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木江ふれあい資料館から

館内の資料を撮影してきました。



これは、旧町役場。手前の石楼から、厳島神社から撮影したことがわかります。

うっすらながらこの役場、記憶にあります。



これも木江旧警察署

経済活動が活発だったこと、人口が多く、オチョロ船にも関係があったでしょう。
また、愛媛県との県境ということで、暴力団の勢力争いなどもあったと思います。



広島県木ノ江港風景(吉井勇伯短歌入) 木ノ江町発行 千代田スタジオ写

千代田スタジオ※広島県豊田郡大崎上島町中野片浜にある写真店が同名である。



絵70063 絵葉書広島県木ノ江港風景 6枚
袋に記念印 吉井勇伯短歌入 木ノ江町発行 戦前



宇浜より天満を望む



天満より宇浜を望む



いにしへは 筑紫へくだる防人も 船のわかれを 惜しみたりけん


戦時中に発売された絵はがきです。

当時の帆船の多さに驚きを感じます。
当時有数の港町だったことがわかります。

おそらく、南村と合併する前の全盛期には5千人以上がこの小さいな港町に住んでいたと思われる。
船具屋は当然として、バー、映画館、豆腐屋、複数の銀行をはじめ、出先機関である海運局など登録できるようすべて備わっていた。
戦時中は、半官半民の中国造船株式会社が設立されていた。
人口の流動率はかなりのものだっただろう。

当然色街の要素もあっただろうが、終戦から30年頃までは、一種の造船バブルがこの地域に起こっていたと思われる。

この写真でわかるように、当時の木江港は、木造船の修理しやすい地形、遠浅だった。

木造船は、周期的に陸に揚げてメンテランスをしないと、フナムシに船底を食われてしまう。

詳しくは、瀬戸内和船工房と舟宿「ひな」の物語のところに書かれているように、

>引用

その昔、木造船は毎日漁を終えたら巻き揚げ機などで曳き揚げられた。船底に海藻や貝などが付着しないようにするためと、海水温が高い夏の間にはフナムシが船底に卵を産み付け孵化すると、木質を食い荒らし高価な舟に穴を開けてしまうからだ。

木造船の時代は一月に一度ほどは舟を船台に上げ、船底を杉葉のたき火で燻し船虫退治をした、これを「たでる」と言う。当時は船底塗料などのない時代だから手間が掛かることおびただしいものだった。

>引用終わり


※「たでる」という作業、昔の記憶を呼び起こしてみると・・・・
木江は造船業の発展とともに、家々が異常に密集した小さな港町であり、そういった港にところ狭しに造船所が乱立していた。
ある造船所が、この「たでる」という作業で、船底を何日もかけて、杉の木などを燃やしながら煙でいぶすとあたりはどうなるか?
風向きで人家に煙りがはいることが多々あり、クレームの嵐となる。人間にとっても、煙は気持ちのいい匂いではなかったのだ。時と場合で異臭が何日も漂うことになる。






だから、木造船中心の時代は遠浅の海岸が優遇されたはずだ。


櫂伝馬なども、木目に海水がしみこみ過ぎると、重量が増え、漕ぐ抵抗力が増えるそうだ。

船底にはロウや、松ヤニなどを防水と抵抗力を減らすために塗るそうだ。

木造船がすたれ、鉄鋼船に切り替わる昭和30年後半頃には、海岸の埋めたが進み、遠浅の港は、変貌することになる。



消えたオチョロ船  井伏鱒二

 局長さんの話では、木ノ江の町は、木ノ江千軒と云い、木造船の造船所として栄えた町で、これにオチョロ船がいたから停泊する船で尚ほ栄えていた。

「いつか、或る機帆船の船長がこぼしていました。船が木ノ江の港に近づくと、若い船員がこっそり飲料水を流してしまう、ボイラー用の水も流してしまう。止むなく木ノ江に船を着けることになる。」

 それに、木ノ江は山陽道側と四国との中間に位する。西風以外のときには風待ち潮待ちに便利な港であって、木ノ江、鞆の浦、玉島、牛窓というように、帆船の一日行程の足だまりの場となっていた。



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