国土地理院のサイトで公開している
国土変換アーカイブ空中写真閲覧を使って、生野島の変化を年代別に調べてみた。
1947年(昭和22年)
足利浄円は昭和7年からこの島に住んでいたそうだ。
迦洞無坪とならび、どんな文化がこの島で花咲いたか知りたいものだ。
1948年(昭和23年)
食糧難のまっただ中、
121軒の人達が大挙この島に開墾に入ったのだろう。
写真から判断すると、裸の山の状態であるから、まだ苗木など植えたばかりで、作物の収穫などできていないのだろう。
収穫まで最低、5年はかかることから、夢半ばにして、放棄して出て行く人も多かったと聞いている。
1975年(昭和50年)
ミカン百姓のせがれには、忘れることのできない
大暴落が、昭和43年につづいて昭和47年に起きる。
この後、生産調整となり、クズ蜜柑は肥やしとなる。
畑は荒らすか、違う作物を作るか
(といっても、市場にでるものはない。気休めだ)
避けることのできない選択を迫られる。
島の百姓にとって、屈辱的なものはないだろう。
傾斜地の強い生野島でこれだけの畑であった状態を見ると、
苦渋の決断だっただろう。
1981年(昭和56年)
放棄された後
元の原生林に戻りつつある生野島
豊になるため、急勾配の山を人力で開墾し、
日夜汗水垂らして、耕してきた恵みの土地も自然の力には逆らえないということか。
1999年(平成11年)
契島は、工業化が進み、みっしりと島全体が工場と化している。
昔の写真を見ると、汚水を海に流していたのだろう。
はっきり海面に白い線が見えた。
また、終戦後は、煙突もあったのだろう、煙も確認できた。
この頃には、工場の公害問題もクリアーできているのだろう。
生野島の変化とくらべると、大きな変化はみられない。
2006年(平成18年)
人口減少、流出のため、世帯数は30程度だろうか。
大崎上島と同じくにっくきイノブタの侵略のお陰で、数少ない農作物は、
食い荒らされているだろう。
今年の8月に初めて生野島をまわったとき、
イノブタの捕獲用のオリと、散弾銃の薬莢の空が落ちてあった。
この翌年には、自然休養村生野島のキャビンビレッジも赤字のため閉鎖される。
民間会社の経営感覚で考えると、
これだけ立派な施設を廃止する前に、もっと有効活用できるよう、宣伝できなかったのだろうかと不思議に思う。
既に、インターネット回線はしかれていたのだから、
実にもったいないことをしたと思う。
2010年(平成22年)
ほぼ、以前の自然のままの生野島に戻っている。
自然の復元力は凄いものだ。
今では、山を歩くと所々に、大金をはたいて敷いたモノレールが、
錆びてしまい、
ジャングルとなった場所に
「ここは以前は畑だった。」
ことを示す道具となっている。
これは大崎上島にも同じことがいえる。
人が生きるということは、大変なことなんだと生野島は教えてくれる。
暑い炎天下の中、
ひたすら、働き続けたものはなんだったのだろうか?
それは、やはり自分の家族・子供のため、
この場所に生きる覚悟なくしてなしえないものだ。
対象が、畑であれ、鉄板の上であれ、楽しことは、ほとんどない。
公報に目を通すと、
「苦労ばかりで生きるのに、一生懸命。
楽しいことはなかったね。」
の言葉が身に浸みる。
昨今、「楽園」などと島を称することが流行みたいだが、
元々、コピーライターが作った軽いキャッチフレーズで、
都会人とキャッチボールを楽しめる場所ではない。
できることなら、
生野島桜祭りとはどんなものだったのか、体験してみたかった。
昨日も、ビデオにとった、生野島の絶景を見ながら、
何度も、頭の中はリフレインしています。
調べ残したことがあるので、もう一度、生野島を訪れることが出来たらいいなと思います。
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