今では野生にもどり山にかえった島の段々畑を見ると、如何に我々祖先が知恵を絞り、明日を夢見て土地の改良を加えたかを思い出す。
しかも、人力で開墾したのだから、月夜の晩も畑で農作業をしたかもしれない。
飢饉など、死の隣り合わの中で、移住もままならいまま、何を夢見たか?
庄屋がつぶれるぐらいだから、本土と比べる対象にもならない惨状だっただろう。
いもくいの話は以前書いたから、是非検索でひっぱって参照して欲しい。
沖浦和光さんの本は今まで何度か目を通してきた。
瀬戸内海の民族史の第一人者といってもいいだろう。
大崎上島にもゆかりがあるため何度か講演をされたことがあるそうだ。
実は大阪で書物を参考にするため、自転車でぐるぐると回っていると彼の知り合いに偶然彼の話をきくことができた。
「あんた、どっからきたんか?」
「沖浦さんの本を借りにきました」
「おお、沖浦さんは、よくここに来るよ、がたいのいいおっさんや」
近世に入って、造船業が栄え、それなりに謳歌した時代もあったかもしれないが、それでも「よそ者」の集合体が港町であり、そういった空気は、水商売、賭け事、用心棒、まるで漫画の世界で登場してくるような時代もあっただろう。
俗にいう「黄金の島」とは、蓋をあければそのようなものだ。
「金とおんな」はつきもので、そういったフィルターはいつの時代でもキーワードとして登場するが、場所によっても芸事にも、品と下品があり合法に近かったり非合法にもなったりもする。
当時の人間たちにとって、色事は、文化とは思っていなかっただろう。
大人の遊びに手を出して、春を謳歌したものもいれば、怖い思いをした子供もいるだろう。
札束が飛び交う中、時代の蓄積は、どういった形で人を形成していったのだろうか?
人間とは喜劇のような存在で、近隣の島を取り上げるときも、風俗=芸事ばかり取り上げる。
色事でいえば、避妊技術の未熟な時代での一夜の晩は、間違えば、私生児を身にたくし、なかなかそういった人生を背負った子供たちは幸せに結びつくことはまれだっただろう。
闇夜の晩の処理に活躍するヤブ医者、必殺仕置き人、はかほり職人
ある人間は真理に目覚め、ある人間は世の中の厳しさに身をさらし、どうでもいい人間は、どうでもよくなった。
沖浦さんのお孫さんの「ももへの手紙」を見て時代って変わったなと思ったりもする。
また、こんなことを書く人間もいないだろうしな。
わたしだったら、「ルパン三世」になってしまうだろうが
食べ物でも味覚を忘れ、「苦い」が「ほろ苦い甘さ」になったり、「辛い」が「すっぱい」になったりもする。
島は廃れようと、死ぬことはない
廃れるのは、資本主義をもとにした島であって、それにかわる再生は必ずあるだろう。
それを受け入れる度量があるかないかが、肝心だ。
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