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まほろば

人口の減少、少子高齢化は、大崎上島に限ったことではない。
都会の高齢化も深刻で、雇用環境の法整備の失敗から、若年層からの貧富拡大はこれからも続くだろう。

子供を産まない女性、というより結婚しない独身者が増え、実家から抜け出せない新たな貧困と呼んでいいだろう若者、中年者の現象も定着していく。

好きな言葉は誰がつけたか、自己責任 都合のいい時代は、さようなら

今まで、信じられないことが常識となり、当たり前となるかもしれない。

しかし、命は失うことはない。

いつの世も、左へ右へ時代は変革と称して移りゆくものなのだ。

時代に動かされない強い信念があれば、気にする必要はない。
ほっといても、時間は過ぎ去っていくものなのだから


お金を使ったディスプレイ型の誘致活動よりも、好きな人が気軽に住める場所があってもいいのではないだろうか。



人間は移動する自由もある

自由を否定して、閉鎖的という言葉は幼稚すぎる

わずか、数十年前の話が、遠い昔ではなく、足下に流れていることを知れば、無駄な時間なんて存在しない。
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東野村十景

父親の納骨をすますため、帰省した際、大望月邸によってきた。

ゴールデンウィーク期間中で、島外からきた観光のお客さんも多かったみたいだ。



私のホームページをみて、興味を持たれた方もいらっしゃったようで、うれしいような恥ずかしいような。
色々な方に、参考材料としてチェックしていただいている。
例のお化けの話まで、取り上げていただいているとは、驚いた。
話の主の学芸員の方も、おやめになられたようで、新しい女性の方が、担当されていた。

この大望月邸、改築費に5億円がかかったと言われている。
しかし、これは英断だ。
文化灯台として大崎上島を象徴する建造物ではあるし、木造船の文化も集約できたらいいなと思う。
木江側にあるけれど、いっそのこと、こういった船の文化を扱っている資料館は、連携がとれたほうがいいにきまっている。

そういった思いのつまった大望月邸

東野村十景という素敵な写真を紹介していただいた。

さっそくアップロードさせて、いただきます。
























紹介していただいた、方には、お約束の物をご紹介させていただきます。

ダウンロード

パスワード付きとなっていますので、ご自分の名字をローマ字でいれていただくとごらんいただけます。

浄泉寺

親父が亡くなり遺骨をお墓に納骨するために、35日にということで、木江に5月3日4日と帰省する予定

そこで、付き合いのある木江の浄泉寺に住職

そういえば、以前、井伏鱒二の「消えたおちょろ船」を文字興ししていたので、その紀行文のなかで登場するお寺が、おそらくこの浄泉寺だと思う。

再度、読み込んでみた。

なかなか面白い。
何度も読むことにより、熟成され違う観点から見えてくる世界がある。

現住職のお父さんが登場しているのかな?
本人は、この紀行文の存在をしっているのだろうか?

興味深い



風前の灯火となって、非常に寂しい場所となった木江。

今では、都会のパフォーマンス的手法が目につくけれど、もともと、田舎はその価値に気づいている人が、生活視点で暮らすのが本道だ。

無理なアクロバット体操は、本人も地域も骨折しかねない。

静かな田舎がいいな。

時代なんて、追いかけるものじゃない、ぐるぐる回るのが時代だ
盛者必衰

利口を装うより、

錯覚するより目の前を直視し、大切なものをつかんでおいた方がいい。

何かと、騒がしい都会は、好きではない。

静かな大人の町にもどって欲しいものだ。

吉原炎上



吉原炎上という映画を借りてみました。
売春防止法が施行されるまでは色街は、日本全国にありましたが、その実態はどういったものなのか、知ろうとする人はあまりいません。

ネットで書かれているのは、男のロマンとか、女性に対する過度の妄想であったり。

同じ人間なのに、要求するものが違うのも、情けないな。

実際は、性病との戦い、不妊のための命がけの原始的対処方法など、単に「性を楽しむ」どころではない戦場がそこにはありました。

借金をかてに、人の生きる道、幸せを放棄した、俗にいう丁稚という、春を売る若い女性=半ば半奴隷と、それをお金で買う男性たち

国家がそれを管理していた事実

一言で言えば、非人道的現場が、近世まで存在し、国家が黙認してきたことは、如何ともしがたい事実です。

本で調べるよりも、映画で見たほうがわかりやすいし、それが映画のストーリーなのか、限りなく史実に近い人の営みと捉えるかは、各々の判断にまかせましょう。

銭に迷い、銭に悩み、そしてそのハザマで人間性を考える、
弱くもろい愛情、真実とはなんぞや?、怨念、思念、妄想、渇望、そして錯覚
そして均衡を保つための借金の帳尻合わせ
生きてここからでれるのはまれではなかったか
ましてや、子供の産めるからだではなくなっていることも多かった

人間として自我に目覚めるのも大変だ。
でも中途半端で生きることは許してくれない。
カルマは、繰り返す

できることなら、中途半端な史観をもたず、人としてどういったことでこういった経緯になったのか、視点を持つことは大切な作業で、少しでも頭の片隅において考えていただければと思います。

そういった意味でも、この映画は大変貴重だと思います。

旅情瀬戸内海

インターネットで今日は、布田源之助さんの書かれた「旅情瀬戸内海」を検索し幸いにも、近くの図書館の蔵書として該当したので、さっそく借りてみることにした。
インターネットのない時代と比べ、物事を調べるのに大変便利になった。
こうしてすぐに手元に貴重な本を見ることができるのだから。



しかし、筆者である布田源之助(ふだげんのすけ)さんのプロフィールがネットでも載っていない。

検索をかけると私のこのブログが上位にヒットするぐらいだから、あまりみなさん興味がないのだろう。

布田源之助さんは、明治32年熊本市に生まれる。関西汽船初代旅客課長、海洋旅行専務取締役を歴任されてきた。

この本は、海文堂という船舶を主に扱われている出版社から生まれた。
海文堂は、今も健在で、海文堂書店はその手の人には有名な場所だそうだ。
http://www.kaibundo.co.jp/

しかし、昭和37年という時代背景を考えると、山陽新幹線はまだできていなかった時代だから、海運と陸運のバランスは観光に関してはまだ日はあったのだろうけれど、1972年(昭和47年)3月15日に新大阪駅 - 岡山駅間が開業、1975年(昭和50年)3月10日に岡山駅 - 博多駅間が開業したころになると、海の貴婦人の時代は終焉に追いやられていったのだろう。

これでは、廻船問屋と同じ運命じゃないか。

肝心の本の中身ですが、この本の中には、木ノ江の松本旅館に滞在して、おちょろ舟が停泊している船にむかってアタックする様子など面白く書かれています。
また、御手洗の遊郭の話、知らなかった幽霊の話も書かれています。大山祇神社、海賊・水軍の話題も詳しく書かれています。



昭和に入って大崎上島や周辺の場所で記述された内容は、ソースが同じなのか着眼点が似通ったものが多く、どうしても重複してしまう記述が多いです。

井伏鱒二の「消えたオチョロ船」と同じことがあげられています。



小さな港町ですから、どうしても重なってくるのは、しかたのないことかもしれません。

瀬戸内海を総論で書こうとすると、どうしても小西和著「瀬戸内海論」があまりに素晴らし本であるため、残像が脳裏によぎってしまいます。
「瀬戸内海論」は、「論語」に匹敵する傑作だなと、いまさらながら感じてしまいます。
※小西和でブログ内検索をしていただくと過去の記事がヒットします。

ここ最近、心のムヤムヤで思っていることは、興味本位で色事としの「オチョロ舟」のことでしか書かれていないので、瀬戸内海周辺でこのあたりは、常に退廃的なイメージをもたれてしまうことは、ちょっと心外かなと感じています。(いい加減にしろよ)

井伏鱒二の「消えたオチョロ船」に関しては、小説家としてプロの仕事をされていて、まったくもって「さすが」と感じますしクリアーしています・・・・・・・・。
宮本常一さんは、知っていたが、触れなかった・・・・・・・
沖浦和光さんは、民族としての瀬戸内海を解析していった・・・・・

御手洗の遊郭の例の話
いったい当時の遊郭の身分制度はどうなっていたのだろうか?
花魁が禿の不手際にかんしゃくを起こし、煮えたぎったかねを注ぎ込んだ

不手際に対してかんしゃくを起こし、いわば殺人行為に及んでしまう
いわば、人間の狂気そのものが、ここには表現されていて、しかも、その背景を誰も分析していない

「幽霊がでる」とは、実世界の罪悪の心が反転して、真理に目覚めたからか・・・・・
無意識が行動として善悪は別にして、結果として現るわけだから、この事件の真相はハィンリッヒの法則のように、根底は深い要素が隠れている。

事故として偶然とりあがられただけで、実際は隠れた事故はたくさんあった。

物語の一部として読むにはいいけれど、実際におきたことに対して、どう説明できるのだろうか?

人間の深層心理が深く影響されていて、結局は、「トラウマとして表現にすることはできないけれど、興味がある」「今も幽霊はでる」という状態がずっと続いてきているのではないだろうか?

単なる色事、怨念、いえいえ、そんな浅いもんじゃありません。

社会を形成する段階で、もっと巧妙に、組織だって対処方法が出来上がっていた

男性だから古典的マッチョな考え方で捉えるのは、いまどきじゃない。

こんなことを書くとおそらく、このブログ、読者が一気に増えるだろうな~~~!
うれしいことに、私のブログを真剣に読んでくれる人が増えてきました。

いずれにしても、自分の中で総括してみたいテーマです。

野口雨情、木江、大三島、大山祇神社

前回、帰省した際に、大望月邸において、野口雨情が木江松本旅館に泊まった時の資料が掲示されていた。

昔の松本旅館の写真も、野口雨情の写真も有名で、何度か見る機会はあったけれど、資料として自分の手元に残していなかったので、このさい保存することにした。

松本旅館に泊まった文人はそのほかにも、吉井 勇、 布田 源之助、 江見 水蔭などがいる。

特に千代田スタジオで撮影された吉井 勇の絵葉書は強烈な印象をもっている。
港町特有の文人をもてなすため、ハチャメチャなドンちゃん騒ぎをしたこは、半世紀たっても、武勇伝は残っているだろう。

天満港の近くで、芸者を呼んでドンちゃん騒ぎ
それは、港中に昼夜聞こえていたことだろう。
迷惑千万だろうけれど、バンカラが横行した時代から、多少は大目に見て頂戴ということで終わったのではないだろうか。


野口雨情
http://www.iwaki-cc.ac.jp/douyou/oitati.html
ホームページから引用

野口雨情(本名:英吉)は、明治15年(1882年)5月29日茨城県多賀郡磯原村(現在の北茨城市磯原町)に長男として生まれました。家は代々水戸藩の薪炭奉行を勤め、廻船問屋を営める、世にいう名門でした。
雨情は、磯原尋常高等小学校を卒業すると、15歳で上京し、当事衆院議員として活動していた伯父勝一の家から、東京教学院中学、順天中学、東京専門学校高等科文学科(早稲田大学文学部)に通学しますが、明治35年5月17日の20歳のときに東京専門学校高等科文学科を中退します。雨情が詩を雑誌に投稿しだしたのは、この中退した頃からのようです。


詩人仲間と東京の第一線で華々しくスタートを切った雨情に、父の死去という不幸が訪れました。雨情は磯原に呼び戻され、父死亡に因り、明治37年1月29日より野口家の戸主となりました。22歳のときでした。
磯原に帰り家督を継承すると、父が生きている頃から話題に上がっていた花嫁の候補者高塩ヒロと22歳の秋、11月29日の吉日に式を挙げました。ヒロは翌々年の明治39年3月9日に長男雅夫を生みました。
雨情は、明治39年6月末に、ついに磯原での生活に耐え切れずに樺太へ渡ります。
 明治44年の秋に、母が死去し、帰郷の潮時がやってきたことを感じるとともに、故郷に帰って実質的な戸主として、先祖からの全遺産を継いでやって行く決心がついたようです。そして、植林事業に精励、大正3年には磯原漁業組合理事となります。この頃、痔疾を癒すため湯本温泉に通い、芸者小すみを知ります。家業傾き入山採炭株式会社の事務員となり、いわき市錦町の祖母の実家滝川家から湯本にある入山礦業所へ通っていました。 芸者小すみは、芸子置屋「柏屋」の女将(本名:明村まち)となり、雨情は「柏屋」で3年半生活します。
大正4年の5月10日に、妻ヒロと協議離婚。6月に2児をひきとり、父と子で生活します。
この湯本時代は、雨情の生涯にわたって、子供たちとの唯一の楽しい生活でした。「よいよい横町」「土撞唄」は湯本時代の作品といわれています。
大正7年9月、明村まちと別れ、水戸の中里つるのもとへ走ります。
昭和初期から民謡へも情熱を傾け、全国各地の民謡を数多く残しました。
昭和20年宇都宮で永眠。63歳でした。

北茨城市磯原町出身で、廻船問屋の息子、そして、童謡の作詞家として有名とのことでした。
また、野口雨情の家業の廻船問屋も鉄道に物流がかわることにより傾き、多くの廻船問屋と同じ様な運命をたどっている。


作詞には、

・木の江のみなと はれて涼しい月夜の晩は 川の流れもしたしたと(地蔵平川の河口)
・誰がのるやら 木の江の沖を 三島まいりの船が行く
・霧がかかれば 山さえ見えぬ どこをたよりに船は行く
・雲になりたや 空とぶ雲に 気隋気儘(きまま)の白雲に
・山は遠いし 野原はひろし 水は流れる雲はゆく

木江浦節 

1 知らぬ振りして ハコラヤノヤット
沖行く船もヨ 暮れりゃ アラヤットンナ (暮れりゃマタヤアホウ)
暮れりゃ木の江さ 寄せて来る ナ 寄せて来る

2 忘れなさるな ハコラヤノヤット
  神の峰下はヨ いとし アラヤットンナ (いとしマタヤアホウ)
いとしの木の江のサ 船つきば ナ 船つきば

3~9省略

10 誰がのるやら ハコヤノヤット 木の江の沖をヨ
三島  アラヤットンナ(三島アタヤアホウ)
三島まいりのサ 船が行く ナ 船が行く

昭和初期のころ、大三島は宮島と同じぐらいの集客力のある場所であった。
「海の時空館」に展示されてある関西汽船の昔のパンフレットにも、大三島沖で停泊し宮参りの案内の内容を発見した。
宮本 常一さんの本の中にも同様の記述がある。

なぜ大三島は宮島と違い廃れてしまったのだろうか?

木江浦節を野口雨情が作る詳細な経緯は知りませんが、町か、当時財力のあった船舶組合が依頼したと考えたほうがいいのではないでしょうか。
歌の中には、三島が何度も登場してきます。

彼の出身地は北茨城市磯原町
グーグルマップで検索すると


大きな地図で見る

大山積神社で検索すると

大きな地図で見る

なんと地元、すぐ目と鼻の先に大山積神社があります。

海の神様としても有名な神社ですから、廻船問屋の長男であった野口雨情にとっては、非常に馴染みの深い場所であったのではないでしょうか。

宿泊して実際どんな会話があったのかは、今では知る由もありませんが、海を知る人間として、この港、この周辺は非常に懐かしく、興味深い場所であったと推測できます。

自分のバックグラウンドに近い場所での創作活動

また松本旅館をでた後の足取りも気になります。

グーグルマップで大山積神社、三島神社を調べると東北地方まで存在します。
いったいどういった影響でこの大山積神社のネットワークが構築したのか、興味がわいてきます。

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