筆者は、木江南小学校に昭和41年(1966)から六年間お世話になり、三里浜の鍛冶屋さん山田義孝氏内の隣に下宿し、毎晩入浴をさせてもらっていたのである。
だから、舟釘を打つ様子もみせてもらったし、この方面のお話も多少教えていただいたが、残念ながらまとまった記録は残っていない。
しかし、小学校上島支区社会科部員のお世話をしていたのこともあり、社会科部員の協力を得て、お互いの学校の郷土史を研究して、「神峯」という小冊子にのせていたことがある。
実は、その第六号(昭和33・5発行)に当時南小学校の平井邦宏先生が「郷土の舟釘について」と題し掲載してくれたことがある。
しかし当時舟釘の歴史を書き残さなければならぬ運命を自覚していなかった筆者はのんきであった。
そして、静かに星移り、時流れ、木船から鋼船の時代になってみると、大崎南の特殊産業であった、「槇肌」も「舟釘」も消え去らんとする運命の岐路にたっているわけである。
ではその足跡を訪ねてみれば、このささやかな記録が、今この地上に残る唯一の貴重な資料であることを有り難く思うわけである。
では、これを参考に沖浦の舟釘の歴史をまとめることにしてみたい。
大崎上島には、城跡といわれるものが、八つ程あるが、いずれも芸藩通史や豊田郡誌の中に、僅かにその名を残している開発領主は、土倉是右ヱ門冬平だけである。
大事にしてあげたいものである。
1 郷土の鍛冶屋さん
明石の御串山八幡宮には沢山の棟札が残っており、その中の慶長15年(1610)のものに鍛冶久兵衛と、寛永7年(1667)のものに、沖浦鍛冶大工藤原九右ヱ門の名が残っている。(大崎南村郷土史ー正畑規矩監修ー昭和26・1・20)
九右ヱ門さんは、沖浦とあり、藤原という苗字もあることから地元のれっきとした鍛冶屋さんであったことがわかる。
即ち、これで300余年前この地に鍛冶をいとなむ人が住んでいたことになる。
神社建築に必要な建築史の本をくってみると、宮に飾る金具、建築に必要な金物、鉄釘、カスガイなどを作ったようである。
以上、神社建築に必要なものをつくった事は考えられるが、では平常はどんな仕事をしていたのであろうか。
300余年前の昔には木江にしても沖浦、明石にしても、造船業が発達していたことも考えられないし、勿論舟釘の需要がどんどんあったとは思われないのである。
結局、当時は農業が主体であるから、農鍛冶といって、農業に必要な鍬や鎌か一般農具を作っていたのではないだろうか。
それから、江戸時代小さな船が沢山できるけど、二ー三軒の鍛冶屋さんでことたりていたのものと思われる。
2 仲介業者と舟釘
明治入って、新時代となると、西洋型帆船等新しい造船技術が導入され、鍛冶の仕事も必然的に変わったことであろう。
しかし、沖浦の船釘といって普通の鍛冶業よりはなれ、釘だけに仕事が統一されているのは、明石の槇肌船があちこちの造船所を廻船中、錨、船釘の注文を受けたので、錨は尾道、船釘は沖浦の業者にたのんでつくらせたようである。
即ち沖浦の鍛冶屋さんは、マキハダ船の仲介業者のための釘を打ち、付近の造船所へ売るための釘ではなかったのである。
それでは、船釘はいつ頃から、本格的にはじめてられたのであろうか、ということになると、確かにな記録がないのでわからない。
マキハダ業が副業として一般に解放されたのが、明治一二年であるが、原料はいるし、おいそれとすぐにできるこのではない。
造船業が波にのり、確実性が保証されないと踏み切れるものではない。
古い記録には明治25年(1892)頃から、マキハダ、船釘も忙しくなったように書かれているから、この頃からではないかとも思われる。
しかし、二七~八年には、日清戦争、三七~八年には日露戦争があり、なかなか落ち着けなかったと思われるが、石炭輸送で全国的に船はどんどんふえた。
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