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沖浦の船釘2

3 船釘とまきはだの生産高

幸い小学校編の南郷土史の中に、明治四〇年から大正四年までの「船釘」「まきはだ」の生産高や収入金額が記入されていることがわかるあわけである。

下の表を見ると、「まきはだ」の方の生産高は段々上昇しているのに、船釘は大正元年をピークに下がっている。




これから、第一次世界対戦と好景気に向かうので、どちらも上昇するものと思われるが、資料がないのが残念である。



4 会社組織をつくる

かくして、昭和初期の不景気の時代を経て、昭和十二年には、日華事変がはじまり、同十四年の第二次世界大戦がはじまった時、沖浦にはじめて「船釘工業組合」が結成され、一九年には「安芸船釘有限会社」にきりかえ、従来の手打ちをやめ、電気動力を導入して、鍛冶屋さんも機械で釘打ちを始めるのである。


当時の工員は五十三名で工場組織にし、主なる指導者は正畑規矩、円光利政さんであった。


電気動力の採用には、先に釈舎龍猛先生が医院のレントゲン撮影に使用され便利が良いので、釘打ちに推薦されたとのことである。(釈舎龍猛先生談)


当時は終戦直後であり、日本の企業はどこも総力戦体制で統合されていたときであるが、船釘会社はどうなっていたものであろうか。

また、翌二十年には無条件降服という惨憺たる敗戦を迎え、戦後の混乱、不景気、預貯金封鎖等々むつかしい世の中をどのように対処したものか、二十九年には閉鎖ということになって、僅か一〇年の歩みを続くけてはいるが、戦中、戦後でるから、決して、平坦な易い道ではなかったと思われる。

会社は戸をしめても、西日本の釘の需要はあるわけであり、働いて一家の生活を守るため、まあ家に帰って個人経営に転換したようである。

幸い三十年には、日本の造船界も活気をおび、輸出船ブームで好況に向かい、神武景気をもたらした。

台所に入ってみると、どこも家庭電化時代に入り、三一年(1956)には船舶建造高が世界一となったそうであるから大崎島の造船所も、南の釘もまきはだもさぞかし好景気に見舞われたことだろう。




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