前回、帰省した際に、大望月邸において、野口雨情が木江松本旅館に泊まった時の資料が掲示されていた。
昔の松本旅館の写真も、野口雨情の写真も有名で、何度か見る機会はあったけれど、資料として自分の手元に残していなかったので、このさい保存することにした。
松本旅館に泊まった文人はそのほかにも、吉井 勇、 布田 源之助、 江見 水蔭などがいる。
特に
千代田スタジオで撮影された吉井 勇の絵葉書は強烈な印象をもっている。
港町特有の文人をもてなすため、ハチャメチャなドンちゃん騒ぎをしたこは、半世紀たっても、武勇伝は残っているだろう。
天満港の近くで、芸者を呼んでドンちゃん騒ぎ
それは、港中に昼夜聞こえていたことだろう。
迷惑千万だろうけれど、バンカラが横行した時代から、多少は大目に見て頂戴ということで終わったのではないだろうか。
野口雨情http://www.iwaki-cc.ac.jp/douyou/oitati.html
ホームページから引用
野口雨情(本名:英吉)は、明治15年(1882年)5月29日茨城県多賀郡磯原村(現在の北茨城市磯原町)に長男として生まれました。家は代々水戸藩の薪炭奉行を勤め、廻船問屋を営める、世にいう名門でした。
雨情は、磯原尋常高等小学校を卒業すると、15歳で上京し、当事衆院議員として活動していた伯父勝一の家から、東京教学院中学、順天中学、東京専門学校高等科文学科(早稲田大学文学部)に通学しますが、明治35年5月17日の20歳のときに東京専門学校高等科文学科を中退します。雨情が詩を雑誌に投稿しだしたのは、この中退した頃からのようです。
詩人仲間と東京の第一線で華々しくスタートを切った雨情に、父の死去という不幸が訪れました。雨情は磯原に呼び戻され、父死亡に因り、明治37年1月29日より野口家の戸主となりました。22歳のときでした。
磯原に帰り家督を継承すると、父が生きている頃から話題に上がっていた花嫁の候補者高塩ヒロと22歳の秋、11月29日の吉日に式を挙げました。ヒロは翌々年の明治39年3月9日に長男雅夫を生みました。
雨情は、明治39年6月末に、ついに磯原での生活に耐え切れずに樺太へ渡ります。
明治44年の秋に、母が死去し、帰郷の潮時がやってきたことを感じるとともに、故郷に帰って実質的な戸主として、先祖からの全遺産を継いでやって行く決心がついたようです。そして、植林事業に精励、大正3年には磯原漁業組合理事となります。この頃、痔疾を癒すため湯本温泉に通い、芸者小すみを知ります。家業傾き入山採炭株式会社の事務員となり、いわき市錦町の祖母の実家滝川家から湯本にある入山礦業所へ通っていました。 芸者小すみは、芸子置屋「柏屋」の女将(本名:明村まち)となり、雨情は「柏屋」で3年半生活します。
大正4年の5月10日に、妻ヒロと協議離婚。6月に2児をひきとり、父と子で生活します。
この湯本時代は、雨情の生涯にわたって、子供たちとの唯一の楽しい生活でした。「よいよい横町」「土撞唄」は湯本時代の作品といわれています。
大正7年9月、明村まちと別れ、水戸の中里つるのもとへ走ります。
昭和初期から民謡へも情熱を傾け、全国各地の民謡を数多く残しました。
昭和20年宇都宮で永眠。63歳でした。
北茨城市磯原町出身で、廻船問屋の息子、そして、童謡の作詞家として有名とのことでした。
また、野口雨情の家業の廻船問屋も鉄道に物流がかわることにより傾き、多くの廻船問屋と同じ様な運命をたどっている。
作詞には、
・木の江のみなと はれて涼しい月夜の晩は 川の流れもしたしたと(地蔵平川の河口)
・誰がのるやら 木の江の沖を 三島まいりの船が行く
・霧がかかれば 山さえ見えぬ どこをたよりに船は行く
・雲になりたや 空とぶ雲に 気隋気儘(きまま)の白雲に
・山は遠いし 野原はひろし 水は流れる雲はゆく
木江浦節
1 知らぬ振りして ハコラヤノヤット
沖行く船もヨ 暮れりゃ アラヤットンナ (暮れりゃマタヤアホウ)
暮れりゃ木の江さ 寄せて来る ナ 寄せて来る
2 忘れなさるな ハコラヤノヤット
神の峰下はヨ いとし アラヤットンナ (いとしマタヤアホウ)
いとしの木の江のサ 船つきば ナ 船つきば
3~9省略
10 誰がのるやら ハコヤノヤット 木の江の沖をヨ
三島 アラヤットンナ(三島アタヤアホウ)
三島まいりのサ 船が行く ナ 船が行く
昭和初期のころ、大三島は宮島と同じぐらいの集客力のある場所であった。
「海の時空館」に展示されてある関西汽船の昔のパンフレットにも、大三島沖で停泊し宮参りの案内の内容を発見した。
宮本 常一さんの本の中にも同様の記述がある。
なぜ大三島は宮島と違い廃れてしまったのだろうか?
木江浦節を野口雨情が作る詳細な経緯は知りませんが、町か、当時財力のあった船舶組合が依頼したと考えたほうがいいのではないでしょうか。
歌の中には、三島が何度も登場してきます。
彼の出身地は北茨城市磯原町
グーグルマップで検索すると
大きな地図で見る大山積神社で検索すると
大きな地図で見るなんと地元、すぐ目と鼻の先に大山積神社があります。
海の神様としても有名な神社ですから、廻船問屋の長男であった野口雨情にとっては、非常に馴染みの深い場所であったのではないでしょうか。
宿泊して実際どんな会話があったのかは、今では知る由もありませんが、海を知る人間として、この港、この周辺は非常に懐かしく、興味深い場所であったと推測できます。
自分のバックグラウンドに近い場所での創作活動
また松本旅館をでた後の足取りも気になります。
グーグルマップで大山積神社、三島神社を調べると東北地方まで存在します。
いったいどういった影響でこの大山積神社のネットワークが構築したのか、興味がわいてきます。
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