遠洋漁業と言えば、横浜ベイスターズの以前の親会社、マルハなどの水産会社の関連の施設があるのかなと思っていました。

実際は、違っていましたが。

しかし、家船の原形になるものには、祭りの時にのせてもらったことがあります。

小さな木造船ですが、船の中に畳もあれば、ラジオ、テレビまでついていました。

なんとも、贅沢・・・というよりは、船を生活の場にしている道楽の極みだと、無知ながら思っていました。

釣り好きの極みだなと、幼心に思っていました。


恥ずかしいことに、学校教育で、家船のことは教わらなかったし、おちょろ船の話さえも話題にすらならなかった。

農家だからなのかもしれませんが、海のことはほとんど予備知識が備わっていなかった。

まさか船が住居だの夢にも思わなかった。



瀬戸内海は、両極端で、造船の町もあれば、もう一つ違う港を挟んで、漁師だけの町もある。


大三島の知り合いに会えば、「三島には漁師なんておらんのよ。」と言われました。

「魚を殺すことが殺生だから」、だそうです。

櫂伝馬にしても、木江の櫂伝馬は、宮島系、東野の櫂伝馬は、大阪の住吉系、

因果関係もわからず、どうしてこうなったのか、整理が必要です。

支配階級が変更することで瀬戸内海の地域の羅針盤は、少々狂いが生じているのではないかと思います。

本来のアイデンティティを取り戻すことが必要だと思います。





家船の起源など諸説あり似通ったところもあれば、そうでないところもある。
凄く当たり前のことですが、考える上で大切な要素

島嶼部では、開墾できる土地が限られているため、相続する際 限界点が訪れる。
そうなると必然的に漁師になるしか生活が守れなくなる点。

また、彼等は海のプロなのだから、漁業権、縄張りは明確にあったはずである。
そうなると、どこまで限定された海域でカバーできるのか。

これも飽和点があるため、時代と伴に遠洋漁業に向かったのではないだろうか。

実際は国家には、権益の付与に関することだから、こういった資料は残っているのだろうが、しっかりと分析、見極めをしないといけないと思う。

自戒を含め一番いけないことは、混同しないことだと思います。




家船に関しては、色々な文章を読んでいます。
沖浦さんの記述も確かに一理あります。

が、それだけでいいのか という疑問が頭をよぎります。

平家伝説、差別、

う~ん、納得できない。

古代日本は、海の時代です。

畿内から、瀬戸内海経由して、下関を通過して、九州 隠岐の島、対馬まで、

そこから韓国へ

当時の防人に気持ちはどんなものだったのだろうか?

また、瀬戸内海の漁民の漁業区域も対馬あたりもカバーしていた。

また東南アジアの海民に見られる、抜糸、入れ墨などの風習もあったということだから、交易がどうだったのかも、考慮していかなければならない。

単なる差別問題以前に、凄く大きなテーマが現前とあります。

書物の中の活字では、推測できない世界です。

櫂伝馬の歴史を考察する1

いよいよ木江17夜祭が8月1日に開催されます。

祭りのイベントは櫂伝馬競争です。




これについて、色々と考察していこうと思います。
正直に言えば、長くなるテーマだと思います。

また、加筆することによってどんどん修正していくと思います。

櫂伝馬のルーツは、もともと、瀬戸内海の水軍が使っていた小回りのきく偵察用の船だと言われています。

水軍の全盛期は、安土桃山時代、織田信長の時代です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/石山戦争 から引用

木津川口海戦 [編集]

天正4年(1576年)春、顕如は毛利氏に庇護されていた将軍足利義昭と与して三たび挙兵した。
信長は4月14日、明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲した。
しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市中央区)や木津(同浪速区)から海上を経由して弾薬・兵糧を補給しており、信長軍が木津を攻めると、本願寺軍は逆に一万を超える軍勢をもって木津の信長軍を蹴散らし、天王寺砦付近まで攻め入った。
この敗報を聞いた信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発したが、突然のことであるために兵の集結が遅かった。
そのため信長は痺れを切らし、三千ばかりの兵を連れて天王寺を包囲している一万五千余の本願寺軍に攻めかかった。
また、包囲を突破して砦に入ると、すぐさま砦内の兵と合流して討って出た。そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し、石山本願寺に退却した(天王寺合戦)。その後、信長は石山本願寺の四方に付城を、住吉の浜手に要害を設けて本願寺を完全包囲下に置いた。

経済的に封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請した。
輝元は要請に応じ、7月15日に村上水軍など毛利水軍の船七、八百艘(実際は六百艘程度と言われる)が兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れた。信長軍はすぐさま、配下の九鬼水軍など三百余艘で木津川河口を封じたが、毛利水軍は数の利を生かして火矢や焙烙玉(中に火がくすぶっており、目標に当たると中身が出て一気に燃え広がる武器)で信長軍の船を焼き払い、大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けた(第一次木津川口海戦)。信長は仕方なく、三方の監視のみを強化して一旦兵を引いた。

瀬戸内海の島々、沿岸部は熱烈な浄土真宗の信者でした。
安芸門徒も浄土真宗です。

この戦いで村上水軍の力が誇示されることになり、これを見ていた側近であった、豊臣秀吉は、信長亡き後、瀬戸内海の海賊封じを徹底します。

陸路はまだ整備されていない時代ですから、大量輸送に大陸や九州などの物流ルートとして瀬戸内海の海上ルート確保はもっとも政治的にも優先しなければいけない重要政策のひとつでした。



1588年豊臣秀吉は刀狩(かたながり)令と同日に3ヵ条からなる〈定〉で発令。以前に出していた海賊停止令の徹底を図るため,土地の領主に浦ごとの海民調査,海賊行為をしないとの誓約連判状の提出を命じました。

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海上賊船禁止令

一、諸国海上において賊船の儀、堅く停止の処、今度、備後伊予領国の間、伊津喜嶋にて、盗船仕の族、これあるの由、聞食され曲事に恩食事

一、国々船頭猟師、いづれも舟つかひ候もの、その所の地頭代官として、速に相改、向後、聊以て海賊仕るまじき由、誓紙申付、連判をさせ、其国主とりあつめ上げ申すべき事

一、自今以後、給人領主油断致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所、知行以下末代召上らるべき事、右条々堅く申付くべし、若違背の族これあるにおいては、忽厳科すべき者也


天正十六年七月八日   秀吉
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要約すると、
諸国の海上において速やかに海賊行為を辞めよ。備後・伊予両国の間の伊津喜嶋(斎島)にて盗船をした族がいることを秀吉は聞いた

国司は速やかに、国々浦々船頭猟師、いずれも船を使う者は今後は絶対に海賊をしないという旨の誓詞を書かせて、それを取り集めよ

これより、海賊の輩が出没したら成敗を加え、さらにその領主の在所・知行を末代まで没収する


斎島とは、現在は呉市になった斎島であり、秀吉の政略により、斎島の島民は皆殺しされたとあります。


ほとんどの歴史書はこの部分は触れていません。

また、この海上賊船禁止令は、瀬戸内海、特に村上水軍一族の長い差別の歴史の始まりともいえます。

瀬戸内海で島々でも現在でも櫂伝馬競争が残っているところがありますが、歴史的考察はせいぜい江戸時代ぐらいからであり、瀬戸内水軍との歴史的背景や因果関係には、触れていません。


参考サイト
この東京財団の動画 海賊 村上一族 盛衰記(約40分)は、瀬戸内海の村上水軍の歴史を考察する上で非常に貴重な映像ですので、是非ご覧ください。
海賊 村上一族 盛衰記
村上水軍博物館
http://www.1101.com/shinran/index.html
http://www.enjoy.ne.jp/~toyohama/bunka.htm

瀬戸内海の天候

大崎上島を含め、瀬戸内海の島々は歴史的に干ばつに苦しめられた苦い経験がある。

石高が近世以降、財の標準価値基準となり地域で連座制がしかれた近世以降は、不作は農民にとってもその村にとっても生きるか死ぬかの大変な心配ごとだったろう。

これを連想させる話が、江戸時代の逸話として残っている。

有難いことに、旧東野小学校がこのテーマを取りあげている。

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「直兵衛の首切りもち」の話 

むかし,浪速(いまの大阪)に,直兵衛というひとりの船頭がおった。生まれは大崎島という瀬戸内の小さな島である。

 ある年の暮れ,直兵衛は九州の殿様のご用で年貢米を大阪の蔵屋敷へ船で運ぶことになった。

 直兵衛はさっそく,荷を積んで船出をした。

 日よりも良く,潮にもめぐまれ,船は順調に進んで,直兵衛の生まれ故郷である,大崎島のあたりまで来たのは,船出してから四日目の夕方のことであった。

「永いこと島に帰らんが,みんな達者かのう。」

 直兵衛がなつかしい思いで島のあたりを眺めておると,島の磯のあたりで,四,五人のものが,なにやら白い布のようなものを,しきりに振っておるのが目についた。

「おうい・おうい」
 耳をすますとかすかに声も聞こえてくる。

 どうやら自分の船を読んでおるらしいが,大事な御用米を運ぶ途中じゃむやみに,寄り道するわけにもいかん。

 そのまま,船を進めておったが,自分の生まれた故郷でもあるし,それに,なにかわけがありそうにも思えたので,立ち寄ってみることにした。

「おう,直兵衛さんの船じゃったんが,これはよかった。」
「よう島へ上がっておくれんさったの。」
 いそに出ていた顔見知りの村人たちは,直兵衛の姿を見て,泣かんばかりによろこんだ。

「わしも,しばらく島に帰らなんだが,みんな元気か。」
「元気なもんか,見てくれ,この骨と皮ばかりのからだを。」
「そういえば,そうじゃ,いったい,どうしたというんじゃ。」
「お前さんの船を呼びとめたのも,実は・・・・・・。」
と話し始めたわけというのはこうである。

 その年,瀬戸内の島々は近年になり日照り続きで,とくに大崎島はひどかった。
 梅雨になっても雨が少なく,降ってもおしめり程度で,田植えはできんし,飲み水にもことかく有様じゃ。

 困った村人たちは,山に登って火を焚き雨乞いもしたが,日照りはいっそうひどくなるばかり。

 ふだんでも食料の乏しい島のことでそのうち,わずかの蓄えも,すっかり食いつくしてしまった。

「正月も近い,なんとかせにゃ,島中がみんなかつえ(飢える)死んでしまう。」
 村人たちが直兵衛の船を見たのは,そんなときであった。

 直兵衛は話を聞いているうちに,村人が自分に,なにを頼もうとしておるかが,すぐにわかった。

 船に積んでいる米をわけてくれというのである。

「直兵衛さん,通り合わせたのも,なにかの因縁とおもうて,どうか,わしらを助けてつかあさい。」
 村人たちは,直兵衛の前に土下座して頼んだ。
 直兵衛は困った。

 しかし,話を聞いたからには,ほうっておくわけにはいかん。
 それかというて,大切な御用米に手をつければ,自分はおろか,家族まで殿様から,厳しいおとがめを受けるにきまっておる。

 困り切った直兵衛は,
「ひと晩考えさせてくれ。」
と村人に頼んだ。

 あくる朝,直兵衛は村人たちの案内で,村のあちこちを見て歩いた。

 話の通りその荒れようは,ひどいものであった。

 昔,小ブナをすくった小川は,川底を見せ,遊び回った野山の草木は,からからに干からびている。

 腹をすかした子どもたちの姿は,直兵衛の涙をさそった。

 船に帰った直兵衛は,すでに心を決めていた。(船の米を,一粒残らず村人にあたえよう。殿様には,船が沈んだといえばいい。それでなお,罰せられても,島のためならかまわん。)

 その夜,直兵衛は年貢米を,一粒残らず島におろすと,船に穴をあけ,海の底に沈め,難破船にみせかけたのであった。

 そして,船が沈んだのを見とどけると,自分は,いそぎ小舟に乗って,九州の殿様に報告にいった。

「わたくしの不注意から船を難破させ,大切な御用米を海に沈めてしまいました。このうえはいかようにもおしおきくださいませ。」

 ところが悪いことに,うまく沈めたとおもうた船が,そのまま伊予(現在の愛媛県)の大洲に流れついた。

 そして土地の役人に調べられ,その船が直兵衛の船であること,そして,積んでいた御用米を,全部村人たちに与えたことなどが,次々に調べられてしまった。
 直兵衛はすぐに,役人にとらえられた。

「お上の年貢米を無断で分け与え,その上,船を難破船に見せかけるなど,お上をあざむく,ふとどきな所業である。」
というて,たちまち死罪をいいわたされた。

 だが,もとより死は覚悟の上,直兵衛は後悔せなんだ。
 はりつけの刑は,村人たちの見せしめもあって,直兵衛の生まれ故郷である大崎島の脇の浦でとりおこなわれた。

 文政九年(1826年)十一月二十六日,直兵衛,三十三才の若さであった。

 遠くから見まもっていた村人たちの嘆き悲しんだことは,いうまでもない。

 村人たちは,役人の帰ったあと,こっそりと直兵衛の亡きがらをもらいうけて密かに弔いをすますと,その骨を,近くの浄泉寺山に手厚くほうむった。

 そして,それからのち,村人たちは,直兵衛をいのちの恩人として,永く供養すると共に,命日の十一月二十六日はいうまでもなく,六のつく日には直兵衛さんにすまないといって,「もち」をつくことを避けるようになった。

 この習わしは,いまでも残っていて,もしも六のつく日に,「もち」をつく者がおると,<直兵衛の首切りもち>といって,その人をさげすむという。


広島の民話 再話・大町美智子氏
以上原文のまま転記
中国放送「ひろしまの民話」より引用

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瀬戸内海の島々を歩けば米作に適した畑などなく、耕作率を高めるためには、山を開墾し段々畑にすることになる。



大崎上島も今では森に戻ってしまったが、こういった海の見える山に入ると突然、段々畑にでくわしたことが何度かある。



信じられないぐらい急斜面に石組みの畑が突如として落ち葉の下から現れた。
いつ放棄されたのか見当はつかないが、先人の苦労は大変なものだったのだろう。

島とさつまいもの関係もわすれてはならない。

山口方面に人に言わせると「大島の芋食い」という言葉があるそうだ。
大崎上島の海を挟んで、大三島では「三島の芋食い」という言葉がある。

天候に左右され米作に頼ってばかりでは人口を維持できない瀬戸内海の島々にとって、長期保存がきき、カロリーが高く、生産性の高い作物の登場で人口が維持できることになる。殺生を禁じていた初期の仏教の影響も色濃く残っていただろう。

いまだに瀬戸内海の降水率と人口の変化など学問として研究してくれる学者はいない。

※写真は、山田洋次監督の映画「故郷」から
 この映画のレポは「映画 故郷の真実」というタイトルで別項で書こうと思います。


参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/故郷_(映画)
http://ja.wikipedia.org/wiki/サツマイモ

消えたオチョロ船 井伏鱒二


昭和30年前半に井伏鱒二が、友人と木江の町に訪問された時の実話をもとにされた小説です。

実名で出てきますが、当時のことを地元の人も殆どしらないぐらい認知されていない小説です。

参考になりましたので以下、要約した文章で載せます。(20%要約)※

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 瀬戸内海における広島蜜柑の主要産地、大崎島に行こうじゃないかというので、出かけていった。
大崎島は大崎上島と大崎下島に分かれ、どちらでも内海通いの船乗りたちの間にはオチョロ船で馴染みの深かった島である。オチョロ船は港に停泊している船に遊女を配ってまわる船であった。上島では、明治二十年代から木ノ江港とメバルという港に存在し、下島には、慶長年間からずっと御手洗という港にあった。「木ノ江も御手洗も、オチョロ船のために栄えていた港だということだ。今では御手洗も木ノ江も、亡びて行っている港町に違いない。と、私は初め丸山君にそう云ったことであった。

その船客は、反対側の島を指差して云った。
「あの島です。または毒瓦斯製造島です。」

秀山を持った島であった。




この港にも、四年前までは六艘のオチョロ船がいたそうだが、今では景気のいい港とは思われない。
町は海沿いに続く一本町で、ところどころに以前オチョロ屋であったという二階づくりの大型の家がある。陸の二つの出っぱりが港の水を両側から抱へ、東側の出っぱりを一貫のハナ、西側の出っぱりを天満のハナと云い、そこに西と東のオチョロの検番があったそうだ。
沖芸者が即ちオチョロである。
「オチョロ船は日没から出没して、日の出に活躍を終わります。」と局長さんが云った。
「日没になると、オチョロ船は女を四人五人と乗せ、置屋のおかみが、一緒で酒や料理なども積み、停泊して船に漕ぎつけます。 局長さんの話では、木ノ江の町は、木ノ江千軒と云い、木造船の造船所として栄えた町で、これにオチョロ船がいたから停泊する船で尚ほ栄えていた。
止むなく木ノ江に船を着けることになる。」
お庵主さんはそう云って、
「あの望楼の上から、オチョロ船に合図をしていたのです。」と局長さんが云った。
「オチョロ船が勢揃いすると、あの望楼で赤い旗を振る。すると、オチョロ船は、停泊している船を目がけて順番にこぎだして行くのです。または、女の馴染みの船員の乗っている船に漕いでいくのです。夕方になると、天満のハナのオチョロ船と、一貫のハナのオチョロ船が波止場の前あたりにずらりと一列に並ぶ。
オチョロ船は幅五尺に丈三間の、船脚の速い尾形船である。
さっとばかりに目的の船に向かって突き進んで行く。
と局長さんが云った。
 私はオチョロ船の実体を見ておきたいと思ったが、今ではもう原型のままのものは一艘も残っていないということであった。
局長さんは岸壁の上からいろいろと物色して、昔のオチョロ船の成れの果てだという一艘だけ見つけてくれた。
「それからオチョロ船のほかに、夜なきうどんの船もありました。あの船がその名残です。」
これはウロと云って海上の雑貨船である。
と、停泊している船に呼びかけて漕ぎまわる。
町自体が、希望を持ちたいのです。つまり、町自体が……。」

 局長さんはその後を云わなかった。不況は、木造船がすたれたこと、オチョロ船の消滅したことに大きく由来するらしい。

と云っていた。






 内海通いの船乗には、オチョロ船の魅力は一種格別のものであった。
次には船のロープを売り払った。
次に、「また七日」で船の錨を売り、次にコンパスを売り、最後に船を売り、オチョロを身請して木ノ江で世帯を持った。

 私は木ノ江のオチョロに関する記録を見たいと思ったが、局長さんは以前から蒐集して来た資料をすっかり無くしてしまって残念だと云った。

御手洗は大崎下島の主要港であって、ここには享保以来の若胡屋という代表的なオチョロ屋があった。
現在、その建物は御手洗の町の公民館として残されている。
長崎在住のオランダ商館長ウエールスも、江戸参府のときこの港に寄っている。

「九日、午後四時、御手洗に着す。他の三十隻の船と並んで碇を下ろす。 この愛の女神を乗せた船は、後世のオチョロ船と同一のものであったかどうかわからない。
御手洗には四軒あった。これは日本風のやりかたである。当時、御手洗にはあらゆる階級の者が寄っていた。
 長崎出島にいたオランダ人たちのうち、私たちに一ばん馴染みが深いのはシーボルトという名前である。夕方、御手洗から三里ほどの沖に碇を下ろす。
 ここで御手洗の町年寄が、酒席におけるオランダ人の談笑ぶりを書きとめていないのが残念である。

 蘭茶は若胡屋と藤屋の旦那が貰い、二葉屋の旦那だけ貰っていないのが、納得できかねる。
いつごろ茶屋がオチョロ屋と云われるようになったかしらないが、その経営のありかたは江戸時代の昔から大して変わってはいなかったろう。
元禄五年、ケンブエルの見たという「愛の女神」を乗せた船は、オチョロ船とは似た性質のものではなかったろうか。

 老船頭はそう云って、問わず語りに木ノ江における体験談を話しだした。
 私はその話を聞いて初めてオチョロ船というものの存在を知った。
 さて、私はその老船頭にオチョロの話を聞いてから、四十年目ぐらいにオチョロ船の本拠地木ノ江に行ったわけである。


業者も町の人もたいていそう思っていたそうです。木ノ江だけは大目に見てもらえる。 この町の人は別に運動もしなかったが、新聞人たちが来てオチョロ船を写真にとったりして運動の代弁をしてくれたそうである。

 私と丸山君は、町や密柑山を見て宿に帰った。
ちょっとした耕作のときなどには朝早く船で大長の村を出て、朝飯は船のなかで炊き、船のなかで食っているそうだ。
福山市の村上さんが私に資料を貸してくれるとそう云った。


参考
もう二度と戻らない、艶めく街のさざめき。江戸文化研究・法政大学教授/田中優子
http://ja.wikipedia.org/wiki/井伏鱒二

大崎下島 御手洗
http://shimaokose.blog.shinobi.jp/Entry/245/
http://shimaokose.blog.shinobi.jp/Entry/246/
色彩の魔術師 緑川洋一
記述が少しひっかかるところがありますが・・・・。

れきみん瀬戸内講座のお知らせ 第2回 「大崎上島の櫂伝馬競漕」

れきみん瀬戸内講座のお知らせ 第2回 「大崎上島の櫂伝馬競漕」

発表日:2009年2月4日
 瀬戸内地方の歴史・文化について紹介する「れきみん瀬戸内講座」(全3回)の第2回。今回は、広島県大崎上島の櫂伝馬競漕について、わかりやすく説明します。
【講座の概要】
 広島県大崎上島の旧東野町(現 大崎上島町)では、毎年8月13日の住吉祭の日、各地区の若者たちによる勇壮な船漕ぎレース・櫂伝馬競漕が開催されています。櫂伝馬競漕は、芸予諸島を中心に広く瀬戸内地方の島々や海辺の村々で、神社の祭礼の際に行われてきましたが、戦中・戦後にその姿を消したものも少なくありません。
 本講座では、地元の人々の熱い思いによって、歴史と伝統を守りながら、今なお盛大に行われている大崎上島の旧東野町の住吉祭と旧木江(きのえ)町の十七夜祭(厳島神社)の事例を紹介しながら、櫂伝馬競漕の意義と課題について考えます。
【日 時】平成21年2月28日(土)13時30分~15時
【会 場】瀬戸内海歴史民俗資料館(五色台・高松市亀水町1412-2)
【講 師】当館専門職員 川東 芳文
【演 題】「大崎上島の櫂伝馬競漕」
【定 員】45名(申込み順)
【聴講料】無 料
【申し込み方法】
 電話、ファックス、もしくははがきで瀬戸内海歴史民俗資料館(香川県立ミュージアム分館)へお申し込みください。はがき、ファックスには講座名・氏名・住所・電話番号を明記してください。
【申し込み先】〒761‐8001 高松市亀水町1412-2 
              瀬戸内海歴史民俗資料館
       TEL 087‐881‐4707  FAX 087‐881‐4784
※「かがわ電子自治体システム」(香川県ホームページの「電子申請・施設利用申込」から)
 を利用したインターネットからの申し込みもできます。
(かがわ電子自治体システムURL  https://kds.pref.kagawa.jp/)

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