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嬉しいおたより


このサイトにご訪問され、以下のお返事を戴きました。


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伝馬船ブログ
伝馬船(天馬船・傳馬船)の情報と製作に関する記録

一昨年にブログにコメントをいただきました番匠と申します。
>公開とお返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
>ブログを拝見させていただき、木造船や古い船に関連した貴重な情報を多数掲載されていることを知り、是非リンクを貼らせていただけないかと思いコメント欄に記入させていただきます。
>よろしければ、リンク先のページとリンクタイトルの指定をお願いします。


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伝馬船は、昔木江でもよく見ることができた伝馬船の制作過程を詳しく説明して戴いています。

ヤキダメなどバナーを使って木を炎で焦がす作業は、昔はあちこちで見ることができました。

私の記憶が正しければ、木江で最後まで木造船を作られていた造船所は、佐々木造船所ではなかったかと思います。

昭和50年初期ぐらいまでではなかったかと思います。


木江にかかわる造船関連のホームページは、

松浦造船所

小池造船所

佐々木造船所

櫂伝馬つながりでしたら

瀬戸内和船工房」と「自然農業」の物語

和船船大工弟子入り日記

などがあります。

海の道リンクとして以前まとめたものがあります。

もし、可能ならこの地域にあった木造船建造技術と、船大工が作った木造建築物の関連性が明確に考察できる資料が掘り起こせたなら、きっとユニークな一面が浮き出てきたに違いありません。


ただ希望としては、この長い大崎上島の造船史において、幾多の時代の荒波をうけながらも現存している造船所の経営者は、先代達の偉業を再確認する意味においても、鉄鋼船のみならず木造船の歴史も過去のアルバムからHPを通して紹介して戴きたいと切に望みます。


そのことがこの島の造船文化の付加価値を更に高めることになると思います。



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小池造船海運株式会社


以前 このホームページで紹介させていただいた、小池造船所のホームページが新しく更新していた。


最近の大崎上島の若い経営者は、感覚がアップデートで、ネットをうまく利用する傾向がある。

無料なんだから、これを使わない理由などない。


造船はこの島の基幹産業だし、大切な雇用の場所だ。

かって、造船がところ狭しと乱立していた時代と比べると、今は激戦の時代だ。

労働力も枯渇しつつあるし、円高など経営環境は厳しい

大崎上島に現存している造船所は、この厳しい環境に耐えぬいた貴重な会社ばかりだ。

ものづくりにおいて一芸に秀でていないと生き残れない

幸い、HPをとおして情報が拡散し、このエアークッション船など独自の技術をもつ造船所は、注目されつつある。

小池造船所もその一つだ。

いつの間にか、世代交代をしていたが、とにかくこの島の造船業はがんばって欲しい。


やはり、私のホームページよりも、島の造船の歴史を、こうした企業がどんどん発信して欲しいと思う。

彼ら経営者に要求されるのは、幾多の荒波にも乗り越えるパイオニア精神なのだから。

ものづくりにおいて、この島でしかない造船の技術力を世界に発揮して欲しいと願う。

わたくしである個人と、おおやけである企業が、存在感をアピールできれば、島は魅力ある場所になるだろう。



小池造船海運株式会社

フェリー模型6隻寄贈 岡山船舶模型クラブの南石さん



 「岡山船舶模型クラブ」メンバーの南石忠嗣さん(58)=岡山市北区=が、「宇高国道フェリー」の模型5隻と「宇高連絡船」の模型1隻を制作し、広島県大崎上島町の「大崎島船の資料館」に寄贈した。

 南石さんが制作する船舶模型は「子供のころに親しんだ」という宇高航路などのフェリーが中心。模型はすべて洋上モデルで150分の1サイズ、大きい物は全長1メートルにもなる。

 素材はプラスチック材を設計図に合わせてカッターナイフで加工し、部品を接着。写真や資料を参考に塗料で着色する。これまでに30隻以上を制作し、大半は瀬戸大橋記念館(香川県)や四国フェリー会社などに寄贈している。

 今回は宇高連絡船の「讃岐丸」のほか、「こうらく丸」「りつりん丸」「こんぴら丸」「こくどう丸」「おかやま丸」を制作した。外観はよく似ているが、「船首付近やブリッジなどが違い、その違いを出すことが面白い」という。

 いずれも宇高国道フェリーの花形フェリーで、今も根強い人気があり、南石さんは「一緒に展示してもらうことでフェリーの変遷を知ってもらうことができる」と話している。

消える最後の給水船、瀬戸の風物詩ー広島県・木江町、大崎上島の木江港

消える最後の給水船、瀬戸の風物詩ー広島県・木江町、大崎上島の木江港

昔のデータベースにありました。

1991.04.09

瀬戸内海でただ一隻残っていた、船に飲料水を出前する給水船、「みずほ」の船長、浜田貞行さん(70)が、四月いっぱいで引退する。明治時代から瀬戸内風景がまた一つ消える。

浜田さんは広島県豊田郡木江町、大崎上島の木江港で関西と九州を行き来する船に水を運び続けてきた。

家業の給水業を引き継いだのは、昭和23年。兵隊から帰ってすぐだった。

「みずほ」は、長さ11.5メートル、幅3メートルで18トンの水が積める。

妻ミツ子さん(68)が船舶電話や無線で注文を受け、浜田さんが二、三百メートル沖合に停泊する船に、横づけして送水する。料金は、1卜ン600円。

ピークは昭和30年代。木江港沖には筑豊の石炭を阪神工業地帯に運ぶ船が毎日約二百隻も停泊、給水を待った。
他の業者も合せ8隻の給水船がフル回転した。

当時は、500卜ンまでの機帆船が大半。

水夕ンクが小さくニトンくらいしか積めず、補給は欠かせなかった。

仕事が減ったのは、木造船から現在の鋼船「みずほ」に替えた40年代。エネルギー革命で筑豊の炭田が衰退したことや、船が大型化してひんぱんに水を補給する必要がなくなった。

給水船も次第に減り、昭和57年以降は、浜田さんのみずほ一隻に。

現在は、砂利運搬船などに月にlO回程度、給水するだけ。

浜田さんは、「船から連絡があれば、すぐ出なければならない不規則で厳しい仕事でしたが、やりがいがありました。43年間無事故だったのが誇りです」と振り返る。

機帆船海運の研究―その歴史と構造―



『機帆船海運の研究―その歴史と構造―』
多賀出版株式会社

笹木 弘・篠原陽一・鈴木 暁・雨宮洋司・武城正長・土居靖範著



こちらのサイトに詳しく説明されています。
広島商船高専の教授も2名出筆されています。
高価な本であり専門書です。
とりあえず、写真だけでも大崎上島と関連したものが数枚ありました。


















図説 大崎島造船史 

旅する櫂伝馬のプロジェクト以降

大崎上島の若者達の活躍もあり

櫂伝馬の注目も集まり、

明日は、NHKのロケもあるそうだ。

また、広島県の「海の道構想」もスタートするだろう。

どちらにしても、キーワードは「海」であり、



あらためて確認作業の意味もこめて

「図説 大崎島造船史」を読み直してみると、

この島の海運史を残そうと、色々な方が尽力されていることがわかる。 


--未だ、現役で活躍されている方、既に故人となられた方、--



これだけの素晴らしい実績を残しながら、

何も、世に知られてないのは、理不尽だと思う。




昭和63年に発行された本だけれど、

こうして、20数年が経過し、

時代はまさに紙の媒体から、電子化

インターネットの時代になった。


そこで、この本の巻末にある

「あとがき」を載せることにした。


本来、本の生い立ち、あらすじを紹介をするのなら、

最初に載せるべきものだと思うが、

所詮、一個人が、勝手気ままに作っているブログなので、

良いだろうと思っている。


本当に思うことは、

一昔前のこの町の文化活動が如何に、

内容の濃い、精度の高い作業をしていたことか!

尊敬をとおりこして畏敬の念をおぼえてしまう。


そういった意味で、

「最近は随分軽くなったね。」

と先人たちに後ろ指をさされないよう、情報発信していきたい。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


あとがき

大崎島には、古くから、海運業と共に、造船業も発達した。

そして、瀬戸内海が、九州、大阪間の大動脈として、長い間、走り回った帆船もいなくなり、明治末から、大正、昭和には発展した、被曳船、機帆船、旅客船も、いつの間にやら消えてしまって、今付近の海でみられるのはフェリーボート、快速船、釣り船と漁船に、鋼船の機帆船ぐらいであろう。

とにかく、船は木でつくるもので、海のある限り「木船」はなくならないものと信じていたの、今は小さな船はプラステック、大きい船はほとんど鋼船になってしまった。

そして、昭和三十年をすぎると、木船を作る造船所は、高いクレーンのついた鋼船建造の造船所に切り替えられてしいった。

その昔、帆船を作る優秀な棟梁さんたちは、定年退職をしたり、老衰して息子に職を譲り、もう若いときの元気はなくなった。

造船所は駄目だといいながら、鋼船に切り替えてからでも、早30年の月日が流れている。

島に生まれ、島に育ったものは、どこへいくにも船のご厄介にならねばならない。

その大切な、「船の歴史」がだんだんと消えかけている。
何とか祖先のために、たとえささやかなものでも、今こそ書き残しておきたいものだと、造船業を愛し、故郷を愛する人々が、たちあがったわけである。

昭和五十八年九月岸本造船社長吉田益造氏と収入役西田巧氏、吏員藤原氏の三人が東野町文化センターにおいてになり、「大崎上島の造船史」の執筆の依頼を受けた。

木江町には、熱心な郷土史家であり、長年元助役を勤められていた小川吾一氏もおられことだし、大崎町には、先に「大崎町史」を発行された、笹岡栄先生もおられることだから、一応お断りした。

しかし、お二人とも老齢のことだし、無理がいえないから、是非お願いしたいとのことであった。

西田収入役とは、特に南小時代の因縁があるので、はっきりとお断りもできず、それでは二年間ほど全力を注いでみることにしたものの、具体的事項になると他町村のことはわからないことが多かった。

故に不備の点も多いことであろうが、誰人にも満足いくものを書くことは、無理なことで、足りないところや誤りがあればお許しをいただきたい。

幸いなことには、日頃尊敬している日本の船の権威者石井謙治先生著の「図説和船史話」に恵まれたので、早速先生にお願いし、この本によって「和船史の変遷」をかかさせていただくことにした。

また、本書をそうするにあたり、沢山の人々のご教示に預かった。

とくに、岸本造船社長吉田益造氏、木江町収入役西田巧氏はもちろんのこと、写真は、木江町役場の池田稔係長にご足労をお願いした。

その他元海運局勤務の藤本氏には、その後の造船海運史を調査し資料を沢山提供していただいた。

また県議末田隆氏、町議浜田明利氏等格別のご援助、ご協力を賜り心から御礼を申しあげる次第である。

最後に、詳しいことは遠慮するが、造船界の不況で思わぬ事件が勃発し、もう足かせ五年間になる。

一つの仕事を成し遂げることが、如何にむずかしいものであるかをお察しいただきたい。

桜咲く生野島にて

福本先生より


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