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8月最後の日曜日

懐かしいこと


中国新聞が出版した瀬戸内海を歩く上下を読んでいる。

ウエッブで読むよりも、一冊の本として、

読むと、一覧性に優れているから前後関係がわかり

まったく違った印象をもってしまう。


食のこと、環境のこと、町興しに取り組む人達など

過去の経緯を、ほとんど網羅しており、

是非、機会があれば、手にとって読んで欲しいと思います。

間違いなく名書です。


この当時は、明石の槇肌船も現役だった。

大崎上島関連だけをピックアップすると、

時代先取り、受注競う/造船の島(4月19日)



ドック巡り船具行商/槙皮船


海底調査で石船再生/二度の奉公


転換作物/盛衰激しく、わき役に


春告げる群れ昔語り/スナメリの海


周囲圧する巨大煙突 -火電の島





斎島
飛来激減 途絶えた漁/県鳥アビ


国境の海で操業26年/アビの島から




そして豊島
豊島有情



大崎下島
文化の町 観光で再興 -伝統雅楽



など、

実際は、瀬戸内海全域で一体性をもって作った本なので、一部だけ抜粋するのはあまりよろしいことではないので、恐縮します。


瀬戸内海関連の本では、比較的日の浅い若い本ではあるけれど、

現在の経過を見ると、

時代の流れは速いと感じてしまいました。

寂しいことではありますが、

逆に、若い人、他地域の人が関心をもって新しい瀬戸内を感じてもらえるきっかけになればと願っています。


最近の傾向ですが、大崎上島備忘録の存在価値も、他地域の方の比重がたかくなってきていることを感じます。


どうしても、記録をとるための要素もあり、

長い文章で列記するのも、読む人にとって辛い部分もあるとは思いますが、

資料をさがす場合、四苦八苦することを考えると、

こうせざるえません。


今まで、メアドはもうけていませでしたが、

フォームをもうけましたので、ご意見・ご感想があれば、

宜しくお願いいたします。

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医学生が島の実情学ぶ 訪問診療など同行

中国新聞から 


医学生が島の実情学ぶ 訪問診療など同行 '10/8/20


 ▽広島県と広島大がセミナー

 広島県と広島大は19日、県内の地域医療を将来担う同大「ふるさと枠」などの医学生36人を対象に、恒例の地域医療セミナーを始めた。導入2年目のふるさと枠が20人を超え、初めて大学が企画段階から参画。中山間地域で開いていた現地研修を島しょ部に移し、呉市、尾道市瀬戸田町、大崎上島町の計9カ所に分かれて学んだ。

 ふるさと枠は、県内の医師不足地域で一定期間働けば奨学金返還が免除される制度。ほかに自治医科大の県出身者10人なども参加。訪問診療に同行したり患者の声を聞き取ったりして、島が抱える医療の実情を体感した。

 3市町のうち大崎上島町は近隣市町と橋で結ばれておらず、救急艇での患者搬送が年間約200件ある。同町明石の田村医院では学生4人が田村淳副院長(42)の診療を見学。消化器科が専門の副院長が最新型内視鏡で、輸血を伴わない範囲の治療をする様子に見入った。

 人口約8700人の同町は高齢化率が40%を超え、6医院の医師11人がカバー。ふるさと枠の1年高橋江奈さん(19)=呉市=は「お年寄りたち患者は、地域医療への満足度が高い」と驚いていた。

 現地研修を踏まえ20日、島のよりよい医療についてグループ討議をする。引率した広島大医学部地域医療システム学講座の竹内啓祐教授(57)は「早期の実地体験が大事。学生も地域医療のイメージをつかめたようだ」と手応えを話した。(白石誠)



【写真説明】最新型の内視鏡で診察する田村副院長から説明を聞く医学部の学生=右の2人(広島県大崎上島町の田村医院)

波止場と燥場 2



·鮴崎港
 
 鮴崎は、東北端の立石の鼻に早くより防波堤と灯台をつくり、入港する船舶の水先案内を兼ねていた。

 また、大崎島は船持ちが多いから、大抵海岸の地区には、2~3カ所の燥場があった。

鮴崎では、行岡と松葉に燥場をもち商売をしていたようである。

生前木江の小川教育長さんに聞いた話では、「僕の学費は燥場の収入を出してもらった」とか、故に相当の利益があったようである。


·垂水港

 垂水の燥場の丘には「東波止建設記念碑」明治二十九年建之(1896)という今から90年前の碑がたっている。

坂田伊佐松が主となって築調したものか、金額が特別多い。
外に三十名の垂水の船乗りの外、他地区の古江、盛谷、白水、小原、小頃子の船のひとまで寄付をしてくれているということは、タルミ咽口港が、この頃小船の避難所として内海で一番安全な良港であったためだろう。

お互いだがらいざというときの入港が遠慮がいらないわけでる。


·古江港

 また古江の村上中国新聞店の前には、「古江燥醵(きょ)金碑」がたっている。
大正十四年六月吉日
(1925~約61年前)のものである。古江の船持ちが寄付してこの沖へ燥場をつくったのである。



·盛谷港

 盛谷には今は黒波止とか、木屋の波止といわれる、古い波止場がある。
青黒い角のとれた丸見のある固い石で三十メートルぐらい北西に向かって築かれた西風を防ぐようにできている。

江戸時代に築調したものと思われるのに、未だ改修したことを知らない非常に堅固な波止場である。

今は、護岸工事のため、みじかく海も浅くなっているが、帆船のいた当時内側で燥船をしていたことも、しっている。

どうも一建立てで作ったものを、区の共同使用に提供したようである、木屋というものは、屋号で黒田言家である。

幕藩時代酒屋や海運業を営んでいたらしいが曽根カ鼻の出っ張りに高い石垣をつき、土塀をめぐらし、門構えの立派な家があったが、老廃し、今は新しい住宅にかわっている。

子孫の方で、黒田宇太郎先生が明治四十年六月から、大正十年二月末まで東野小学校校長をされてえいた。

第一次欧州戦争の好況に恵まれ学校施設も充実しているが、度々郡、県などから表彰の栄にも浴し東野村の名をあげた立派な人である。


·矢弓港

 矢弓の加組には厳島神社という船の守護神を船持ちで建立しているが、ここの海岸には、船持ちでつくった灯台がわりの大きな常夜灯があり、この東側に約三十メートル程の波止場がある。

幕藩時代につくられあ古いものであるから何回か修理されている。

矢弓港へは、沢山の船が出入りしていたから、この波止の内側が大事な燥場だったようである。


·大西港

 大西にも沖に回漕店があり、そこに長い波止場があった。中野にも沢山石炭船が出入りしていたので、燥船をしていたはずである。

大西港は昭和二四年地方港湾に指定され、三十年中野、西野両村が合併したため町内の原下、向山(六軒)、長島、大串各港を含め、「大西港」となって、大西桟橋、フェリー発着場、荷揚げ場など港湾施設がほどこされ、更に旧波止場から百メートルぐらい沖合に西風を防ぐ一文字防波堤(延長百メートル)が五十年頃出来上がり一層よくなったようである。


·木江港

 本港は、大崎上島の東沿岸部中央部に位置し、港口は東北(甲)に開放し、港の中央部は更に深く港入し内港を形成している。

 故に港内の風波は静かであるが、長年の間に港内に土砂がたまり、干潮時には船舶の出入りに障害があったので、昭和五年指定港になった後、港の浚渫をなし、その土砂をもって、周辺の埋め立てをした。
尚内港の港口北岸より南方に向かって延長一〇〇メートルの防波堤を築造し、小型船舶の繁留めの便をはかり、燥場も四カ所あったようである。

木江で最初に「たでば」をつくったのは、東野村小原出身の小川柳右ヱ門さんが、明治一三年(1880)一メ目のはしの東側につくったようである。
その後政之助、忠義さんと変わり後、奥さん(久子)が手伝っていたが、昭和四十年頃鋼船増え、殆ど仕事はなくなった。

それから、寿浦数之助さんが明治四十年頃はじめ、昭和二三年頃光太郎さんが引き受けた。
ほかに堀内勝輝さんから茂夫さん(大正六)、藤原庄之助さんから、正一さんが昭和二十年頃までやったようである。



·沖浦港

 沖浦は南方に開けた港で、西風と南風を防ぐ防波堤を東、西の両岸からつくる格好の漁船の避難港となっている。

白い石灰岩を利用しているので、前面の小大下島から運んできたものと思われるが、大変古いのでいつ築調されたものかはわからない。

芸藩通志の地図には波止場がないから、これ以後であろう。

·明石港

 明石村は芸藩通s志の地図に、防波堤一カ所本浜にある。
結局西風を防ぐためのものと思われる。

それから大正十年に関本作太郎さんが十メートルぐらいの南風を防ぐものをつくっておられる。

その間も小さいものは作られているようであるが、四九年までに桟橋二カ所、フェリー発着所、長い波止場等でできて整備されている。

両港の燥場は小さい船はどこでもできるし、大きいものは海岸の浅い所にねかせて、片方ずつやっていたのでは・・・・・。

特定の燥場はないため、燥草を買い適宜やっていたようである。






波止場と燥場 1

福本先生の大崎島造船史には、木江の全盛期には、一日に150艘ほどが入港していたことなど、具体的な資料も載っているが、これはスケジュールの関係もあり後段に取り上げることができればと思っています。
また、第三章「大崎島の船絵馬」も順番からいえば取り上げたいけれど、写真が白黒と味気ないので、これも後段にしたいと思う。

色町のことは、検索エンジンでみても、世の男性諸氏にとって一番興味のあることだろうけれど、結局 それだけに終始してしまうので、正直にいって、おもしろいことではない。


ということで、第八章の

「波止場と燥場」を取り上げたい。



引用はじめ



島の人間にとっては、波止場は船着場であり、今は格好の釣り場であり、なにかしら懐かしい響きを醸し出す。

波止場はまたどこの波止場でも、若い男女が月夜の晩恋いを語り、またのあうせを楽しみながら、いつまでも別れを惜しんだ慕情豊かな場所であった。

暴風雨の時は、波を止め、船を守ってくれただけでなく、しっかりとロープで船をつなぎ止めてもくれたし荷物を積んだり、あげたりもした。

近くの雁木といって、船に乗り降りするのに便利のよい石段もあった。

長く突き出た波止めの中に船をすえ、船につく虫を退治するために、船底を焼く、燥船もした。

かくの如く波止場と燥場は切っても切れない間柄であったから波止めをついて、港を作ったら、大抵「燥場」をつくり、共同場所もあるが、個人で所有し商売をする人もあった。

燥場の近所には必ず、「たで草小屋」があり、小屋の中にはいつもたで草をいっぱい入れていた。

シダ類、茅、松葉、杉や桧の葉など、燃えやすい乾燥したくさであり、草刈りは農家の主婦の賃仕事でお願いした。

燥船をしようと思ったら、何月何日の大潮の日と決め、たで草は、何十把、カキおとし何丁、大ひばし幾つ、船をすえるのにリンを幾つというように、必要なものを、お借りして金を支払うわけである。

大きな船だとねかせて二日掛かりで、片方ずつたでることもあり、外板の腐った板を取り換える場合は、大工や鍛冶屋に入り用のものを頼まねばならぬし、潮のひいた間仕事であるから船の者はもちろん、大工も「かじや」も一生懸命である。


長い間燥船をしないと、カキやあおさや、汚れがいっぱいつき、洗うだけでも大変で、包板を打ちつけたり、赤いペンをぬったりするわけだが、お陰で船の底はきれいになって、以前にもましてよく浮き上がるものである。

今は木船がいなくなったからたで船をする人もなくなり、農船や釣り船をつなぐための波止場が残っているが、小さな船は、適当に海岸にすえて簡単に燥船ができるから便利である。

燥場を使用させて商売をしていたのは、港町として「よそふね」の入港する鮴崎港、木江、御手洗港ぐらいで、他の地区は地元と船持ちが共同出資していたものか使用料などを出さず、話し合いで燥船をしていたようである。

しかしたで草だけは、身寄りの者か、心安い人に世話をしてもらって購入をしていたようである。


大阪府立中央図書館

今朝、資料を調べるため、大阪府立中央図書館にいってきた。

蔵書も、自宅でパソコンで検索できる。

便利な時代だ。

橋本知事の薫陶のお陰だろうか。

入館は、館の職員の利用者へのお出迎え(挨拶)からスタートした。

メルマガもしっかり発行してくれるし、事前の情報がチェックできるのは有難い。

当たり前のことが、普通にできている場所とそうでない場所では大きな差が開く。

利用者の数字も厳しくチェックされるようになったのだろう。


今回、ネットで

足利浄圓師の「光輪」いう本が在庫であったので、是非読みたかったので借りてきた。

生野島で書かれた本かもしれないという期待もあった。

随分年季の入った本だろう。

中の紙質が、茶褐色に変色している。




出版年月日は、昭和31年となっており、足利浄圓師が79歳のとき、

洛西 自照舎で巻頭に、

齋藤政雄氏の亡き母の五十年忌に当たり法話の記録を刊行し

これを知友に分かちたいと念願され書かれたとなっている。



自費出版に限りなく近い本だから、貴重なものだと思う。



そして、もうひとつ

中国新聞社が、1988年に出版した

瀬戸内を歩く 上巻 産業編



瀬戸内を歩く 上巻 観光 地誌編



こちらは、以前 HPで公開されていたものと、

ほとんど同じことが書かれている。

大崎上島、下島、豊島、斎など、懐かしい記事がたくさんあがっている。

瀬戸内海の島好きの方なら、たまらないだろう。

平成の世になって20年以上時間が経過したが、

当時は現役の方も多かった。

店じまいをした今となっては、大変貴重な資料だ。

是非、後生の人にも、利用して戴けるよう、

資料として取りあげていこうと思います。

8月も終わり。

暦の上では、いよいよ8月も終わりになろうとしています。

今年も、残暑が厳しい。

特に大阪は湿度が高くむしむしする暑さで不快指数はかなりのもの。

今年は、まともに花火を見ていなかったので、

先週は、猪名川花火大会に行ってきたが、人口の多いこちらでは、

一二万人もの人出で、会場近くの河川敷も歩くこともできないぐらいごったがえし。

満足とほど遠い花火大会となった。

パソコンから、2005年当時に撮影した、木江海上花火の写真をだしてみた。



下手ながらも、それなりに撮れているので、自分的には満足。



つい最近まであった元映画館。

建物も、人も、懐かしい。



都会の人にとって、

レトロと表現される建物も、

日常の生活の中に溶け込んで、

生活できたことは、今となっては貴重な経験となっている。

建築基準法では今では建てることのできない

木造建築物も、生活の中で、当然のものとして、触れ馴染んできた。


都会の文化は「大量消費文化」

規格の統一した面白みのない味気ない

言わば、ファーストフードのような文化

一見 目を惹くものは多いが、

中身は、それ以上でもそれ以下でもない。


しかし、田舎は、逆に規格外

人が手間暇かけてつくった、

大量消費社会と逆行した、「無駄」が氾濫している。


この無駄の良さが分かる人は、

今風で表現すれば、「感度の良い人間」

もっとお世辞を使えば、「贅沢な人間」


本来は、連続性の中で人は生きることが理想だと思うけれど、

大量消費社会は、数と銭の力(市場原理)で圧倒的に短期間で市場を制圧してしまう。

日本で昔、

当たり前であった和船も木造船も建物も、

姿を消し、

今、逆に

それが新しいものに思えてしまう。

結局は、分断されてしまった現代人の後遺症。

連続性がある社会なら、

そんな真空状態など生まれることはないからだ。

慌ててアップデートする目的はなんだったんだろうか。


合理性や非合理制の色分けなど、

本来の人の幸せとは無関係なものかもしれない。


少なくとも、

もしかすると、

大崎上島は現代の美味しいところ

古さと新しさが生活で両立できる希有な場所になっているのかもしれない。


たくさんの人が、

自分自身の価値を見いだせる憩いの場所になれば、

大量消費社会の中の穴場として、

素敵な場所になるかもしれない。

ここでは、無駄なものでも、

アンテナをはりめぐらせば、必要としている人は案外多いものだ。

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