初代社長は、松浦積五郎で、明治十五年から十六年頃、東野村小頃子より新興の港町鮴崎に移住し、出入りの多くなった船舶を相手に、鉄工業を営んでいた。
明治十七年鮴崎で長男良一が誕生し、同三十七年に日ロ戦争が勃発した。
良一は、丁度二十歳で徴兵検査を迎え、海軍機関兵として入隊することになった。
幸い海軍に於いて新しい機械のことや船に関する勉強を積み重ね、無事退役することができ、早速父の片腕として、鉄工業の修行をしていたが、当時海運業の発展に伴い帆船の錨の需要が増えたので、船舶金物だけでなく、大和型錨の製造販売に力を入れるようになった。
こうしたことから、若かった良一は錨の研究に熱を入れるようになり、明治四十三年(1910)には、新しく合理的な、「松浦式折曲軽便錨」を考案した。
若者の夢は特許を獲得しようと思い立ち、四十三年、東京の特許局に申請したのである。
ところが、翌四十四年、雛形の見本を提出せよということになり、早速送ったところ、同年、六月十四日「特許二〇一四二」の登録済みの通知をいただいた。
誠に嬉しいことである。
この避辺の小さな港町の鉄工所で、とにかく特許をいただくようなすばらしい錨ができたのである。
大崎島としうても本当に、一つの自慢の種であったのに、情けないことに折角の錨があまり知られず、販売も僅かのまま消えてしまったということで、返す返すも残念に思われることである。
しかし、当時の鮴崎の様子を探ってみると、錨の材料である金物はほとんど尾道市から購入していたようである。
尾道から取り寄せるためには定期船がないから、尾道行きの、渡航船に頼んでいたことであろううか、風がないと櫓をこぐのだから、一日で帰られず、回数が少なかったことが想像される。
大正二年(一九一三)になって、御手洗港から尾道通いの定期船北川丸が就航するのであるが、何といっても錨の材料も製品も重い鉄で、桟橋がなく、「通い船」という小さな伝馬で運搬するのだから、若い力のある者でないと役にたたない。
明治末、鮴崎の人口が何人いたことやら、労働力の確保、資金の借り入れ、製品の販売、宣伝など、何一つも、やすいのがないから、思うにまかせず、交通不便な、田舎の小さな鉄工所では、さすがに、特許品の生産販売すら難しかったのである。
かくて、松浦鉄工所は大正になって、第一次対戦の造船ブームでほかの鉄鋼製品を作り、大正八年(一九一九)すでに鉄鋼造船所に転向し、今日に至るのである。
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温故知新
この島で、明治に錨の特許がとれていたことを初めて福本先生の本を読んで知ることができた。
大崎上島の隠れた精神の一部、フロンティアスピリットが垣間見れる。
是非、こういった先人の歩んできた事例は、教育にも活かして欲しいと思う。
先人達の歩んだ精神はこの島の造船に息づいている。
小池造船海運株式会社エアクッション船
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