東京家族は、山田監督と平松恵美子さんが新たに書き直した脚本ということだ。
2人の間でどんな映画の構想を練っているのか?
ニュースによるとぎりぎりまで、練りに練って、熟成させた状態で撮影に移るそうだ。
木江と東京というセッテングだが、なぜこの場所で撮影しなければいけなかったのか?
監督の映画に、裕福な主人公は登場しない。
中産階級というよりは、労働者階級に焦点を合している。
また故郷を捨てて、新天地をもとめ移住するケースが多い。
それは、慣れ親しんだ場所を離れるということ
一度、もった財産 知人、友人を捨ててリセットすることは、人にとって実にヘビーなことだ。
しかし、「生きるため」の取捨選択は避けてとおれない
かってこの町の造船所が盛んだった頃は、転入者もたくさんいたが、度重なる不況により、どんどん縮小していった。
そして、二度と人口は元の状態に戻ることはなかった。
人生に別れはつきものだけれど、小さな町だから、近視眼的になり しんどさはなおさらだ。
こうなってくると、捨てるというより収奪行為に近いなと思う。
土地、建物、財産を所有することは確かに豊かにする手段だ。
しかし、それが、更に進んで剥奪するなり、そういった非日常的行為が起きるとどうなどうだろう。
人間世界でよくある憎しみ、妬み、僻み、など生み出す原因となり あまりいいものは引き出すことはできない。
木江は箱庭のような場所だ。
絵を撮影するのは、非常に手早く作業ができるのではないか。
撮影現場の木江は、いわば、時代の波に残され放棄されたような場所だ。
しかも島であることで、都会のように、投機に基づいたスクラップ・アンド・ビルドの被害がすくない。
木造の家は主をなくし、管理する人がいなくなると、自らの運命を察してから、勝手に倒壊していく。
狭い道路は、人が歩くための道路だ。
この町が好きな人だけが、住めばいいのだ。
人も町も生き物なのだ。
日本人のメンタリティーは、高度成長期以降、精神主義から物質至上主義に変わってしまった
新しいものが、正しいという風潮に染まってしまった
老いも若きも高いものはありがたい、安いものは下品で精神まで貧しいような風潮になってしまった
便利が当たり前、不便は敵
貧乏を楽しめる生活の工夫もなくしてしまった
人と人が会話をするのも難しくなった
自殺者3万人が年中行事になってしまった
自分を疑い正そうとする勇気もなくなってしまった
震災後の日本
東京と木江の対比
どういったテーマを問題提起していくのか?
個人的にここの場所は是非 撮影から外してほしくないポイントが数カ所ありますが、是非楽しみにしています。
ちなみに、下の写真は数年前の正月のものです。
退院後、最後になるかと思い撮影したものです。