豊島→大長→御手洗→木江→宗方→木江→宮浦→大山祗神社
のことを記述した本を読みました。
http://waqwaq500.blog.shinobi.jp/Entry/7/
同友館から1969年に出版された
『私の日本地図6 瀬戸内海Ⅱ 芸予の海』
に木ノ江、豊島、御手洗、大長、大三島のことが書かれていました。
豊島の内輪話、家船の知識も当然、宮本常一さんは瀬戸内海の津々浦々まで現地取材をされていましたので、認識としてあったと思いますが、彼の着眼点はもっと違うところあったことがわかりました。
木ノ江、めばるに関連して特にオチョロ船の話題が面白かったです。
べっぴんさんと船乗りの愛の物語など、井伏鱒二の小説にも出てきたものと少し違いますが、おそらく よくあるストーリーなのでしょう。
これまでの、小説、逸話、など総括すると、
芸事、芸能、貧困、色街、差別、貴賤、争い
人間世界の縮図が瀬戸内海の島々でも繰り広げられたことが確認できました。
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まとめ
宮本常一さんは、昭和8年3月
倉橋島の同天丸という帆船で兵庫県別府から大分県佐賀関ルートを有村さんという船乗りに同乗させてもらい旅をした。
有村さんは、めばる港の寄港した際、色黒だけど気立てのいいべっぴんさんと恋に落ち一時的に船から下りることを決意した。
結局船にもどりべっぴんさんとわかれることなる
20年後再び寄港した際、恋に落ちたべっぴんさんが、「結婚して幸せに暮らしている。」ことを聞き安堵した。
木之江
三原、尾道、鞆とくらべ、古い豪商の家並みがなく港全体が若々しい気風ある
本土では想像できないだろうが、おちょろ船からおりたべっぴんさんは嫁にすると所帯持ちがいいといわれ、重宝された。
宮本常一さんは、昭和初期から、何度か、昭和25年、32年、49年と取材に来島(木之江)されていたことがわかった。
昭和初期に訪れた際は、活気があり木造船の建造が盛んで槌の音がひびき、何だかムンムンするところであった。
昭和25年にきたときは火が消えたようになっていたが、32年にいったときはまたかなりの活気がもどしていた。
民衆信仰をあつめ、宮島と肩を並べるほど来島者のあった大三島がなぜひなびた島になったのか。
各章の最後に島の将来を憂う言葉が何度もでてきた
・郷土発展のためにそそいだ情熱が今より強かったのではないか。
・時勢の渡にのるべき何らかの方法があるのではないか。
土地の盛衰を時勢の推移に託することなくもっと積極的な対策をたてることもあってもいい。
この本が出版されたのが、昭和44年だから、当時から危機感を感じていたのだろう。
巻頭の最後にこうしるされている
私はかって瀬戸内海振興法を考えてみたことがあった。
本土や四国の沿岸が工業的に開発せられるのなら、その利益の何パーセントかを島の開発のためにまわして島の開発をすすめるというものであった。
しかしこのような考え方をとりあげてくれたり問題にしてくれたりした人は一人もいなかった。
ずいぶん多くの人に話しかけてみたのだが―――――。
目に見える公害防止も大切だが、目に見えぬ公害の保障もされていいのではないかと思う。
民俗学者、旅の鉄人といわれるほど全国くまなく歩き著書の量も膨大で、この島でも「宮本常一」という言葉はよくきくことができる。
しかし、彼の本当に言いたかったことを伝えた人はいたのだろうか?
決してそれは、物質至上主義ではなく対局に位置するものだ。
旅行記を読むつもりで簡単に考えていたが、平成21年後半を迎える今も、彼のメッセージは40年以上前に発行されたこの本から発信され生き続けていた。
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1953(昭和28)年離島振興法制定
宮本常一を中心に学会の有志で結成された島嶼社会研究メンバーが中心となって設立に貢献した。
その後初代全国離島振興協議会事務長に就任した。
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