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温故知新


PJニュースで穂高 健一さんが記事を書かれていた。

秋の旅路、瀬戸内沿岸の歴史を訪ねて(7)=木江港・広島県

氏の望郷の念は、雑誌 島へ のなかにある小説「海は燃える」のなかでも如実に表現されている。

同郷の人間として、身に浸みる思いだ。


PJニュースは他にも写真家の滝アヤさんも、ちょくちょく写真を撮影掲載していただいている。

斉藤潤さんも、生野島関連で、恩師の息子さんと知り合いと、とかく世間は狭い。

とにかくも、インターネットの恩恵は、色々な人と接点をもてることだ。



島へ。5月号


消えたオチョロ船 井伏鱒二


このブログも記事が346にもなり、ブログについている検索機能を使って過去の記事を参照するようになった。

どうしても一覧性もよくないし、かといって手抜きはできるのでブログを使っているけれど、正直いって管理できていない。

過去、自分の書いた内容に驚くことが多い。
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北前船みちのく丸






海に浮かぶ

そして現役で快走するみちのく丸の雄姿を見ると爽快です。

大きなドームに眠っている浪華丸はどう思うのだろうか。

巨大和船は文化行事に使ってこそ

その雄姿をみてこそ

如何に江戸時代の日本独自の和船の建造技術が、ユニークであったか理解できるだろう。

出来ることなら、櫂伝馬と併走している姿をみてみたい。

和船

まきはだの由来

ネットワークの話

和船が櫂伝馬が無くなる日

この島の船の文化は流出している

中之島周辺

大阪天満宮を降りて散策
難波橋を通る
雁木をみると、落ち着く。
海水と河の水が混じるのだろう。
磯の香りがほのかにする。




やはり瀬戸内海人



貴重な橋なんだろう
大理石でできた立派な橋だ。
文化とは、人と人のリレーションシップに他ならない。



大阪市中央公会堂



大阪には珍しく、この三角州には貴重な文化財がたくさんある。
何もかも、コンクリートに占領された、大都会の中で、違った空間を保っている。

これも人の一面に違いない。

若胡屋の手形

大崎上島とは、直接は関連ありません。
私のページを検索されるときに、キーワードにされることばが、2つあります。
ocyoroとebuneです。
知った方は、そういった部分を避けるため、キーワードを外したり細工をしています。
今回は、ocyoroに関することですが、一部抜粋します。宮本常一さんも著者のひとりです。


若胡屋の手形

 御手洗の茶屋でいちばん多くの遊女を抱え、構えももっとも大きかった若胡屋の建物は、現在広島県史蹟に指定され、内部を改造して町の公民館になっている。
その二階の部屋の壁の一部がガラスでおおわれて保存されている。
血痕の手形がついたのを後世に残そうとしたのである。
これが、町の人々によって、語り伝えられている「おはぐろ事件」にまつわる手形である。
 若胡屋の売れっ子で今をときめくある遊女が夜の化粧を急いでいた。
客の矢のような催促にいらいらと鏡をのぞくが、どうしたことかその日は化粧がうまくのらない。遊女がいらいらしているのを気づかいながらも、傍らで手伝っていた禿はおずおずとし、
「おいらんえ、おはぐろをつけなさんせ」
とハグロを差し出した。

遊女はそれを歯につけようとしたがどうしてもうまくつかないのに癇癪をおこしたおいらんは、ハグロの容器をとりあげると、あっという間に禿の口へ煮えたぎるハグロを注ぎこんでしまった。

禿は苦しみに狂い、その部屋をのたうちまわりながら息をひきとった。
その翌日かのら、遊女が化粧をと思い、鏡をのぞくと、
「おいらんえ、おはぐろつけなさんせ」
という禿の声がどこからともなく聞こえてくる。
夜ごと日ごとに禿の亡霊になやまされつづけなければならなくなった遊女はいたたまれなくなって、じぶんの罪滅ぼしと禿の冥福を祈るために四国順礼を思い立って旅に出た。

御手洗から船に乗って四国の今治に上陸して、順礼の途についたとき、
「おいらんえ、ここからは独りでゆきなさんせ」
と禿の声がして、それからは禿の亡霊に悩まされることがなくなった。

若胡屋の手形は禿が苦悶したときについた手形であるといわれている。
伝説として伝えられてきたこんじょ「おはぐろ事件」の真相は、いまさら明らかにすることではないが、売られた者の集まりで、まったく自由のない遊女の社会にはこのような事件のおこりうる空気は十分にあったといえよう。

当時この町の遊女は一般に足かけ十二年、満十年が身売りの期限とされていて、平常の勤めは、昼間は「かり」と称して、客につれられて宿屋や船へ遊びにゆき、夕方からは茶屋に帰ってきて、夜のみせを出し、そのころの流行歌をうたい、三味線や胡弓をひいて客を待つのがその生活であった。

これら遊女は宗門改帳では茶屋の下女として登録されていて、法的にも御手洗町の住民となっていたから、町役人の著名した「送り手形」がなければ、他の村や町に住みつくことはできなかった。

過去帳の中の女

御手洗に四軒の茶屋が公認されていた。そのうちの若胡屋と藤屋の過去帳が残っている。その過去帳をみていくと、多くの遊女の名を見出すことができる。
若胡屋には、百七十人、藤屋には八十人の遊女が仏としてとむらわれている。
他の二軒のを合わせると明治初年までに、約四百人あまりの遊女が御手洗の土と化した物と考えられる。
若胡屋の過去帳によると、寛政九年千七百九十七年七月二十三日に「八重紫禿志げ」が死亡し、それから一ヶ月半ほどたった九月九日に、「八重紫」が死亡している。享保から明治初年にわたるこの過去帳の中で禿の名に彼女が仕えたおいらんの名を付しているのは、「志げ」の場合だけである。
普通は、「禿七十郎」とか「禿三之助」とか書きとめているが、「志げ」の場合だけが「八重紫禿志げ」と特別に記入されている。
禿「志げ」が死亡し、後を追うように、「八重紫」が死亡しているのと考え合わせても、もしかすると「八重紫」と「志げ」の死に際しておこったのが、前述の「おはぐろ事件」ではなかっただろうかと想像たくましくしてみたくもなる。

もちろんこのことをいまさら証明することはできないが、禿「志げ」とおいらん「八重紫」の死には特別な関連があったように思われる。

 このほか過去帳には多くの悲しい運命を背負って死んでいった遊女たちの名が書きとめられている。
年季が明けるの唯一の望みとしながらも、夜毎にむしばまれていく肉体と精神、ついに朽ち果てて、故郷の肉親にあうこともできないまま、内海の小島御手洗に若き生涯を閉じた者たちである。また遊女も過去帳に名を連ねている。産児制限の術もなかった当時は、好むと好まざるにかかわらず生まれてきた子どもも多く、これら父のない子は茶屋の子として、育てられ、母が何一つ親らしいこともしてやれないこの子らに幸福のあろうはずもなかった。

 明和二年(1,765)六月二十三日八重桐の娘が死亡し、八月四日には母の八重桐が死亡している。娘の死を悲しみ、わが身の悲運に泣き、生きる力もなく死んでいった母親としての遊女の悲劇の一端が痛々しく推察される。

 わが身であってわが身ではない、これらの売られてきた遊女は、そのほとんどが年貢未納や借金に苦しむ農村村の貧困のなかから、家の犠牲として肉親の身代わりとなって悲惨な生活に追い込まれた者であった。

 悲惨な生活を送りながら年季明けた遊女がたどる一生は、たとえ自由な身になったはいえ、けっして安楽な道ではなかった。

彼女たちの犠牲のうえに港町は繁栄をつづけることができたが、その港町も幕末から明治にかけてしだいに衰微の一途をたどらなければならなかった。




遊郭は日本全国にありましたが、こうしたことが200年以上にわたり、小さな島で繰り広げられ、その後、どういった形で、島の精神に影響を与え文化風土を残したのでしょうか。

御手洗の古い町並みや、鴻池の寄進した石燈籠の見方も変わってくると思います。

御手洗関連の映画

昔の写真

掲載していなかった写真を載せます。


木江には、古くて貴重な三階建の旅館が、以前はありました。
場所は、天満港のすぐとなり。

水上花火を眼前にみることのできる最高の場所です。
大きな石垣を縁側に敷き詰めた立派な風貌の高級旅館でした。
実は、この旅館に足を運んだことはないけれど、
海から見える風景を考慮した、最高の建築物の一つだったことは、頭の中で想像できます。

記憶が定かではないけれど、昭和四十年後半?もしくは、五十年前半頃?に、
この旅館を解体する時がきました。

大きなブルドーザーが、大きな庭石を壊している光景に出くわしました。

決して、痛んでいない手の行き届いた綺麗な旅館なのに、
「どうして?」と疑問に感じました。

こんな立派な旅館が、解体されていく風景は忍びないです。

下着姿のおじさん(おそらく所有者の方)の、複雑な表情が今でも忘れられません。

木江の名物の一つが時代の波とともに、消え去った瞬間でした。

三十年以上前の当時の記憶が頭に残っています。
おじさんにとっても、私にとっても、共有の宝物でした。




この写真も、木造船と学生さん?の記念写真なのだが、解説を写すのをわすれていたので詳細は不明です。

ドッグがない時代だから、手動ウインチで船を沖からあげて修理をしていたと思います。
ということは、昭和三十年前ではないかと推測します。

リンクをはって頂いている松浦造船所ではないと思います、が、どうなのでしょうか?

造船マンのせがれでない私が、船のことをある程度理解できるのは、制作過程を目の前でみていたからです。


特に面白かったのが、材木を曲げるバナーの炎を使った作業です。

材料である木造の仕入れ業者もあり、関連資料もあります。
許可が下りれば是非載せたいなと思います。

造船の町で育った人間は、船のことが、多少なりとも身に染みついています。
造船の盛んな時代は、木江造船高等学校に、近隣の島々、造船所の息子が遠慮はるばる明日の船を夢見て通っていました。



夢の語らいはネタが尽きません。

今でも残っている貴重な建物も、有効活用を考えようと利用申請しても、消防条例など制限がかかり、使えないそうです。

果たしてそれは正しい判断なのでしょうか?

風化する前に利用を許可する英断が必要だと思います。

もし、その建物に昇って窓を開けたとき、
今まで見たことのない海の風景が目の前に飛び込んでくるかもしれません。

船大工の作った家 
当時の棟梁との会話が時を超えてできるかもしれませんね。


故郷

ずっと前のブログに、故郷のことを書いたまま、それ以後なにも触れてなかったので書きます。

故郷(ふるさと)は、1972年に、松竹が制作、公開した山田洋次監督の作品。
瀬戸内海の小島で石の運搬をしている一家が工業化の波に押され、島を出て新天地で暮らすことを決断するまでを描いた作品。
舞台となった広島県倉橋島に長期滞在し、島の住民を多く登場させるなど、家族同様ドキュメンタリーの手法も交えて撮った。いわゆる民子三部作の第二作。

製作:島津清 
監督・脚本:山田洋次 
脚本:宮崎晃 
撮影:高羽哲夫 
音楽:佐藤
勝 出演:倍賞千恵子/井川比佐志/渥美清/前田吟/
田島令子/矢野宣/阿部百合子/


撮影場所倉橋島



あらすじ - 故郷 gooから引用

瀬戸内海・倉橋島。精一、民子の夫婦は石船と呼ばれている小さな船で石を運び生活の糧を得てきた。
民子もなれない勉強の末に船の機関士の資格をとった。決して豊かではないが、光子、剛の二人の子供、そして精一の父・仙造と平和な家庭を保っている精一に最近悩みができた。
持船のエンジンの調子が良くないのである。
精一はどうしても新しい船を手に入れたかった。
そこで世話役に金策の相談を持ちかけたが、彼は困窮した様子を見せるだけだった。各集落を小型トラックで回り、陽気に野菜を売り歩いている松下は精一の友人で、精一の悩みを知って慰めるのだが、それ以上、松下には何の手助けもできない。
精一は大工にエンジンを替えるにしても、老朽化して無駄だと言われるが、それでも、夫婦で海に出た。
その日は、海が荒れ、ボロ船の航海は危険をきわめ、夫婦の帰りを待つ家族や、松下は心配で気が気ではなかった。
数日後、万策尽きた精一夫婦は、弟健次の言葉に従い、尾道にある造船所を見学し、気が進まぬままに石船を捨てる決心をするのだった。
最後の航海の日、夫婦は、息子の剛を連れて船に乗った。
朝日を浴びた海が、かつて見たこともない程美しい。精一は思い出した。
民子が機関士試験に合格した日のこと、新婚早々の弟健次夫婦と一家をあげて船で宮島の管弦祭に向った日のこと。楽しかった鳥での生活が精一のまぶたをよぎった。
翌日、尾道へ出発の日である。別れの挨拶をする夫婦に近所の老婆は涙をこぼした。連絡船には大勢の見送りの人が集った。松下も駆けつけ、精一に餞別を渡し、山のようなテープを民子たちに配り陽気に振舞った。
大人たちは涙をこらえたが、六つになる光子だけは泣きだすのだった。
やがて、船が波止場を離れた。港を出て見送りの人がだんだん小さくなっていく。
精一と民子は、島が見えなくなっても、いつまでも同じ姿勢で立ちつくしていた。






今はほとんど目にすることのなくなった機帆船。焼玉エンジンを回すところが、映像にでてくる。
石船は、てこの原理でデッキに乗せてある石を船を傾斜させて海中に投機する方法です。
実際、何度か見たことがありますが、知らない人が見ると船が転覆したのではないかと錯覚します。砂利船は、関空の埋め立ての土砂を取るため、二五年前ぐらいにみたことがあります。



若かりし時の井川比佐志さん 、そして大女優の倍賞千恵子さん
労働者の日常生活にあった、苦しさ、楽しさの一瞬を適確に逃さずに演じています。
演技とは思えない。



1,972年より前の、倉橋、広島市中心街の風景も出てきます。




オイルショック前の造船所の風景です。
昔よく目にしてことのある、機帆船の修理風景
そして、尾道周辺の造船所防御フェンスをしています。
錆び落とし、塗装に入るのでしょうか?



尾道の造船所を訪れたときの会話です。
「船長と労働者の違い」

大事なシーンですが、具体的内容は載せません。

幼子の前での、作業シーン
当時は、両親共働きで、子供の面倒を見れない場合は、仕事場に連れてきていました。危険と隣り合わせです。
経験のある方なら、ご理解頂けるはず。



帰港途中に見た、廃棄されている燃える石船
時代の波に、翻弄され続けた人生に対して、語りかけてきます。

コメントは控えます。



新造船の時の大和丸の記憶・風景が蘇ります。
時代の光と影です。

尾道に転勤するためのお別れとシーン
生活のため転職、郷土を後にするシーンです。

実際に経験することが多かったです。



倉橋での撮影風景も今はかなり変わった様です。



この映画は、何をつかんで頂きたい、是非見て欲しい映画です。
山田洋次監督には、是非今後の作品を期待したいと思います。


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