かって、宮本常一さんが、本の中で「昭和の初期までは、大三島は宮島に匹敵する観光地だったが、いつの間にか、ひなびてしまった。」と説明されていました。
大阪商船(現在の商船三井)のパンフレットの中でそのことが確認できました。
私にとって歴史的発見の日でした。
今日撮影した画像を載せますので、活字を確認できると思います。
懐かしいけれど、新鮮です。
宮島のパンフレットにInland Seaと英語で書かれている。
安易に和訳に頼らず、イメージで概念を思い浮かべてみた。
内海、という訳もあるだろうけれど、豊かなるプールみたいなものと捉えてみた。
ちなみに、地中海は、the Mediterranean Seaと呼ばれ、「大地の真ん中」という意味の造語だそうだ。
ある中国人は、はじめて瀬戸内海を見たとき「日本にも大きな川があるじゃないか!」といったそうだ。
西洋人は、鎖国状態であった江戸時代に日本を訪れ、「Inland Sea」と他の諸外国の海と比べても素晴らしい景観だと絶賛した。
海の概念、島の概念のとらえ方にふくらみがある。
瀬戸内海の歴史を考えると、否定的概念にとらわれる傾向が残念ながら日本人には多い。
陸から見た日本を語ることは多いが、海からみた風景・日本を語る人は少ない。
海と対話できる日本人が多くなれば、メンタル面でも改善されるだろうに。
人間は俗な生き物だから、我欲に執着する傾向が多い。
執着して行き着く先・物質社会がすべてではない。
瀬戸内海の神様は、長い歴史の中で、人々が生活の場で繁栄した時代、そして数々の自然破壊、今や過疎の時代、人がひいた状態であり、自然が蘇生できるチャンスだと思っているだろう。
遠浅の海、干潟、浅瀬の豊かな自然体系をことごとく干拓したりコンクリートの護岸にしたりして、傷つけてきたので、嫌気がさし、ちょうどいい気分転換になっていることだろう。
所詮、人間は風見鶏。
今は過疎だけれど、歴史の中の一こまと思えば、いずれ人がその価値に気がつき、振り向く時代がやってくる。
島の価値を知り時間のずれを楽しむことができるのは、心の余裕がなければできない。
生活に間を持つことができない規格にはまった人間が増えたのだろうか?
日本人ほど働いて、心をいやせる場所がない民族はいないのではないか。
Inland Seaが本当に自分の中で、確固たる価値をもったときに、いろいろなことを瀬戸内海は語ってくれるようになるだろう。
ということで、小西和さんと『瀬戸内海論』の中で出会うことにしよう。
ウイッキペディアから
「瀬戸内海」の誕生
瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされる。それまでは和泉灘や播磨灘、豊後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかった。
とはいうものの、江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記『海陸道順達日記』では尾道と下関の間を「瀬戸内」と呼んでいる。
「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半には人口に膾炙していったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。
日本人による最初のまとまった論考は小西和の『瀬戸内海論』(1911年)である。この中で小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。小西は「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、帝国議会に国立公園の設置を建議した。この建議を容れて国立公園法が制定されたのは1931年で、1934年3月16日の第1回指定で瀬戸内海は雲仙、霧島とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となった。
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