また、第三章「大崎島の船絵馬」も順番からいえば取り上げたいけれど、写真が白黒と味気ないので、これも後段にしたいと思う。
色町のことは、検索エンジンでみても、世の男性諸氏にとって一番興味のあることだろうけれど、結局 それだけに終始してしまうので、正直にいって、おもしろいことではない。
ということで、第八章の
「波止場と燥場」を取り上げたい。
引用はじめ
島の人間にとっては、波止場は船着場であり、今は格好の釣り場であり、なにかしら懐かしい響きを醸し出す。
波止場はまたどこの波止場でも、若い男女が月夜の晩恋いを語り、またのあうせを楽しみながら、いつまでも別れを惜しんだ慕情豊かな場所であった。
暴風雨の時は、波を止め、船を守ってくれただけでなく、しっかりとロープで船をつなぎ止めてもくれたし荷物を積んだり、あげたりもした。
近くの雁木といって、船に乗り降りするのに便利のよい石段もあった。
長く突き出た波止めの中に船をすえ、船につく虫を退治するために、船底を焼く、燥船もした。
かくの如く波止場と燥場は切っても切れない間柄であったから波止めをついて、港を作ったら、大抵「燥場」をつくり、共同場所もあるが、個人で所有し商売をする人もあった。
燥場の近所には必ず、「たで草小屋」があり、小屋の中にはいつもたで草をいっぱい入れていた。
シダ類、茅、松葉、杉や桧の葉など、燃えやすい乾燥したくさであり、草刈りは農家の主婦の賃仕事でお願いした。
燥船をしようと思ったら、何月何日の大潮の日と決め、たで草は、何十把、カキおとし何丁、大ひばし幾つ、船をすえるのにリンを幾つというように、必要なものを、お借りして金を支払うわけである。
大きな船だとねかせて二日掛かりで、片方ずつたでることもあり、外板の腐った板を取り換える場合は、大工や鍛冶屋に入り用のものを頼まねばならぬし、潮のひいた間仕事であるから船の者はもちろん、大工も「かじや」も一生懸命である。
長い間燥船をしないと、カキやあおさや、汚れがいっぱいつき、洗うだけでも大変で、包板を打ちつけたり、赤いペンをぬったりするわけだが、お陰で船の底はきれいになって、以前にもましてよく浮き上がるものである。
今は木船がいなくなったからたで船をする人もなくなり、農船や釣り船をつなぐための波止場が残っているが、小さな船は、適当に海岸にすえて簡単に燥船ができるから便利である。
燥場を使用させて商売をしていたのは、港町として「よそふね」の入港する鮴崎港、木江、御手洗港ぐらいで、他の地区は地元と船持ちが共同出資していたものか使用料などを出さず、話し合いで燥船をしていたようである。
しかしたで草だけは、身寄りの者か、心安い人に世話をしてもらって購入をしていたようである。
PR