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沖浦の船釘3


5 鍛冶職の修行

昔、一人前の職人になるためには、大工、左官、鍛冶、石屋さんなど、みな住み込みで弟子入りし、五年も六年も修行し、賃金はなしで盆、正月に僅かな小遣いをもらっていたのであるが、鍛冶屋さんは特に早朝から働いていたからさぞかし辛かったことであろう。

沖浦の釈舎の老先生のお話では、早い家は午前二時~三時から仕事をはじめ、夜が明けるまでにはもう一人前の仕事をしていたとのことである。

平井先生の記録によると、十歳頃から八年~十二年くらい弟子入りをせねばならなかったとか。

これは明治時代で、小学校が四年生くらいしかなかった時のことであろう。

それがみんな手打ちで、親方と向かい合ってやるのだから息をする間もない、なかなかつらい仕事であったが、しかしそれだけに技術はよく、沖浦の船釘の質は優秀であったよるである。

昭和十九年に電気導入で、ベルトハンマーで打つようになってからは、一人で仕事ができ、弟子は不用になったし、この頃は鍛冶業を志望する者もいなくなり、親子代々続けてやっている家ぐらいが残ったようである。



6 材料の購入

釘の材料は鉄で、コストをやすくするため古鉄とスクラップを利用したようである。

終戦直後は、鋼船を木江港などでも解体していたから、各造船所から廃品に近い古鉄を購入したり、その後は尾道、新居浜、大阪などからも新しい材料を購入したようである。(平各板棒状、丸棒状の二種類)



7 製法と種類

むかしはよこざ((親方)とさきて(弟子)の二人で打っていたが、機械化された後は、次のようにしている。

· シャリングで切った地金(伸鉄材)を石炭炉で焼く。(風を送るフィゴも機械化)
· ベルトハンマーで打つ。(あらうち)
· 亜鉛がけをする。
· しかし、最近亜鉛がけをする釘はすくなくなった。実は、船が波の中にでると船体がたたかれるので、外板がゆるみ、亜鉛がけの釘では浸水しやすいとのことである。
それが普通の釘で腐食し、錆で密着するから、少々の波ではゆるまない。
故に亜鉛がけの釘はあまり衝突のないところや、長持ちをさせたい場所に使用する。
値段は亜鉛びきが高いから「ふところ」とも相談せねばならない。



 次は、船釘の種類であるが、通釘、縫釘、貝折釘、包釘、タック、ボルト等であった。

しかし、田舎のことであり、ほかに鍛冶屋がないので、時には農具、石屋の道具、土工具、簡単な機械の部品など注文により何を作らねばならないかわからず、農具の修繕をすることもしばしばであった。


8 販路

ずっと昔は、鍛冶屋自身小舟に釘を積んで、因島や多度津方面へ売りに出かけていたということであるから、付近に造船所が少なかったのであろうか。

その後、製造業者が、直接造船所へ持っていったり、していたようである。

今は明石に仲介業者ができ、明石の槇肌と沖浦の釘を積んで西日本を廻船している。

昭和三十年頃は、約三〇艘ぐらいの、小形機帆船が製造され、上は大阪から下は九州鹿児島、その他、四国、日本海側の各地の造船所、船具店に持ち込み販売をしていたようである。


8 今後の動向
我々島の者は、船は木で作るもので、木船がなくなるとは思わなかったのに、それが、昭和三十五年を過ぎると、ほとんどの造船所が次々と鋼船建造に切り替え、小さな釣り舟はプラスチックに変わってしまい、漁船、農船、伝馬船等木船が僅かに残っていた。


これでは木江町の独占産業としてがんばってきた「槇肌」「船釘」も不用となり、このままではまた将来の見通しが、なくなってしまったわけである。


長い間明石の仲介業者は、ちいさい船で遠くに行くので色々な危険もあり、釘が少なくて、鞆町まで行って購入したりなど、数々の難儀を克服して働いた結果、収入も多かったように聞いているが、いよいよ郷土産業がなくなってしまったらどうなることだろうか。
唯々今日までのみなさんのご健闘に感謝し、今後一日でも長くこうした商売のできる事を祈る次第である。

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沖浦の船釘2

3 船釘とまきはだの生産高

幸い小学校編の南郷土史の中に、明治四〇年から大正四年までの「船釘」「まきはだ」の生産高や収入金額が記入されていることがわかるあわけである。

下の表を見ると、「まきはだ」の方の生産高は段々上昇しているのに、船釘は大正元年をピークに下がっている。




これから、第一次世界対戦と好景気に向かうので、どちらも上昇するものと思われるが、資料がないのが残念である。



4 会社組織をつくる

かくして、昭和初期の不景気の時代を経て、昭和十二年には、日華事変がはじまり、同十四年の第二次世界大戦がはじまった時、沖浦にはじめて「船釘工業組合」が結成され、一九年には「安芸船釘有限会社」にきりかえ、従来の手打ちをやめ、電気動力を導入して、鍛冶屋さんも機械で釘打ちを始めるのである。


当時の工員は五十三名で工場組織にし、主なる指導者は正畑規矩、円光利政さんであった。


電気動力の採用には、先に釈舎龍猛先生が医院のレントゲン撮影に使用され便利が良いので、釘打ちに推薦されたとのことである。(釈舎龍猛先生談)


当時は終戦直後であり、日本の企業はどこも総力戦体制で統合されていたときであるが、船釘会社はどうなっていたものであろうか。

また、翌二十年には無条件降服という惨憺たる敗戦を迎え、戦後の混乱、不景気、預貯金封鎖等々むつかしい世の中をどのように対処したものか、二十九年には閉鎖ということになって、僅か一〇年の歩みを続くけてはいるが、戦中、戦後でるから、決して、平坦な易い道ではなかったと思われる。

会社は戸をしめても、西日本の釘の需要はあるわけであり、働いて一家の生活を守るため、まあ家に帰って個人経営に転換したようである。

幸い三十年には、日本の造船界も活気をおび、輸出船ブームで好況に向かい、神武景気をもたらした。

台所に入ってみると、どこも家庭電化時代に入り、三一年(1956)には船舶建造高が世界一となったそうであるから大崎島の造船所も、南の釘もまきはだもさぞかし好景気に見舞われたことだろう。




沖浦の船釘

第七章から


筆者は、木江南小学校に昭和41年(1966)から六年間お世話になり、三里浜の鍛冶屋さん山田義孝氏内の隣に下宿し、毎晩入浴をさせてもらっていたのである。

だから、舟釘を打つ様子もみせてもらったし、この方面のお話も多少教えていただいたが、残念ながらまとまった記録は残っていない。

しかし、小学校上島支区社会科部員のお世話をしていたのこともあり、社会科部員の協力を得て、お互いの学校の郷土史を研究して、「神峯」という小冊子にのせていたことがある。

実は、その第六号(昭和33・5発行)に当時南小学校の平井邦宏先生が「郷土の舟釘について」と題し掲載してくれたことがある。

しかし当時舟釘の歴史を書き残さなければならぬ運命を自覚していなかった筆者はのんきであった。

 そして、静かに星移り、時流れ、木船から鋼船の時代になってみると、大崎南の特殊産業であった、「槇肌」も「舟釘」も消え去らんとする運命の岐路にたっているわけである。

ではその足跡を訪ねてみれば、このささやかな記録が、今この地上に残る唯一の貴重な資料であることを有り難く思うわけである。

では、これを参考に沖浦の舟釘の歴史をまとめることにしてみたい。

大崎上島には、城跡といわれるものが、八つ程あるが、いずれも芸藩通史や豊田郡誌の中に、僅かにその名を残している開発領主は、土倉是右ヱ門冬平だけである。

大事にしてあげたいものである。


1 郷土の鍛冶屋さん

明石の御串山八幡宮には沢山の棟札が残っており、その中の慶長15年(1610)のものに鍛冶久兵衛と、寛永7年(1667)のものに、沖浦鍛冶大工藤原九右ヱ門の名が残っている。(大崎南村郷土史ー正畑規矩監修ー昭和26・1・20)

九右ヱ門さんは、沖浦とあり、藤原という苗字もあることから地元のれっきとした鍛冶屋さんであったことがわかる。

即ち、これで300余年前この地に鍛冶をいとなむ人が住んでいたことになる。

神社建築に必要な建築史の本をくってみると、宮に飾る金具、建築に必要な金物、鉄釘、カスガイなどを作ったようである。

以上、神社建築に必要なものをつくった事は考えられるが、では平常はどんな仕事をしていたのであろうか。

300余年前の昔には木江にしても沖浦、明石にしても、造船業が発達していたことも考えられないし、勿論舟釘の需要がどんどんあったとは思われないのである。

結局、当時は農業が主体であるから、農鍛冶といって、農業に必要な鍬や鎌か一般農具を作っていたのではないだろうか。


それから、江戸時代小さな船が沢山できるけど、二ー三軒の鍛冶屋さんでことたりていたのものと思われる。


2 仲介業者と舟釘

明治入って、新時代となると、西洋型帆船等新しい造船技術が導入され、鍛冶の仕事も必然的に変わったことであろう。

しかし、沖浦の船釘といって普通の鍛冶業よりはなれ、釘だけに仕事が統一されているのは、明石の槇肌船があちこちの造船所を廻船中、錨、船釘の注文を受けたので、錨は尾道、船釘は沖浦の業者にたのんでつくらせたようである。





即ち沖浦の鍛冶屋さんは、マキハダ船の仲介業者のための釘を打ち、付近の造船所へ売るための釘ではなかったのである。

それでは、船釘はいつ頃から、本格的にはじめてられたのであろうか、ということになると、確かにな記録がないのでわからない。

マキハダ業が副業として一般に解放されたのが、明治一二年であるが、原料はいるし、おいそれとすぐにできるこのではない。

造船業が波にのり、確実性が保証されないと踏み切れるものではない。
古い記録には明治25年(1892)頃から、マキハダ、船釘も忙しくなったように書かれているから、この頃からではないかとも思われる。

しかし、二七~八年には、日清戦争、三七~八年には日露戦争があり、なかなか落ち着けなかったと思われるが、石炭輸送で全国的に船はどんどんふえた。


上空から見た生野島の変遷

国土地理院のサイトで公開している

国土変換アーカイブ空中写真閲覧

を使って、生野島の変化を年代別に調べてみた。




1947年(昭和22年)
足利浄円は昭和7年からこの島に住んでいたそうだ。

迦洞無坪とならび、どんな文化がこの島で花咲いたか知りたいものだ。




1948年(昭和23年)
食糧難のまっただ中、
121軒の人達が大挙この島に開墾に入ったのだろう。

写真から判断すると、裸の山の状態であるから、まだ苗木など植えたばかりで、作物の収穫などできていないのだろう。

収穫まで最低、5年はかかることから、夢半ばにして、放棄して出て行く人も多かったと聞いている。




1975年(昭和50年)
ミカン百姓のせがれには、忘れることのできない
大暴落が、昭和43年につづいて昭和47年に起きる。

この後、生産調整となり、クズ蜜柑は肥やしとなる。

畑は荒らすか、違う作物を作るか
(といっても、市場にでるものはない。気休めだ)

避けることのできない選択を迫られる。

島の百姓にとって、屈辱的なものはないだろう。

傾斜地の強い生野島でこれだけの畑であった状態を見ると、
苦渋の決断だっただろう。





1981年(昭和56年)
放棄された後
元の原生林に戻りつつある生野島

豊になるため、急勾配の山を人力で開墾し、

日夜汗水垂らして、耕してきた恵みの土地も自然の力には逆らえないということか。





1999年(平成11年)
契島は、工業化が進み、みっしりと島全体が工場と化している。

昔の写真を見ると、汚水を海に流していたのだろう。

はっきり海面に白い線が見えた。

また、終戦後は、煙突もあったのだろう、煙も確認できた。

この頃には、工場の公害問題もクリアーできているのだろう。

生野島の変化とくらべると、大きな変化はみられない。





2006年(平成18年)
人口減少、流出のため、世帯数は30程度だろうか。

大崎上島と同じくにっくきイノブタの侵略のお陰で、数少ない農作物は、
食い荒らされているだろう。

今年の8月に初めて生野島をまわったとき、

イノブタの捕獲用のオリと、散弾銃の薬莢の空が落ちてあった。

この翌年には、自然休養村生野島のキャビンビレッジも赤字のため閉鎖される。

民間会社の経営感覚で考えると、

これだけ立派な施設を廃止する前に、もっと有効活用できるよう、宣伝できなかったのだろうかと不思議に思う。

既に、インターネット回線はしかれていたのだから、

実にもったいないことをしたと思う。





2010年(平成22年)

ほぼ、以前の自然のままの生野島に戻っている。

自然の復元力は凄いものだ。

今では、山を歩くと所々に、大金をはたいて敷いたモノレールが、

錆びてしまい、

ジャングルとなった場所に

「ここは以前は畑だった。」

ことを示す道具となっている。

これは大崎上島にも同じことがいえる。

人が生きるということは、大変なことなんだと生野島は教えてくれる。

暑い炎天下の中、

ひたすら、働き続けたものはなんだったのだろうか?

それは、やはり自分の家族・子供のため、

この場所に生きる覚悟なくしてなしえないものだ。

対象が、畑であれ、鉄板の上であれ、楽しことは、ほとんどない。



公報に目を通すと、

「苦労ばかりで生きるのに、一生懸命。

楽しいことはなかったね。」

の言葉が身に浸みる。


昨今、「楽園」などと島を称することが流行みたいだが、

元々、コピーライターが作った軽いキャッチフレーズで、

都会人とキャッチボールを楽しめる場所ではない。



できることなら、

生野島桜祭りとはどんなものだったのか、体験してみたかった。

昨日も、ビデオにとった、生野島の絶景を見ながら、

何度も、頭の中はリフレインしています。

調べ残したことがあるので、もう一度、生野島を訪れることが出来たらいいなと思います。

「島へ。」 (株)海風舎

今日、やっと海風舎の隔月誌 「島へ。」を手に入れました。

紀伊國屋書店で在庫確認をして夕方手元に。

まず、雑誌の印象ですが、今までの、広告宣伝が全面に出た、

パラダイス的な雑誌ではなく、適度に力を抜いた大人の目線の雑誌です。

島が好きな人が作り書いている雑誌です。

不思議と、何度も目を通していくと、新しい発見ができる雑誌です。




はるな愛が、インタビューで「大三島にいったことがある。」など語っているのも、驚きました。





冗談はさておいて、今回は大崎上島が取りあげられています。

撮影と文章は、斉藤潤さん

元遊郭街だった天満の小路を彷徨えば(下)

元遊郭街だった天満の小路を彷徨えば(上)

降って湧いた大崎上島行きはこうして決まった

大崎上島で櫂伝馬を見送る




木江の木造建築物

船大工が作った建物



そして、内側から写真を撮られている。

おそらく、これが初めてではないのだろうか。


正直な話、もっと道路拡張する前の古い木江を撮って戴ければ有難かった。


小学生時代、

畳2畳ばかりの小さな和室に入ることができた。

小さな硝子障子を開けると、

眼前に海が飛び込んできた。

入江が一望できる。

しかも、浅瀬ではない。


釣り竿をたらせばツリができるのではないか。

心地よい海風が、

幼ながらにこの部屋が何に使わてきたか、

頭に2つひらめいた。

船があれば色事

気がのらなければ、酒を一杯

中々粋じゃないか。

とっくの昔に、廃れた色街の風情も、

船大工の創意工夫で、

硝子障子を開けた瞬間、飛び込んできた。

タイムワープしたみたいな感じだ。

できることなら、

こういった風景は、なくなる前に、誰か撮影して欲しかった。

今となっては、もう遅い。

残念なことではあるが、

それは、それで、

あるがままで、いいのかもしれない。




そして、海へ

には、天満 という小説が連載されていた。

私的にいえば、

島の人以上に、島を愛している人がいるんだな。


この島の魅力にとらわれた人も案外多いんだなと思った。


でも、こうして、色々な方が、色々な視点の大崎上島を注目して戴けるようになった。


やはり、「旅する櫂伝馬」のお陰だと思う。


本当に、彼等の勇気ある行動が、すべてのきっかけになったと思う。



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追記

肝心の斉藤潤さんの書かれた記事を紹介していなかったので、説明させて戴きます。


大崎上島には、

日本一が九つもある不思議でいっぱいの島へ

とタイトルに書かれています。

この九とは、

中小型鋼船生産量(国内航路)

鉛の生産量(東邦亜鉛契島精錬所)

メタノール輸入基地(木江ターミナル輸入基地。単一品種の輸入)

加圧流動床複合発電設備(中国電力大崎発電所、世界最大級、電力需要低迷で近々稼働停止予定)

大崎上島産ブルーベリーのアントシアニン含有量

木造五階建ての民家、

神峰山の多島美(115島を一望)

槙肌生産量(現在生産中止)

そして、私見ではあるが、木江地区の木造三階建て商家の集積度


と説明してくれています。


また、小説 天満 では、山之内という登場人物で、

熱く、木江の木造建築の文化保存の必要性を、島民に

語かけてくれています。

(どこが、小説なのか私にはわからない、そんな小説です。)

近々、

いや、是非

こういった造詣のある出版者の方と、この町の文化ホールで、

「大崎上島の文化」

と題して、講演をおこなって欲しいなと熱望します。


本当に、誇れる文化がありながら、

時代の波とともに、朽ち果てていくのはしのびないと訴えています。


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最後に、軍艦島のことも取りあげられています。


端島(軍艦島)と大崎上島備忘録と出会うきっかけになったのは、契島の関係からです。

契島も通称軍艦島

端島も軍艦島と呼ばれています。

端島の閉鎖の話は、昭和49年

オイルショックのまっただ中

東洋工業も工場見学にいったその年に、倒産(年度は多少前後するかもしれないけれど、)

造船業も斜陽化、これ以降地盤沈下が顕著になっていきました。

そういった時代背景からか、端島の閉鎖は、記憶にしっかり残っていました。

端島に住まわれていた神村小雪さんとは、軍艦島つながりで、何度かメールのやりとり

以前のHPにリンク紹介をして戴きました。

彼女が書かれた本

軍艦島グラフィティは、図書館でも蔵書としておかれているところが多いです。



端島は、廃墟とか、日本最古の鉄筋高層アパート、ボタでできた人工島など、

何かと注目されてきた場所ですが、

生活者のしっかりした視点で、みていただければと思います。

大崎上島の「ナビ」開発へ


広島商船高専(広島県大崎上島町)は、大崎上島町内で交通機関の乗り継ぎやイベントの情報を発信する案内システム「しまナビ」の開発を始める。

島の活性化を図るのが狙いで17日、中国総合通信局の支援事業に選ばれた。

 バスやフェリー内に電光掲示板を設け、衛星利用測位システム(GPS)を使って位置を把握して次のバス停やフェリー乗り場までの所要時間や発着時刻を知らせる。

町役場やスーパーにもタッチパネル端末を置き、既設の光ファイバー網を活用して情報を流す。

 地域の祭りやスーパーの特売情報なども発信する。

事業期間は2年間で、バス内や主要バス停で来年4月からの試験運用を目指す。

同高専の岡山正人教授は「住民のニーズに応じた幅広い情報を発信したい」と話す。


中国新聞  '10/8/18 から 


これを読んだとき

みなと振興交付金の「みなと振興計画」の認定の記事を思い出した。


地域の主体的な取組を支援する『みなと振興交付金』の創設

大崎上島アクセス快適化計画(みなと振興交付金)


今まで、合併時に際しては、行政や、NPOに過度の期待をして失望した経験がある。

また、こういったソフト面は、普及しているものも多い。

それに、世代間のデジタルディバイドの問題は深刻だ。

お年寄りの多い地域に、果たして「しまナビ」が便利と言われるまでに熟成できるのか?

人のいない船乗り場に時刻表を点滅しても、それは単なる電力の無駄遣いにしかならない。

あまりに、類似したサービスが多く競争が激化しているからだ。

この時代にソフトより先にハード(箱物)ができあがることなど、あり得ない。

ソフトバンクの孫さんの30年ビジョンをみてそう思いました。

利用者の時間管理もでき、便利な大崎上島が実現可能なら、期待したい。

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