仕事の関連で、観光の主査と話しをしていると、
「今度のツアーは、広島だよ」
ということだったので、
「どこですの?」
という問いにたいして、
「竹原」
という答えが返ってきた。
ずいぶん、田舎に近いな~と思っていると、その横のファックス用紙に
なんと、清風館!
「○×?」
清風館とは、木江の清風館でした。
「旭区の連中を かれこれ、10数年前から連れて行っているんだよ。」
と自信満々に答えられました。
櫂伝馬のビデオをパソコンにいれていたので、参考に放映
旅する櫂伝馬の話題もしましたが、ルートを教えると、距離もほぼぴったり指摘
しかも、それがあたっている!
さすが、観光のプロ
橋の話、地理の話、大三島、とびしま街道の話、どれもよく研究されていて、驚き以外のなにものでもなかった。
潮待ちの港として木江の話題が、こんなところでできるなんて夢に思わなかったです。
応援できるのなら、10月頭には、添乗さしてもらいたい。(まぁ、忙しいから無理でしょうけど。)
ほんと、師匠は旅の達人だなと、感服いたしました。
またこうしたプロの人と一緒に仕事ができるとは非常にうれしい。
すばらしい人は、ひとつの謎解きに10の答えを用意してくれる。
今まで伏せてあった「旅する櫂伝馬」の話をすることでいろいろな接点がもてるようになった。
偶然にも、啓志君と出会い、こうして関係を持たしてもらい、さらに、精神的にぐっと距離が近くなった。
彼との出会いが、反骨心に火をつけてくれた。
20年ぶりに田舎の夏祭りを見たとき、あの町が寂れていた。
子供の声も聴こえなくなっていた。
祭りは、全盛期の30分の1ぐらいでしかなかった。
「祭りもいつ終わるかわからない」
終わりのときを迎えるのは時間の問題であるかのような会話は、自然とでてきたのは当然なことだ。
正直な話、大崎上島という島は、ほかの島と比べ、造船業をはじめ雇用は確保できていたので、時代の流れに対応できる弾力性がある島と思っていたが、オイルショック、円高など、徐々に時代の波に乗れなくなり、取り残されていった。
つまり、島を生活の場所として選択するのは、よっぽどのマニアックな人か、仕事の跡継ぎぐらいしかないだろう。
解決方法として合併という選択肢を大崎上島はとったが、それは住民の利便性のためではなくあくまで行政の延命措置にちかいものだった。
啓志君から、「旅する櫂伝馬」の話を最初聞いた時、「ほんとかな?」とぼやけたイメージしかもてなかった。
目的地は「祝島」のイメージが先行していたためだ。
オリジナルメンバーの有田さんの「櫂伝馬で宮島までいけるかの~」の発言がきっかけだったと聞いて、宮島だったら大丈夫じゃないかと思った。
しかも、ほぼ持ち出しで自主参加する
いろいろな甘いささやきは、ご他聞に漏れず、あるだろうけれど、ブレがないのはすばらしいことだ。
通常なら、行政の補助とかを利用して行うイベントが通例なのだが、若い人の自主性がここまで明確に実現したイベント(行事、神事)は日本全国見渡してもないのではないだろうか。
島の歴代の町長もそのことをよく理解されていて、初代の藤原町長、現在の高田町長も、個人で参加、旅する櫂伝馬のサポートとして応援する形になっている。
写真のたち位置などでそのことがよくわかる。
日本全国を見渡しても、あの旅する櫂伝馬の企画はずば抜けているし、大阪の人たちにももっと知ってもらえるよう最低限の努力をしないといけない。
昨日も、車の中で師匠と瀬戸内海の景観、文化論まで話が及んで、うれしかった。
それと同時に 自分自身、個人の現在に至る経緯を考えると、決して楽しい場所ではなかったことも連想してしまった。
愛別離苦とはいうけれど、それが人間なんだろう。
海の見える風景は、いろいろな精神の葛藤を中和させてくれる
橋が架からなかったことで、原風景を残すことにつながった
もし橋が架かるのなら、それは政治的道具として利用されたときだろう。
現在の本四架橋は減価償却は生きている間 終わることはないだろう。
それよりも、もっと船の便を増やす、馬鹿高い車両運賃を下げる、産婦人科、雇用を増やす方向で動いたほうが、直接的恩恵を与えてくれるだろう。
島の現状は、厳しい言い方だけど、なかなか大変だろう。
経済まで動かすことは、並大抵なことじゃない。
けれど、きっかけができれば人が動く 人が動けば、運命も変わる
現代人は楽を覚え移動も車で簡単にできる時代に、手ごきの船で宮島にいく大崎上島の若者たち
おそらく、私はあほなんだろう。
わくわくせずにはいられない。
※ なにわの海の時空館が廃止される予定です。(ほぼ決定)浪華丸の運命や如何に。
http://www.jikukan-ogbc.jp/
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