本四架橋ができるまでの経緯(事故)をまとめてみた。
せきれい丸沈没事故
1945年12月9日の明石海峡は台風並の突風が吹き荒れていた。当時は、船舶の運航権限は全て船長に任されていて、播淡連絡船せきれい丸の船長も欠航の予定であった。しかし、淡路島から対岸の明石市や京阪神方面の闇市に買い出しに行く人や、生鮮品の行商人にせがまれて岩屋港を出航し、対岸の明石港に向かったものの、9:00頃、松帆崎2Km沖合で突風に吹かれて転覆沈没した。付近で操業中の漁船が45人を救助したが死者・行方不明304名を出す惨事になった。
時代は戦後の混乱期であり、戦前の古い船舶に定員以上の乗客を乗せるのが当たり前のように行われていた背景がある。
紫雲丸事故
1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、上り第8便で運航中、同じ宇高連絡船・下り153便大型貨車運航船「第三宇高丸」と衝突して沈没。最大の被害を出した事故であり、国鉄戦後五大事故の1つでもある。「紫雲丸事故」といった場合はこの事故を指すことが多い。修学旅行中の広島県豊田郡木江町立南小学校(現・豊田郡大崎上島町立木江小学校)の児童などを中心に死者168名を出した。
犠牲者
この事故での犠牲者は168名に上り、うち児童生徒の犠牲者は100名を数えた。 犠牲者の内訳は次のとおりである。
紫雲丸関係者 2人(船長他1人)
一般乗客 58人
修学旅行関係者 108人 〔児童生徒100人(男子19、女子81) 引率教員5人 関係者(父母)3人〕
愛媛県三芳町立庄内小学校:30人(生徒77人中29人、PTA会長1人)
高知県高知市立南海中学校:28人(3年生117人中28人)
広島県木江町立南小学校:25人(6年生97人中22人、引率教員3人)
島根県松江市立川津小学校:25人(6年生58人中21人、引率教員5人中2人、父母3人中2人)
第五北川丸沈没事故
1957年(昭和32年)4月12日は穏やかな天気であり、「西の日光」といわれる生口島(当時:広島県豊田郡瀬戸田町、現在:広島県尾道市瀬戸田町)・耕三寺には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていた。午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第5北川丸(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名)が出航した。この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていた。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船であり、乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていた。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまった。付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事になった。
海難審判(1959年3月26日・言渡)では操船を未熟かつ資格のない甲板員見習にまかせた船長の職務上の過失に加え、老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど運航会社による運航管理が不適当であったとして責任があるとされた。
事故の後、海上保安部による停船勧告基準が厳しくなり、宇高連絡船は一切人身事故を起こすことはなかった。しかし、初夏から梅雨にかけての濃霧でたびたび停船勧告が出されるようになったことが輸送上の障害となったため、瀬戸大橋の建設機運が高まることになった。これは、本州四国連絡橋の3計画ルートのうち、児島・坂出ルートが最初に建設されることにもつながっている。
先の事故を契機に各ルート沿線自治体で架橋推進協議会が発足し、架橋誘致運動が活発化。架橋協力預金制度や、「歌」「架橋音頭」まで作られた。なお、1954年の洞爺丸事故を含めて被害者救済が国会で問題になり、船客傷害賠償責任保険が整備され、今日に至る。
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2004/05/11 【共同通信】
紫雲丸事故の同期生ら 沈没現場で花ささげる
旧宇高連絡船・紫雲丸の衝突沈没事故犠牲者の50回忌に当たる11日、乗船して助かった高知市立南海中学の同期生や遺族ら約90人が事故から約半世紀ぶりに沈没現場海域を訪れた。 現場で停止した船から一人一人が海に向かって花束を投げ、手を合わせて犠牲となった生徒の冥福を祈った。 親友を事故で亡くした無職若松幸三郎さん(63)=高知市=は「(事故当時は)地獄のような光景だった。元気な姿を親友に見せることができたと思う」と話した。 同期生のうち約40人は事故で中断した修学旅行に出発。犠牲者の遺影とともに、京都へと向かった。 現場訪問に先立ち、高松市の西方寺で開かれた追悼行事には、犠牲者を出した松江市西川津町の川津小学校から卒業生5人が参加。広島県大崎上島町の木江小学校でも、同期生や遺族ら約70人が追悼法要を営んだ。
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本四架橋実現に、これら海運事故が要因となったのは有名な話である。
また、大崎上島では、事故にあった遺族の方の深い悲しみと伴に、引率で同伴し難を逃れた先生達に浴びせれた非難は凄かったと聞いている。
事故から50年近くが経過し、改めて、この事故の持つ意味を多方面で考えなければいけない。
25人の犠牲者がでた、今では離島となった大崎上島は、特に考えなければいけない。
政争、利益誘導の道具ではないのだ。
人道的見地からみて矛盾がある。
本四架橋ができるきっかけとなった要因となった大崎上島には、未だ橋が架かっていない。
今回の写真も、毎日新聞、本四公団に記載されているものである。
もっとも橋と遠い場所になってしまった大崎上島
時代の波に主体性を持つことなく翻弄され続けているこの島を反映している。
交通問題にリンクして諸々を次の号で列挙していく。
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参考サイト
JB本四高速:会社・IR情報:沿革 広報誌 【No.89(2003年11月発行)】紫雲丸の悲劇は終っていない宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか (単行本)PR