家船の本など、数冊、また和船に関する内容の本も、さらに
家船に関しては、諸説もあるが、対馬列島までの広大な範囲に及ぶことや、日本書紀などにも、海人の記述があり、
阿波(徳島)の長邑(那智郡)の海人(あま)男狭磯(おさし)が腰に縄を結び海に潜ると書かれていることなどから、生活範囲が海中心で、漁業、航海にたけた技能集団は早い時期から存在していたのだろう。
八木荘司さんの「古代からの伝言」
これも面白い
驚いたことに、子供にこの本の内容を音読しながら読んでいたら、三国史に関する時代の流れをほとんど知っていて、その都度、解釈をしてくれた。
しかも、難しい読み方がわからない人名も、教えてもらった。
いや~ 恐るべし、小学五年生
中学では歴史の先生は、おそらく逆襲に遭うと思うね・・・。
本題に戻って、欠史八代の解釈の相違によって日本の天皇家の歴史も大きくかわるため、否定派と肯定派にわかれて学会は論争しているが、
参考 http://ja.wikipedia.org/wiki/欠史八代
http://ja.wikipedia.org/wiki/広開土王碑
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
〈そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
などを考えると、当時の倭の国は、強大な国家権力をすでにもっており、
志賀島の金印などの事実を考慮すると早い時期から、強大な権力者が日本に存在していたことを裏付ける。
韓国人などは、歴史を歪曲する習性があり彼等の歪んだ歴史観など、お付き合いする気持ちはさらさらないが、ここで一番大事なことは、どういった航海技術をもってして、はるばる日本から韓国に渡ったかということだ。
これより後の遣唐使船の頃の航海の実績を考えると「どうして?」と疑問がわいてくる。
どうしても、やはり海人の存在が気になってくる。
当然海人といっても、細分化されて航海にたけた者、漁にたけた者、戦闘にたけた者などに分岐していくだろうけれど。
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