大崎上島とは、直接は関連ありません。
私のページを検索されるときに、キーワードにされることばが、2つあります。
ocyoroとebuneです。
知った方は、そういった部分を避けるため、キーワードを外したり細工をしています。
今回は、ocyoroに関することですが、一部抜粋します。宮本常一さんも著者のひとりです。
若胡屋の手形 御手洗の茶屋でいちばん多くの遊女を抱え、構えももっとも大きかった若胡屋の建物は、現在広島県史蹟に指定され、内部を改造して町の公民館になっている。
その二階の部屋の壁の一部がガラスでおおわれて保存されている。
血痕の手形がついたのを後世に残そうとしたのである。
これが、町の人々によって、語り伝えられている「おはぐろ事件」にまつわる手形である。
若胡屋の売れっ子で今をときめくある遊女が夜の化粧を急いでいた。
客の矢のような催促にいらいらと鏡をのぞくが、どうしたことかその日は化粧がうまくのらない。遊女がいらいらしているのを気づかいながらも、傍らで手伝っていた禿はおずおずとし、
「おいらんえ、おはぐろをつけなさんせ」
とハグロを差し出した。
遊女はそれを歯につけようとしたがどうしてもうまくつかないのに癇癪をおこしたおいらんは、ハグロの容器をとりあげると、あっという間に禿の口へ煮えたぎるハグロを注ぎこんでしまった。
禿は苦しみに狂い、その部屋をのたうちまわりながら息をひきとった。
その翌日かのら、遊女が化粧をと思い、鏡をのぞくと、
「おいらんえ、おはぐろつけなさんせ」
という禿の声がどこからともなく聞こえてくる。
夜ごと日ごとに禿の亡霊になやまされつづけなければならなくなった遊女はいたたまれなくなって、じぶんの罪滅ぼしと禿の冥福を祈るために四国順礼を思い立って旅に出た。
御手洗から船に乗って四国の今治に上陸して、順礼の途についたとき、
「おいらんえ、ここからは独りでゆきなさんせ」
と禿の声がして、それからは禿の亡霊に悩まされることがなくなった。
若胡屋の手形は禿が苦悶したときについた手形であるといわれている。
伝説として伝えられてきたこんじょ「おはぐろ事件」の真相は、いまさら明らかにすることではないが、売られた者の集まりで、まったく自由のない遊女の社会にはこのような事件のおこりうる空気は十分にあったといえよう。
当時この町の遊女は一般に足かけ十二年、満十年が身売りの期限とされていて、平常の勤めは、昼間は「かり」と称して、客につれられて宿屋や船へ遊びにゆき、夕方からは茶屋に帰ってきて、夜のみせを出し、そのころの流行歌をうたい、三味線や胡弓をひいて客を待つのがその生活であった。
これら遊女は宗門改帳では茶屋の下女として登録されていて、法的にも御手洗町の住民となっていたから、町役人の著名した「送り手形」がなければ、他の村や町に住みつくことはできなかった。
過去帳の中の女御手洗に四軒の茶屋が公認されていた。そのうちの若胡屋と藤屋の過去帳が残っている。その過去帳をみていくと、多くの遊女の名を見出すことができる。
若胡屋には、百七十人、藤屋には八十人の遊女が仏としてとむらわれている。
他の二軒のを合わせると明治初年までに、約四百人あまりの遊女が御手洗の土と化した物と考えられる。
若胡屋の過去帳によると、寛政九年千七百九十七年七月二十三日に「八重紫禿志げ」が死亡し、それから一ヶ月半ほどたった九月九日に、「八重紫」が死亡している。享保から明治初年にわたるこの過去帳の中で禿の名に彼女が仕えたおいらんの名を付しているのは、「志げ」の場合だけである。
普通は、「禿七十郎」とか「禿三之助」とか書きとめているが、「志げ」の場合だけが「八重紫禿志げ」と特別に記入されている。
禿「志げ」が死亡し、後を追うように、「八重紫」が死亡しているのと考え合わせても、もしかすると「八重紫」と「志げ」の死に際しておこったのが、前述の「おはぐろ事件」ではなかっただろうかと想像たくましくしてみたくもなる。
もちろんこのことをいまさら証明することはできないが、禿「志げ」とおいらん「八重紫」の死には特別な関連があったように思われる。
このほか過去帳には多くの悲しい運命を背負って死んでいった遊女たちの名が書きとめられている。
年季が明けるの唯一の望みとしながらも、夜毎にむしばまれていく肉体と精神、ついに朽ち果てて、故郷の肉親にあうこともできないまま、内海の小島御手洗に若き生涯を閉じた者たちである。また遊女も過去帳に名を連ねている。産児制限の術もなかった当時は、好むと好まざるにかかわらず生まれてきた子どもも多く、これら父のない子は茶屋の子として、育てられ、母が何一つ親らしいこともしてやれないこの子らに幸福のあろうはずもなかった。
明和二年(1,765)六月二十三日八重桐の娘が死亡し、八月四日には母の八重桐が死亡している。娘の死を悲しみ、わが身の悲運に泣き、生きる力もなく死んでいった母親としての遊女の悲劇の一端が痛々しく推察される。
わが身であってわが身ではない、これらの売られてきた遊女は、そのほとんどが年貢未納や借金に苦しむ農村村の貧困のなかから、家の犠牲として肉親の身代わりとなって悲惨な生活に追い込まれた者であった。
悲惨な生活を送りながら年季明けた遊女がたどる一生は、たとえ自由な身になったはいえ、けっして安楽な道ではなかった。
彼女たちの犠牲のうえに港町は繁栄をつづけることができたが、その港町も幕末から明治にかけてしだいに衰微の一途をたどらなければならなかった。
遊郭は日本全国にありましたが、こうしたことが200年以上にわたり、小さな島で繰り広げられ、その後、どういった形で、島の精神に影響を与え文化風土を残したのでしょうか。
御手洗の古い町並みや、鴻池の寄進した石燈籠の見方も変わってくると思います。
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