·鮴崎港
鮴崎は、東北端の立石の鼻に早くより防波堤と灯台をつくり、入港する船舶の水先案内を兼ねていた。
また、大崎島は船持ちが多いから、大抵海岸の地区には、2~3カ所の燥場があった。
鮴崎では、行岡と松葉に燥場をもち商売をしていたようである。
生前木江の小川教育長さんに聞いた話では、「僕の学費は燥場の収入を出してもらった」とか、故に相当の利益があったようである。
·垂水港
垂水の燥場の丘には「東波止建設記念碑」明治二十九年建之(1896)という今から90年前の碑がたっている。
坂田伊佐松が主となって築調したものか、金額が特別多い。
外に三十名の垂水の船乗りの外、他地区の古江、盛谷、白水、小原、小頃子の船のひとまで寄付をしてくれているということは、タルミ咽口港が、この頃小船の避難所として内海で一番安全な良港であったためだろう。
お互いだがらいざというときの入港が遠慮がいらないわけでる。
·古江港
また古江の村上中国新聞店の前には、「古江燥醵(きょ)金碑」がたっている。
大正十四年六月吉日
(1925~約61年前)のものである。古江の船持ちが寄付してこの沖へ燥場をつくったのである。
·盛谷港
盛谷には今は黒波止とか、木屋の波止といわれる、古い波止場がある。
青黒い角のとれた丸見のある固い石で三十メートルぐらい北西に向かって築かれた西風を防ぐようにできている。
江戸時代に築調したものと思われるのに、未だ改修したことを知らない非常に堅固な波止場である。
今は、護岸工事のため、みじかく海も浅くなっているが、帆船のいた当時内側で燥船をしていたことも、しっている。
どうも一建立てで作ったものを、区の共同使用に提供したようである、木屋というものは、屋号で黒田言家である。
幕藩時代酒屋や海運業を営んでいたらしいが曽根カ鼻の出っ張りに高い石垣をつき、土塀をめぐらし、門構えの立派な家があったが、老廃し、今は新しい住宅にかわっている。
子孫の方で、黒田宇太郎先生が明治四十年六月から、大正十年二月末まで東野小学校校長をされてえいた。
第一次欧州戦争の好況に恵まれ学校施設も充実しているが、度々郡、県などから表彰の栄にも浴し東野村の名をあげた立派な人である。
·矢弓港
矢弓の加組には厳島神社という船の守護神を船持ちで建立しているが、ここの海岸には、船持ちでつくった灯台がわりの大きな常夜灯があり、この東側に約三十メートル程の波止場がある。
幕藩時代につくられあ古いものであるから何回か修理されている。
矢弓港へは、沢山の船が出入りしていたから、この波止の内側が大事な燥場だったようである。
·大西港
大西にも沖に回漕店があり、そこに長い波止場があった。中野にも沢山石炭船が出入りしていたので、燥船をしていたはずである。
大西港は昭和二四年地方港湾に指定され、三十年中野、西野両村が合併したため町内の原下、向山(六軒)、長島、大串各港を含め、「大西港」となって、大西桟橋、フェリー発着場、荷揚げ場など港湾施設がほどこされ、更に旧波止場から百メートルぐらい沖合に西風を防ぐ一文字防波堤(延長百メートル)が五十年頃出来上がり一層よくなったようである。
·木江港
本港は、大崎上島の東沿岸部中央部に位置し、港口は東北(甲)に開放し、港の中央部は更に深く港入し内港を形成している。
故に港内の風波は静かであるが、長年の間に港内に土砂がたまり、干潮時には船舶の出入りに障害があったので、昭和五年指定港になった後、港の浚渫をなし、その土砂をもって、周辺の埋め立てをした。
尚内港の港口北岸より南方に向かって延長一〇〇メートルの防波堤を築造し、小型船舶の繁留めの便をはかり、燥場も四カ所あったようである。
木江で最初に「たでば」をつくったのは、東野村小原出身の小川柳右ヱ門さんが、明治一三年(1880)一メ目のはしの東側につくったようである。
その後政之助、忠義さんと変わり後、奥さん(久子)が手伝っていたが、昭和四十年頃鋼船増え、殆ど仕事はなくなった。
それから、寿浦数之助さんが明治四十年頃はじめ、昭和二三年頃光太郎さんが引き受けた。
ほかに堀内勝輝さんから茂夫さん(大正六)、藤原庄之助さんから、正一さんが昭和二十年頃までやったようである。
·沖浦港
沖浦は南方に開けた港で、西風と南風を防ぐ防波堤を東、西の両岸からつくる格好の漁船の避難港となっている。
白い石灰岩を利用しているので、前面の小大下島から運んできたものと思われるが、大変古いのでいつ築調されたものかはわからない。
芸藩通志の地図には波止場がないから、これ以後であろう。
·明石港
明石村は芸藩通s志の地図に、防波堤一カ所本浜にある。
結局西風を防ぐためのものと思われる。
それから大正十年に関本作太郎さんが十メートルぐらいの南風を防ぐものをつくっておられる。
その間も小さいものは作られているようであるが、四九年までに桟橋二カ所、フェリー発着所、長い波止場等でできて整備されている。
両港の燥場は小さい船はどこでもできるし、大きいものは海岸の浅い所にねかせて、片方ずつやっていたのでは・・・・・。
特定の燥場はないため、燥草を買い適宜やっていたようである。
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