忍者ブログ

9月

先月東北地方の震災の状況を4日がかりで、ボランティアにいった人の体験談、写真をみせてもらった。
被爆瓦礫の問題も、写真の中でたくさん写っている。

被災者の方の仮設住宅もずいぶん離れた場所にあり、足を入れようとしたが、真理的プレッシャーでできなかったそうだ。
一瞬にして、財産も身内も津波で流され何もかもなくなった人たち対して接する勇気がもてなかったそうだ。

学校の先生と会って話をしたそうだが、死体の山が散乱している中、それを見た子供たちの心が将来どう影響するか心配されていたそうだ。
もっとも、管理国家日本では死体を目にする機会はなくなり、生というテーマを捉える機会が極端に減った社会で育った先生方のほうが、トラウマになっているのではないかとかんぐってみた。

被災地にあった残骸は撤去されたが、移動すれば、巨大な山済みになった未処分の瓦礫の山とすぐ出会う。
大阪では橋本さんが、引き取る方向で動いているが、環境汚染のことを考えると、反対に動いている人も多い。
舞洲に高度処理が可能な施設があるため引き取るのだろうが、検査体制も未整備で問題が山積している。

福島原発問題も報道されなくなったが、いまだに放射能は漏れ続けている。
政府の管理体制で対応できないので、あくまで自己責任で食べ物も考えないと。
甲状腺ガンや健康被害の問題も出てくるころ

事故当初と、最近のメディアの報道姿勢も変わってきた
もう隠せる段階ではなくなった


読書

前回、ブログで風俗史の一部として、興味本位でしか、おちょろや色街を捉えていない男性が多いとのコメントを書いたが、調べるとなかなか本がない。府立図書館など、蔵書の多い大型図書館でないと調べることができない。

売春防止法にしてもそうだけど、ネットでも成立背景などあまり詳しく書いていない。
風俗産業の成り立ちなど非常に身近な事例だが、男性の視点での歴史的解釈しかないので、非常に残念
しかも、しっかりと産業として巨大マーケットを抱え、その主役が人身売買を前提とした売春なのだから、たちが悪い。

性の目的が男性なら一夜の快楽でいいかもしれないが、女性の側は、命がけ
避妊技術を含め、非人道的アパルトヘイトにも似た地獄絵図が日本にたくさんあったことを考えると、証拠隠滅は徹底していたのだろう。

男女平等を日本国憲法は謳っているが、養育の問題、賃金の問題、離婚など女性の負担は大変なのが実情で、社会的弱者としていまだになにもかわってないと思わざる得ない。

女性が書いた日本史があってもいい筈で、近代の労働運動を含め勉強せなあかんことが多いなと思う。
日本の夜明けはまだまだ先だ。
私のブログは小説とか過去の書物とか紹介することが多いけれど、しっかり調べて打ち止めしとかないといかんな~と思います。
子供じゃないだから。

色々と

考えることが多い一週間でした。
しかし、住宅・マンションなど供給過剰で暴落しているにもかかわらず、ローンで購入する人が多いこと
将来の見通しがたたない経済環境なのに、「なんとかなるさ」的気軽だが日本人の特徴なのだろうか。
住宅販売会社の元重役にいわせると、「破綻は時間の問題」とのこと
よくみれば、お金の問題は、離婚による家族の破壊、自殺などを引き起こし周辺にそんな人はたくさんいる
戦後の日本の民主主義の流れは、大家族から核家族化、そしてそれから先の個人に帰着しようとしている。

果たしてそれが正しかったのか?
時代は時として反転するのが運命で、その中で右往左往して行き場を失う人が実に多い

だから、周囲の人に資本主義のシステムは人を幸福にするものではない。
日本の社会システムもそのひとつ
破綻と再生の繰り返し
逆に社会に妄信せず、個人(家庭、家などを含む)の幸せを考え実践するのも生きる手段として有効だ。

社会が破綻すると、国家はネズミ講に近い存在になるのは、これも原理のひとつ
だまし討ちなどは当たり前だから、
と訴えたりもしている。

過ちを少なくする生き方は大切なことだ。


PR

旅情瀬戸内海

インターネットで今日は、布田源之助さんの書かれた「旅情瀬戸内海」を検索し幸いにも、近くの図書館の蔵書として該当したので、さっそく借りてみることにした。
インターネットのない時代と比べ、物事を調べるのに大変便利になった。
こうしてすぐに手元に貴重な本を見ることができるのだから。



しかし、筆者である布田源之助(ふだげんのすけ)さんのプロフィールがネットでも載っていない。

検索をかけると私のこのブログが上位にヒットするぐらいだから、あまりみなさん興味がないのだろう。

布田源之助さんは、明治32年熊本市に生まれる。関西汽船初代旅客課長、海洋旅行専務取締役を歴任されてきた。

この本は、海文堂という船舶を主に扱われている出版社から生まれた。
海文堂は、今も健在で、海文堂書店はその手の人には有名な場所だそうだ。
http://www.kaibundo.co.jp/

しかし、昭和37年という時代背景を考えると、山陽新幹線はまだできていなかった時代だから、海運と陸運のバランスは観光に関してはまだ日はあったのだろうけれど、1972年(昭和47年)3月15日に新大阪駅 - 岡山駅間が開業、1975年(昭和50年)3月10日に岡山駅 - 博多駅間が開業したころになると、海の貴婦人の時代は終焉に追いやられていったのだろう。

これでは、廻船問屋と同じ運命じゃないか。

肝心の本の中身ですが、この本の中には、木ノ江の松本旅館に滞在して、おちょろ舟が停泊している船にむかってアタックする様子など面白く書かれています。
また、御手洗の遊郭の話、知らなかった幽霊の話も書かれています。大山祇神社、海賊・水軍の話題も詳しく書かれています。



昭和に入って大崎上島や周辺の場所で記述された内容は、ソースが同じなのか着眼点が似通ったものが多く、どうしても重複してしまう記述が多いです。

井伏鱒二の「消えたオチョロ船」と同じことがあげられています。



小さな港町ですから、どうしても重なってくるのは、しかたのないことかもしれません。

瀬戸内海を総論で書こうとすると、どうしても小西和著「瀬戸内海論」があまりに素晴らし本であるため、残像が脳裏によぎってしまいます。
「瀬戸内海論」は、「論語」に匹敵する傑作だなと、いまさらながら感じてしまいます。
※小西和でブログ内検索をしていただくと過去の記事がヒットします。

ここ最近、心のムヤムヤで思っていることは、興味本位で色事としの「オチョロ舟」のことでしか書かれていないので、瀬戸内海周辺でこのあたりは、常に退廃的なイメージをもたれてしまうことは、ちょっと心外かなと感じています。(いい加減にしろよ)

井伏鱒二の「消えたオチョロ船」に関しては、小説家としてプロの仕事をされていて、まったくもって「さすが」と感じますしクリアーしています・・・・・・・・。
宮本常一さんは、知っていたが、触れなかった・・・・・・・
沖浦和光さんは、民族としての瀬戸内海を解析していった・・・・・

御手洗の遊郭の例の話
いったい当時の遊郭の身分制度はどうなっていたのだろうか?
花魁が禿の不手際にかんしゃくを起こし、煮えたぎったかねを注ぎ込んだ

不手際に対してかんしゃくを起こし、いわば殺人行為に及んでしまう
いわば、人間の狂気そのものが、ここには表現されていて、しかも、その背景を誰も分析していない

「幽霊がでる」とは、実世界の罪悪の心が反転して、真理に目覚めたからか・・・・・
無意識が行動として善悪は別にして、結果として現るわけだから、この事件の真相はハィンリッヒの法則のように、根底は深い要素が隠れている。

事故として偶然とりあがられただけで、実際は隠れた事故はたくさんあった。

物語の一部として読むにはいいけれど、実際におきたことに対して、どう説明できるのだろうか?

人間の深層心理が深く影響されていて、結局は、「トラウマとして表現にすることはできないけれど、興味がある」「今も幽霊はでる」という状態がずっと続いてきているのではないだろうか?

単なる色事、怨念、いえいえ、そんな浅いもんじゃありません。

社会を形成する段階で、もっと巧妙に、組織だって対処方法が出来上がっていた

男性だから古典的マッチョな考え方で捉えるのは、いまどきじゃない。

こんなことを書くとおそらく、このブログ、読者が一気に増えるだろうな~~~!
うれしいことに、私のブログを真剣に読んでくれる人が増えてきました。

いずれにしても、自分の中で総括してみたいテーマです。

大人としての大崎上島

島に抱くイメージは色々あるけれど、歴史を探っていけば、海を追われ陸の時代となった江戸時代など、島嶼部によくある水不足、米など、生産性の高い場所でない土地で暮らすのは死を覚悟する場面も何度もあっただろう。

今では野生にもどり山にかえった島の段々畑を見ると、如何に我々祖先が知恵を絞り、明日を夢見て土地の改良を加えたかを思い出す。
しかも、人力で開墾したのだから、月夜の晩も畑で農作業をしたかもしれない。

飢饉など、死の隣り合わの中で、移住もままならいまま、何を夢見たか?
庄屋がつぶれるぐらいだから、本土と比べる対象にもならない惨状だっただろう。
いもくいの話は以前書いたから、是非検索でひっぱって参照して欲しい。

沖浦和光さんの本は今まで何度か目を通してきた。
瀬戸内海の民族史の第一人者といってもいいだろう。
大崎上島にもゆかりがあるため何度か講演をされたことがあるそうだ。

実は大阪で書物を参考にするため、自転車でぐるぐると回っていると彼の知り合いに偶然彼の話をきくことができた。
「あんた、どっからきたんか?」
「沖浦さんの本を借りにきました」
「おお、沖浦さんは、よくここに来るよ、がたいのいいおっさんや」

近世に入って、造船業が栄え、それなりに謳歌した時代もあったかもしれないが、それでも「よそ者」の集合体が港町であり、そういった空気は、水商売、賭け事、用心棒、まるで漫画の世界で登場してくるような時代もあっただろう。

俗にいう「黄金の島」とは、蓋をあければそのようなものだ。

「金とおんな」はつきもので、そういったフィルターはいつの時代でもキーワードとして登場するが、場所によっても芸事にも、品と下品があり合法に近かったり非合法にもなったりもする。

当時の人間たちにとって、色事は、文化とは思っていなかっただろう。
大人の遊びに手を出して、春を謳歌したものもいれば、怖い思いをした子供もいるだろう。
札束が飛び交う中、時代の蓄積は、どういった形で人を形成していったのだろうか?
人間とは喜劇のような存在で、近隣の島を取り上げるときも、風俗=芸事ばかり取り上げる。

色事でいえば、避妊技術の未熟な時代での一夜の晩は、間違えば、私生児を身にたくし、なかなかそういった人生を背負った子供たちは幸せに結びつくことはまれだっただろう。
闇夜の晩の処理に活躍するヤブ医者、必殺仕置き人、はかほり職人
ある人間は真理に目覚め、ある人間は世の中の厳しさに身をさらし、どうでもいい人間は、どうでもよくなった。

沖浦さんのお孫さんの「ももへの手紙」を見て時代って変わったなと思ったりもする。
また、こんなことを書く人間もいないだろうしな。

わたしだったら、「ルパン三世」になってしまうだろうが

食べ物でも味覚を忘れ、「苦い」が「ほろ苦い甘さ」になったり、「辛い」が「すっぱい」になったりもする。

島は廃れようと、死ぬことはない
廃れるのは、資本主義をもとにした島であって、それにかわる再生は必ずあるだろう。
それを受け入れる度量があるかないかが、肝心だ。


野口雨情、木江、大三島、大山祇神社

前回、帰省した際に、大望月邸において、野口雨情が木江松本旅館に泊まった時の資料が掲示されていた。

昔の松本旅館の写真も、野口雨情の写真も有名で、何度か見る機会はあったけれど、資料として自分の手元に残していなかったので、このさい保存することにした。

松本旅館に泊まった文人はそのほかにも、吉井 勇、 布田 源之助、 江見 水蔭などがいる。

特に千代田スタジオで撮影された吉井 勇の絵葉書は強烈な印象をもっている。
港町特有の文人をもてなすため、ハチャメチャなドンちゃん騒ぎをしたこは、半世紀たっても、武勇伝は残っているだろう。

天満港の近くで、芸者を呼んでドンちゃん騒ぎ
それは、港中に昼夜聞こえていたことだろう。
迷惑千万だろうけれど、バンカラが横行した時代から、多少は大目に見て頂戴ということで終わったのではないだろうか。


野口雨情
http://www.iwaki-cc.ac.jp/douyou/oitati.html
ホームページから引用

野口雨情(本名:英吉)は、明治15年(1882年)5月29日茨城県多賀郡磯原村(現在の北茨城市磯原町)に長男として生まれました。家は代々水戸藩の薪炭奉行を勤め、廻船問屋を営める、世にいう名門でした。
雨情は、磯原尋常高等小学校を卒業すると、15歳で上京し、当事衆院議員として活動していた伯父勝一の家から、東京教学院中学、順天中学、東京専門学校高等科文学科(早稲田大学文学部)に通学しますが、明治35年5月17日の20歳のときに東京専門学校高等科文学科を中退します。雨情が詩を雑誌に投稿しだしたのは、この中退した頃からのようです。


詩人仲間と東京の第一線で華々しくスタートを切った雨情に、父の死去という不幸が訪れました。雨情は磯原に呼び戻され、父死亡に因り、明治37年1月29日より野口家の戸主となりました。22歳のときでした。
磯原に帰り家督を継承すると、父が生きている頃から話題に上がっていた花嫁の候補者高塩ヒロと22歳の秋、11月29日の吉日に式を挙げました。ヒロは翌々年の明治39年3月9日に長男雅夫を生みました。
雨情は、明治39年6月末に、ついに磯原での生活に耐え切れずに樺太へ渡ります。
 明治44年の秋に、母が死去し、帰郷の潮時がやってきたことを感じるとともに、故郷に帰って実質的な戸主として、先祖からの全遺産を継いでやって行く決心がついたようです。そして、植林事業に精励、大正3年には磯原漁業組合理事となります。この頃、痔疾を癒すため湯本温泉に通い、芸者小すみを知ります。家業傾き入山採炭株式会社の事務員となり、いわき市錦町の祖母の実家滝川家から湯本にある入山礦業所へ通っていました。 芸者小すみは、芸子置屋「柏屋」の女将(本名:明村まち)となり、雨情は「柏屋」で3年半生活します。
大正4年の5月10日に、妻ヒロと協議離婚。6月に2児をひきとり、父と子で生活します。
この湯本時代は、雨情の生涯にわたって、子供たちとの唯一の楽しい生活でした。「よいよい横町」「土撞唄」は湯本時代の作品といわれています。
大正7年9月、明村まちと別れ、水戸の中里つるのもとへ走ります。
昭和初期から民謡へも情熱を傾け、全国各地の民謡を数多く残しました。
昭和20年宇都宮で永眠。63歳でした。

北茨城市磯原町出身で、廻船問屋の息子、そして、童謡の作詞家として有名とのことでした。
また、野口雨情の家業の廻船問屋も鉄道に物流がかわることにより傾き、多くの廻船問屋と同じ様な運命をたどっている。


作詞には、

・木の江のみなと はれて涼しい月夜の晩は 川の流れもしたしたと(地蔵平川の河口)
・誰がのるやら 木の江の沖を 三島まいりの船が行く
・霧がかかれば 山さえ見えぬ どこをたよりに船は行く
・雲になりたや 空とぶ雲に 気隋気儘(きまま)の白雲に
・山は遠いし 野原はひろし 水は流れる雲はゆく

木江浦節 

1 知らぬ振りして ハコラヤノヤット
沖行く船もヨ 暮れりゃ アラヤットンナ (暮れりゃマタヤアホウ)
暮れりゃ木の江さ 寄せて来る ナ 寄せて来る

2 忘れなさるな ハコラヤノヤット
  神の峰下はヨ いとし アラヤットンナ (いとしマタヤアホウ)
いとしの木の江のサ 船つきば ナ 船つきば

3~9省略

10 誰がのるやら ハコヤノヤット 木の江の沖をヨ
三島  アラヤットンナ(三島アタヤアホウ)
三島まいりのサ 船が行く ナ 船が行く

昭和初期のころ、大三島は宮島と同じぐらいの集客力のある場所であった。
「海の時空館」に展示されてある関西汽船の昔のパンフレットにも、大三島沖で停泊し宮参りの案内の内容を発見した。
宮本 常一さんの本の中にも同様の記述がある。

なぜ大三島は宮島と違い廃れてしまったのだろうか?

木江浦節を野口雨情が作る詳細な経緯は知りませんが、町か、当時財力のあった船舶組合が依頼したと考えたほうがいいのではないでしょうか。
歌の中には、三島が何度も登場してきます。

彼の出身地は北茨城市磯原町
グーグルマップで検索すると


大きな地図で見る

大山積神社で検索すると

大きな地図で見る

なんと地元、すぐ目と鼻の先に大山積神社があります。

海の神様としても有名な神社ですから、廻船問屋の長男であった野口雨情にとっては、非常に馴染みの深い場所であったのではないでしょうか。

宿泊して実際どんな会話があったのかは、今では知る由もありませんが、海を知る人間として、この港、この周辺は非常に懐かしく、興味深い場所であったと推測できます。

自分のバックグラウンドに近い場所での創作活動

また松本旅館をでた後の足取りも気になります。

グーグルマップで大山積神社、三島神社を調べると東北地方まで存在します。
いったいどういった影響でこの大山積神社のネットワークが構築したのか、興味がわいてきます。

「藻場」の再生に威力 腐植酸鉄

【すごいぞ!ニッポンのキーテク】

 沿岸部で海藻が繁茂する「藻場」の再生で新日本製鉄の技術が威力を発揮している。製鉄の副産物として生じるスラグをベースに添加物を工夫した製品を、袋や箱に詰めて海中に投入するだけで、海草類の生育に欠かせない腐植酸鉄を供給する仕組みだ。安全な漁場造成用資器材として認証を受けており、今後は各地で利用が進みそうだ。

 海中を覆っていたわかめやコンブなどが突然姿を消し、荒野のような海底が広がる「磯焼け」という現象が全国各地の海で確認されている。海藻だけでなく、サザエやアワビ、魚の漁獲にも響き、藻場の再生は急務となっている。

 磯焼けのメカニズムを理論づけたのが、北海道大学の松永勝彦元名誉教授ら。周辺の山で大量の落ち葉によって作られる腐葉土がカギを握る。腐葉土中で作られるフルボ酸と呼ばれる物質が山中の鉄と結合し、海藻が利用しやすい2価鉄を作り、海に流れ込む。広葉樹が茂る深い山々が豊かな海を作り出すわけだが、この仕組みが山林の伐採などで断たれたことが磯焼けの原因と結論づけた。

 この理論に基づき、新日鉄の技術開発企画部温暖化対策研究企画グループの堤直人氏らは製鋼過程で生じるスラグを活用し、海水中に2価鉄を供給する技術開発に乗り出した。同社が使用する鉄鉱石の鉄純度は約60%で、高炉での銑鉄、転炉を用いた製鋼工程を通じ大量のスラグが産出される。

 スラグも鉄分を10数%含み、高強度の路盤材やセメント材料として利用されてきた。磯焼け防止効果が得られれば、スラグの新たな用途が開拓できる。また「藻場は二酸化炭素の吸収能力の観点から、地球温暖化対策上も重要で、社会的貢献度も高い」(同社)。しかし、スラグをそのまま海水中に入れても鉄分の溶出効果は限定的だ。

 そこで、木材チップなどから人工的に作った腐葉土を粒子状のスラグと混ぜ、“豊かな山の土”を再現した。2004年10月に、この素材をヤシがらでできた袋に詰め、磯焼けが深刻だった北海道増毛町の海岸に設置する実証実験が新日鉄と東京大学などで行われた。半年後、設置場所周辺には見事なコンブが繁茂した。

 この素材の効果をさらに確かめるため、06年10月から増毛町のアワビ中間育成センターの水槽で、スラグや腐葉土との対照実験が行われた。この施設自体は諸事情で翌年3月に閉鎖されたが、最終日に見てみると、同素材を投入した水槽にだけ立派なコンブが大量に生えていたという。

 この成果をもとに、新日鉄は同素材を「ビバリー」という名称で製品化した。商品名は自然環境を再現した動植物園などを指す「ヴィヴァリウム」に由来する。その後、同社は千葉県富津市の研究所内に、専用の研究施設「シーラボ」を開設。堤氏をグループリーダーとし、さらに検証を進めている。

 ビバリーの効果は口コミでも各地の漁業者に広がり、新日鉄では今夏までに、全国28カ所で、袋に詰めた「ビバリーバッグ」を合計30トン、箱状の「ビバリーボックス」を約70期納入した。ただ、海中の鉄分が豊富な海域でも磯焼けが発生しているところもあり、導入前に水質調査も必要だという。10年2月には全国漁業協同組合連合会から、安全な漁場造成用資器材として認証を受けており、さらなる利用拡大が期待されている。(高山豊司)

海の資料

長々とブログを書いてきたけれど、、バックナンバーを調べるのに一苦労します。
もともと、ブログなんて手抜きだしね~~。

ソートするのが一苦労、
一昔前のライブドアブログなんてアクセス過多の時間帯夜の11時ごろになると固まる固まる
サービスで使わしてもらっているので、文句はいえないんですけどね。

櫂伝馬の資料等の説明をリクエストされましたが、私もよくわからない

この海の文化を調べるのには、恩師福本清先生の書かれた「大崎島造船史」を大望月邸で購入して詠むのが一番てっとり早いです。


手に入れるのが、面倒な場合は、石井謙治さんの『和船(1)』『和船(2)』法政大学出版局を借りて読むといいのではないでしょうか。

福本先生は石井先生と親交がありましたので、本の中身はかなり重複しています。
船舶・物流のことを考えると、それだけでも、夢がありますね。
石井先生の本は高価なものが多いので、図書館専用の検索サイトを使って蔵書をチェックし、借りるか、大崎上島では定かではありませんが、他県の蔵書も時間はかかりますが、取り寄せできるサービスがありますので利用するといいと思います。


また和船関連、現在の船大工の棟梁が現存してます。
これまでの、ブログの情報発信している流れで、交流があります。

調べていくと、能勢村上氏の関連や、西回り航路の関連も、小さな糸ですが、線が引かれています。
http://waqwaq500.blog.shinobi.jp/Entry/353/

一番ユニークなのが高原さんのサイト
岡山なので、何度かお会いしたいなと衝動に駆られたことがあります。
歳も近いし、見てきたものも近いものが多いですし、お互いが現代の世捨て人として、非常に共感できる人です。
家舟に関しても、実際に航海されていて、近くの海に出没しています。
八濱漂泊傳
建築の専門でもありますので、是非とも、船大工の家の解析をおこなっていただきたいと長年望んでおります。
この方の生き方はロック、革新であります。懐が非常に深い。

私は、もともとが山側の人間ですが、海側の人間のことも知っていたので、なぜか今は海側の人間のほうが交流関係は深くなっています。

大崎上島クラスのサイズだと、関連して調べるのは範囲が広くないので楽ではないかと思います。
一番大切なことは、埋もれてしまった記憶をどう現代に復活させるか。

保守的な人は、伝統・文化と簡単に結びつけますが、ひとつひとつを調べていくと、人の歴史は血の歴史、苦しい決断、楽なことはなにもありません。

望月圭介大臣にしても、廻船問屋の息子が、まったく逆の呉線を開通させるため尽力するなど、現代でいえば、石潰しの行為をしたわけです。
それは、自分の利己心ではなく国家天命のため、命を尽くす政治家としての大儀が前提にあったからだと思います。



大望月邸で、「望月東ノ助物語」を購入しました。
旧東野町時代の盛んに文化活動されていた遺作のひとつです。

本の中身は、断片的に張り合わせた感じがあり、入門編にちかいかなと思います。
それでも、旧東野町の教育委員会の取り組みが、如何に素晴らしかったかをあらわしています。

色々と調べていくと、この島が現在まで存続できたのは、外に開かれた島であったからだと強く思います。

保守的であることと、まったく逆の答えとなりますが、黄金の島であった当時は流動人口が異常に多かったのではないかと推測しています。

受け入れる側、出て行く側、
そうなってくると、島の閉塞感とはまったく逆の環境が存在していたと思います。

いつの間にか、誇りを失い、後ろ向きになり、絶望感がこの島を支配したのではないでしょうか。

逆に考えれば、
国家天命のため尽力し家をつぶした望月大臣、
槙肌、舟釘で全国1のシェアをとった南の町
エアクッション船なる逆転の発想で、海運局も困らせた造船所
幾多の経営難を潜り抜け現存している造船主
農協とまったく逆のことをして成功している農業集団
無鉄砲もいいところ、80キロ以上の海を櫂伝馬でわたる若者たち

リスクを恐れず挑戦する精神って、やっぱり惹かれますよね。

お盆の島物語はこれで終わりです。

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

天気

最新コメント

[09/30 pod]
[09/29 ขายบุหรี่ไฟฟ้า]
[08/05 takabow]
[08/03 Nuoba_008]
[05/23 takabow]

アクセス解析