後からわかったことだけど、島の3分の2程度まわっていたことになる。
物音のしない人家の隣の道を今度は、降りていき
福浦港まで、次の船が来るまで たどり着いた。
店もないし、
喉が渇くので、福浦港のフェリーの待合所のトイレの蛇口で
タオルを濡らし、喉の乾きを潤す。
アブがでように出られない待合室の椅子に横たわり
船の来るのをまった。
暫くすると、車の音が聞こえた。
軽自動車にのって農作業を終えたという
おじさんおばさんとはじめた遭う。
「大長から、ミカンの作業に来たんよ。」
そうなんだ、
この島は大長から開拓にこらえた人も多かったはずなのだ。
こうして、現役で頑張っておられる人もいる。
私の両親とあまり歳も変わらないみたいだ。
高齢化の波は、農家の後継者不足も原因がある。
もう、後5年もしたら、放棄された農地が更に増えるだろう。
まさに限界だ。
処方箋はない
引用
戦後の国・県の農業振興政策のもとに進められた生野島の開拓事業も将来を勘案した計画ではなく、場当たり的な柑橘類栽培の奨励であったため、全国的な生産過剰と重なり、価格の暴落で将来の生活に見通しが立たず離島者や荒廃園が続出した。
秋には全島色づくミカンの収穫を夢見て、額に汗して開墾植栽した柑橘園地の大半が今では元の山野に戻っている。
そして今も残る島の柑橘園は旧態依然とした段々畑であり、高齢化と後継者不足がさらに荒廃園化に拍車をかけているのが現状である。
引用終わり
生野島に来て、
何を探しに来たのか?
「終わりもあれば始まりもある。」
その逆もしかり
開拓者達が夢見た理想郷
文化の華は咲いたはずだろう。
便利で、簡単な世の中になったはずだけれど、
実態は フェイクなものが散乱している世の中だ。
時代の波に動じることのない生野島であって欲しいと思う。
大長から来たおじさんおばさん以外にも、
地元の女性の方が、船乗り場に来られた。
「私は、初めてこの島に来ました。」
「高校時代のSさんと、福本先生なんですが、」
と尋ねると、
女性の方は、
「Sさんは、お父さんが亡くなられ、お母さんは息子さんのところに行きました。」
「福本先生は亡くなられていますが、奥様はおられますよ!」
「息子さんが面倒をみているはずです。」
と返事を頂いた。
すんでいる場所も、先ほどの月の浦
「あぁ、そうだったんだ。」
「音もなにもしないので、怖くなりましたよ。」
とわたし
「みんな暑いので、外にでないんじゃないでしょうか」
資料では25人程度はすまれているとのことだが、
実際はどうなんだろうか?
結局、この会話が最初で最後だったが、消息がわかってよかった。
やはり、福本さんのご子息はご健在だったんだ。
検索エンジンでの
固有名詞の意味が少しわかった気がした。
白水から船が来た。
初めて、
私、女性の方、そして、大長からのおじさん、おばさん
帰りは4人の乗船だった。
10分程度で、白水に着岸
大長からのおじさん、おばさんに別れの挨拶
そして、地元の女性の方に軽い会釈をして
ドリンクを真っ先に自動販売機で購入し、
車に向かった。
帰宅途中にある大望月邸によるために、
続く
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