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まきはだの由来

紹介しなければいけないと、思い急遽、なんとかお盆休みの間に、
「まきはだの由来」をピックアップしました。

平成22年8月15日(日)
この本は、昭和63年発行となっており、当時と今では「違う」結果になっていることを勘案して頂いて読んで欲しいと思います。

過去、先人達の不断の努力で販路を拡大し全国シェアのほとんどを独占していた事実をしると、過疎地域として打開策を見いだせない現在の大崎上島にとって、いい励みになるのでないかと思う。

また、そうしたことも先生の書きたかったことのひとつであると思います。

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以下抜粋


 大崎島は各町村共古くから海運・造船業が発達し、特殊繊維産業である「マキハダ」の製造が盛んであった。

中でも、木江町明石が一番古く、今なお一部でつくられている。

このマキハダは桧の皮で作ったやわらかい縄で、木船の外板デッキ(甲判)等板と板のつなぎ目を補填して、海水の浸入や水漏れを防止する重要な役割を持つ物で、木船建造上なくてはならないものである。

 このマキハダ産業は、幕末から明治・大正・昭和の中期にかけて弁才船・大型帆船・被曳船・機帆船・各種漁船・伝馬船等木船建造の殷賑を極めた時代には造船所の多い大崎島だけでも、その需要を満たしきれない有様で、明石・沖浦だけでもその従業員が300人を越え、各町村でも造船所の近くのおばあさんたちが、何処で誰に教えてもらったのかの納屋の片隅で二,三人が集まり、マキハダないの副業を始めたものである。


 明石に行ってみると中央の道端に、昭和27年10月、時の大蔵大臣であった池田勇人先生の「槙肌元祖の碑」と書かれた大きな記念碑が建てられている。






和船史話によると、一六世紀の後期倭寇の船に当時づでに鉄釘も槙肌も使われていたようであるから、「元祖」とはいえないと思うが、とにかく明石の人々によって180余年の長い間今日まで槙肌作りに専念され、瀬戸内海沿岸は勿論のこと四国・九州・朝鮮にまで遠く販路を拡大し、船釘と共に木江町の独占業までに発展せしめた、マキハダ産地としての誇るべき記念碑ではある。




 では、この「マキハダ作り」は如何にして明石に導入され、如何なる歴史をたどり、今日に伝えられたものであろうか、


何しろ長い間の出来事で色々な資料も散逸し、作られた人々も多く亡くなられ、その正否もとやかく言われているが、残っている資料といえば、「大崎南村郷土史-正畑規矩監修-昭和26年発行」のものに頼るしかないので、これによりその昔を尋ねてみることにしたい。



 享和元年(1801)頃、明石方村に組頭水内屋彦右エ門という人がいた。
当時村内で紫根即ち紅花という紅の染料になる草花を盛んに栽培していたらしい。
これを水内屋の船が毎年大阪へ持って行き販売をしていたのである。
ところが、この年大阪の紫根問屋に行ったところ、その近くでたまたまマキハダを製造している人に出会ったのである。

めぐりあわせというものは不思議なもので、つに話こんでいる間にこれは良いと感じたのである。
心安くなったのでそれとなく仕事の来歴・資材の購入先・製法・販路・経済制等について聞いてみると、島嶼部の船に縁の深い造船地にとって、将来性のある恰好の仕事であることを確信した。

大崎の方の造船所でもマキハダを使っているのであろうか、使っていれば取り寄せるのにもさぞかし困っている事であろう。

これは、是非習って帰らなければならぬ。

「仕事の少ない島でマキハダをつくれば、造船所も助かるが、明石の人も金儲けができ一石二鳥である。」と思っているとじっとしておられなくなり、早速無理をお願いして、自分のつれていた船員の中でも地元の人間で、しっかりしていた西某なる者に命じ、この仕事を伝習させ、帰村後直に諸準備を整え製造させることにした。

原料の桧の皮は最初、兵庫県高砂辺りから購入し、小規模の家内工業として、身近な気心の合った人々に奨励したが、汚い仕事で海のものとも山のものとともわからず、最初は心配の連続であったが、年寄りは、「ぞうり」作りや、網ない仕事にもなれておるので、早速ならい覚えだんだん優秀な製品ができるようになった。

最寄りの船大工さんに事情を話して使用してもらうと、これは近くで良いものを作ってくれたと、次から次と評判となり明石・沖浦・木江・東野へと販路も次第に広がっていった。

こうして量が増えると、お役所にも聞こえ、運上銀としてマキハダ一駄(馬一頭に負わせた荷物で約42貫目―約168キログラム)に付、銀二匁を上納することになった(課税年次不明)。

 かくして、この新産業は御山方の支配となり、村内に小頭をおいて取締りをすると共に。50年余りを経過した安政3年(1856)には縦10センチメートル、横5,5センチメートルの木製の合鑑を作り、当時仕事をしていた42名の者に下付した。

これは、一種の免許制度で、この鑑札を持たずに勝手にマキハダを製造した場合は、誰でもその製品全部を役人に没収されるおきてであったようである。

その後、文久元年(1861)6月24日のこと 当時の藩主浅野長公(竹若丸)が領内巡視のため来村された。

例によって明石方村床屋坂本泰三郎(新屋)宅に休憩され、泰三郎ともう一人の庄屋水内屋前司(善二-後水野家)を召されて、村民の生活状態について御質問があった。

農・漁・海運の情況を話すと共に、副業として、「マキハダ作り」をしている事をお話すると、それは珍しい是非見たいとの上意があり、大騒ぎになった。

殿様をせまい納屋の桧の皮をたたいて茶色のほこりだらけの作業場の中へ案内するわけにもゆかず、ばあさんでは趣がないということで、早速床屋の庭にムシロを敷き、大串屋嘉平の娘ハルと、森沢屋忠左エ門の娘オトワの明石方美人が2名選ばれ、御前に於いて上覧に供した処「ああ、よくない慣れたものよ、尚精進励めよ」と直々おほめの言葉を戴いたのである。

こんなこともあって、世は間もなく明治維新となった。

「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする。チョンマゲ頭をたたいてみれば、因循姑息の音がする。」と当時世間で唄ったそうであるが、いよいよ何もかも文明開化の時代となり、明治4年廃藩置県が施行され、幕藩体制の崩壊と共に、マキハダ合鑑の制も廃止された。

これから四民平等で誰でも自由に製造できるようになったが、課税として一人年間二十銭を納入することになった。

しかし、これも明治12年県会が開始された年免税となり、農業の副業として取り扱われることになった。
(以上大崎南村郷土史による)

その後、明治になって瀬戸内海にも石灰船がふえ、御手洗・木江・鮴崎港がにぎやかになり、造船所や燥場に寄港する船舶も多くなった。

大正になって第一次欧州大戦が勃発すると、造船ブームで大崎島は一時黄金時代となったが、関連産業であるマキハダもさぞかし発展したことであろう。




筆者は或る日生涯をこの道一筋に生きてこられた明石の森田清人氏(89才)をお訪ねし、長年にわたる苦労話の一端をお聞きした(昭和59年5.17)。


氏は、この特殊繊維業のかたわら長年町会にも出られ、議長の要職につき昭和49年には、勲五等端宝章を賜ったような人である。

原材料は今奈良の桜井からきているが、木曽・熊野など何十年も何百年も育った御料材の桧の皮が良質なので、この交渉にあたられたり、販路拡張のためには国内は勿論、遠く朝鮮の各港を訪ね国境の新義州方面にまで足を進められたそうである。

また明石は古くから海運業が盛んで小船が沢山いたが、槙肌船専用船(機帆船)もいて、マキハダの外沖浦や鞆の船釘、錨等を積んで、近辺から四国・九州・阪神・朝鮮にまで廻船され、長崎からの帰り等にはイリコを積んで尾道に行くとか往復をかけ、とにかく小さい船で玄界や太平洋の荒波を越え、命をかけて商売を続けられたわけである。

また、この道の練達者平岡壮氏にも、その昔南小時代長崎の井筒造船所へ御案内してもらったことがあるが、商売は厳しいもので買ってもらうためには、常に取引先と緊密な連絡を取られよ、よい品物を確実に納品する信用を獲得されることが大切のようである。

かくの如く、木江町の作る人、売る人、運ぶ人が長年にわたり真面目に、正確に良品を需用者にお届けしたから、今日まで180年の歴史を保持することができ、戦前に於ける全国市場では、100%を占めていたそうであるが、将に日本一となったのである。


しかし、戦時中一時原材料の購入・運搬がむつかしくなり、産地である奈良・三重・岐阜県の方へ、当町から従業者が一部移転したことがあり、戦後70~80%に落ちたが、当町は常に独占的地位を確保した。


更に昭和30年以降年々木船が減少し、鋼船に移行する傾向が強くなってきたので、マキハダの流通対策の課題解決のため、当時32の業者が結束し、出資金(32万円)を出して同35年11月広島県マキハダ協同組合を設立し、対県対国交渉の結果、国の輸出対象物に取り上げてもらうことになった。




海国日本、造船日本として船と縁を切るわけにはいかない我が国ではあるが、鋼船やプラスチック船の時代となった今後のマキハダ産業は、販路を国内から国外に広げ、木船漁船の多い後進諸国に輸出したり原材料並びに製品の共同斡旋を頼むとか、生産から販売に至る有機的機構の樹立こそが、斜陽産業に残された課題のようである(木江町新町建設計画書による)。


以上抜粋終わり


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関連資料

明石のまきはだ、船釘について


明石のマキハダについて
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新時代へのプロローグ!! 株式会社 松浦造船所

是非、見て読んで欲しいホームページ


新時代へのプロローグ!! 株式会社 松浦造船所



かってこの島は造船の島として一時代を創りました。

造船所の存在は、たくさんの雇用の場を提供し、島の繁栄に寄与してきました。

木造船から鉄鋼船と、造る船の材料はかわり

数々の経済不況

オイルショック

円高

そしていままさに、

100年に一度といわれる世界不況のまっただ中です。


以前は所狭しに存在した造船所も数えるほどになりました。


こうした、時代の変遷を乗り越え

今なお健全に存在する松浦造船所のホームページです。


特に、松浦造船日記は、2005年からずっと更新されています。

ここには、船の建造から、

時代背景、

造船マンの誇り

などしっかりと凝縮されて書かれています。

一企業の営利目的のホームページではありません。

十分に不特定多数の方がご覧なられても、堪えられるだけの公平性が存在します。


ただ、構造的に言えばフレームを使って日記のページを構成されていますので、視認性が悪いのが残念な点です。

しかし、行く行くは、冊子にして発行してもいい内容です。

自分が造ってもいいなと思います。


船舶関係で色々なページを読んでみても、

「新時代へのプロローグ!! 株式会社 松浦造船所」

を超えるページは存在しないと思います。

少子高齢化、3Kの仕事は控えるご時世ですが、こうした有形無形の誇りを発信できるページは見当たりませんね。

過疎の島ですが、

ブロードバンドの利用促進の成功例として、

一企業のとどまらず、しっかりと、文化を発信できるものがたくさん出てくればと思います。


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追記

松浦造船日記以外にも、

大崎上島から情報発信の成功例に、

よってみんさい屋

があります。


この2つのホームページは、私にとって島の誇りです。

小池造船海運株式会社

独創的技術で船を造ている小池造船海運株式会社です。

エアクッション船で特許を出願されています。







【発明の名称】 エアクッション船
【発明者】 【氏名】小池 英治
【住所又は居所】広島県豊田郡大崎町大字中野5924番地 小池造船海運有限会社内

【要約】 【課題】縦仕切板6に横仕切板7に沿って整流板11を設けることにより航走速度の向上を図る。

【解決手段】船底に凹設したエアクッション室を縦仕切板6と、横仕切板7とで縦横に区画している。縦仕切板6は側壁2の下端縁位置を同一水平位置にし、横仕切板7の下端縁位置を縦仕切板6の下端縁水平位置よりも上方に位置させている。各エアクッション室8の区画壁となる仕切板6、7には空気流通孔を穿設している。縦仕切板6の下端縁には、横仕切板7に沿って水平な整流板11の後端縁を取り付けている。エンジン冷却水用配管13は、エンジンルーム12より横仕切板7を貫通してエアクッション室8を通り、最も船首側に位置するエアクッション室8で山状彎曲部13a、13bを形成している。山状彎曲部13a、13b間には空気取入管14が連通接続され、谷状彎曲部を通る海水の遠心力により空気をエンジン冷却水用配管13に取り入れ、各エアクッション室8に均一に空気を供給する。
【特許請求の範囲】
【請求項1】
船体の左右側壁と、船底外板と、船首シール及び船尾シールとで囲まれ、下方を開口したエアクッション室を船底に設け、該エアクッション室に複数の互いに平行な縦仕切板を船体の進行方向に沿わせて前記船底外板に垂設すると共に複数の互いに平行な横仕切板を船体の進行方向に対して直角をなして前記船底外板に垂設し、縦仕切板と横仕切板を区画壁として前記エアクッション室を区画し、この区画された各エアクッション室へ圧縮空気を供給して船体を浮上させるための圧縮空気供給手段を備えてなるエアクッション船において、
前記縦仕切板と前記船体左右側壁の下端縁位置を同一水平位置にし、前記横仕切板の下端縁位置を前記縦仕切板の下端縁水平位置よりも上方に位置するようにし、前記各エアクッション室の空気量を均一化するために、前記縦仕切板と前記横仕切板の下部には各区画毎に空気流通孔を穿設し、前記縦仕切板の下端縁に於ける前記横仕切板の下方位置には水平な整流板の後端縁が取り付けられてなるエアクッション船。
【請求項2】
上記区画された各エアクッション室のうち最も船首側に位置するエアクッション室内に、エンジン冷却水用配管の排水側部分が延設配置され、このエアクッション室内で前記エンジン冷却水用配管が少なくとも2の山状彎曲部を有するように上下方向に彎曲形成され、上端が船体の上方で開口した空気取入管から取り入れられる空気が前記エンジン冷却水用配管と合流して前記エアクッション室内で使用済み冷却水と共に排気され、この排気された空気が前記エアクッション室に供給されるように前記エンジン冷却水用配管に於ける前記山状彎曲部間には前記空気取入管の下端が開口連通されてなることを特徴とする請求項1記載のエアクッション船。
【発明の詳細な説明】【0001】
【発明の属する技術分野】
本発明は、エアクッション室からの空気の洩れを防止し、船の総トン数を変化させることなく積載貨物重量を一層増量可能にし、しかも船の速力を向上させたエアクッション船に関する。
【0002】
【従来の技術】
船底に、下方に開口する凹形のエアクッション室を設け、該エアクッション室に圧縮空気を供給するための圧縮空気供給手段を備えてなるエアクッション船としては、例えば実開平5-49600号公報、特開平7-89435号公報、特開平10-100985号公報に示すように船底と水との摩擦を小にして速度の向上を図った小形船に関するものが存在する。実開平5-49600号公報開示の考案は、船体を船首と船尾を略同一形状に形成し、船底には、下方に開口し、船体の左右両側壁(両舷)、船首及び船尾で囲繞された凹形のエアクッション室を設け、船体の左右両側縁にウォータージェット推進機を対設し、前記エアクッション室に供給した空気の空気圧により船体を浮上させて浅吃水とし、浅い水域での航行を可能にすると共に、船首、船尾方向共に同等の航行を可能にしたものが存在する。特開平7-89435号公報には、2のエアクッション船が開示されている。第1のエアクッション船は船底に下方に開口し、船底外板、船体の左右両側壁、船首及び船尾で囲まれた凹形のエアクッション室を設け、船底にエアクッション室に下端が開口する浮上用ファンを内装したダクトを設け、このダクトは船底内において中途部位で分岐し、バルブを介装して船体船首部よりの左右両側壁下面に開口する多孔質板を備えた空気吹き出し箱と連通して構成されたエアクッション船であり、第2のエアクッション船は凹形エアクッション室に開口するダクトに浮上用ファンを内装し、エアクッション室を囲む船首部寄りの左右両側壁には、側壁下面に開口する多孔質板を備えた空気吹き出し箱を設け、この多孔質板の空気吹き出し孔と連通する連通管は船体の左右両側壁内に配管され、上端はエアクッション室に開口連通してダクトよりエアクッション室に送り込まれた圧縮空気を空気吹き出し孔より船体外に出すように構成されたエアクッション船である。これらのエアクッション船は、浮上用ファンで発生する圧縮空気を利用して航走時の船体浸水面へマイクロエアバブルを添わせ、マイクロエアバブルを船首部寄りの部分から船尾方向へ流し、気泡流が航走中は常時浸水面を覆うようにして専用のエアコンプレッサーを用いることなく船体の摩擦抵抗を軽減するようにしている。特開平10-100985号公報には、船底に船底外板、船体の左右両側壁、船首及び船尾に囲まれた凹形エアクッション室を設け、このエアクッション室に船首から船尾にかけて船底外板に垂直に縦仕切り板を互いに平行な位置関係となるように複数取りつけ、凹形エアクッション室における船首から船尾にかけての略中央位置に側視2等辺三角形状の横仕切りを頂部がが下向きになるように横方向に設けて、前記縦仕切りと前記横仕切りとで凹形エアクッション室を区画し、これら各区画に圧縮空気を供給するように構成し、船が横揺れ等により傾いた場合に、仕切りにより溝内の空気が船体外へ漏出することを防止するようにしたエアクッション船が提案されている。
しかし、実開平5-49600号公報、特開平7-89435号公報開示のエアクッション船は、エアクッション室を構成する左右内側壁が互いに平行に対向するように船底外板に垂設されており、船の横揺れ等により左右両側壁の下方から空気が外部へ漏出する場合があり、航走中は常時圧縮空気を供給しなければならず、エネルギーを要するという不具合があった。
特開平10-100985号開示の発明は、エアクッション室に区画を設けるため、前記実開平5-49600号公報、特開平7-89435号公報開示のエアクッション船と比較して、エアクッション室に充墳された空気が船底を除く部分から漏出しないという長所があるが、両舷内側壁が船底外板に対して垂直に設けられているため、横揺れの際に左右両側に位置する区画内の空気が両舷下方から船体外へ容易に漏出し、しかも船首シール及び船尾シールの下面延長線上で空気層と水が接触する構造であるため、極めて容易にエアクッション室の空気が舷下方から船体外へ漏出するという不具合があった。又、縦断面2等辺三角形状の仕切り堰を船底の船首船尾方向の略中央に船体の進行方向に対して直交して設けているので、特開平10-100985号公報第4ページ図12に示すように、航走中に空気層が船尾方向に上向きの勾配を設け、水が区画内に入り込み、仕切堰の船首側面及び船尾シール内側壁から抵抗を受け、船体の航走速度が遅くなるという不具合があった。
ところで、船舶及び人命の安全を確保するため、船舶安全法第3条により満載吃水線の標示を必要とする。上記従来技術であると、エアクッション室の空気の容積が一定化せず、満載吃水線が一定化しない。そのため、潮流や船体の揺れ等によりエアクッション室の空気が舷若しくは船尾シールより船体外へ漏出すると、船体及び積荷の重量により、船舶は沈没するという危険性があるという不具合があった。
上記不具合を解消するために、本願発明者は、船体の左右内側壁(両舷)を内傾して船底開口横幅を船底外板の横幅よりも狭く形成し、縦仕切り板と横仕切り板とで区画されたエアクッション室を前記左右内側壁の高さ方向中途位置まで設け、水平な下部を有する横仕切り板を船尾方向に後傾させることにより、潮流や船体の揺れ等の原因によっても、エアクッション室の空気層の形状及び容積があまり変化せず、且つ空気を舷から船体外へ漏出せず、船底に於ける空気と接触する海水の流れを静流にして安定的な航走を確保可能にすると共に、満載吃水線標示位置を変化させることなく、従来の貨物船と比較して積荷重量を増量し得ることを見出し、特願平11-324485号として特許出願をし、特許第3077032号を取得した。
【0003】
【発明が解決しようと課題】
上記特許第3077032号の発明は、他社出願の従来例と比較して速力が大幅に改善され、積荷重量の増量も可能になった。しかし、船底に於ける空気と接触する海水の流れが、図7(a)、(b)に示すように海水と空気が混じり気泡を生じ完全な静流にならず、軽度の乱流が生じている。又、この乱流によりエアクッション室からエアクッション室の空気がエアクッション室下方開口より僅かずつ抜け出ていくため、圧縮空気供給手段により空気を供給しなければならない場合が極めて稀に生じる場合があった。
そこで、本発明はエアクッション室を区画する縦仕切板と横仕切板の高さ方向の長さを横仕切板の方を短くし、縦仕切板の下端縁には横仕切板に沿って整流板を水平に設けることによって整流板を中心とし上下方を流れる海水の流速を異ならしめることにより、エアクッション室の空気の漏れを一層減少させ、航走速度の向上を図ることを目的とする。
【0004】
【課題を解決するための手段】
上記目的を達成するために、本願発明のうち請求項1記載の発明は、船体の左右側壁と船底外板と、船首シール及び船尾シールとで囲まれ、下方を開口したエアクッション室を船底に設け、該エアクッション室に複数の互いに平行な縦仕切板を船体の進行方向に沿わせて前記船底外板に垂設すると共に複数の互いに平行な横仕切板を船体の進行方向に対して直角をなして前記船底外板に垂設し、縦仕切板と横仕切板を区画壁として前記エアクッション室を区画し、この区画された各エアクッション室へ圧縮空気を供給して船体を浮上させるための圧縮空気供給手段を備えてなるエアクッション船において、前記縦仕切板と前記船体左右側壁の下端縁位置を同一水平位置にし、前記横仕切板の下端縁位置を前記縦仕切板の下端縁水平位置よりも上方に位置するようにし、前記各エアクッション室の空気量を均一化するために、前記縦仕切板と前記横仕切板の下部には各区画毎に空気流通孔を穿設し、前記縦仕切板の下端縁に於ける前記横仕切板の下方位置には水平な整流板の後端縁が取り付けられてなることを特徴とする。
請求項2記載の発明は、区画された各エアクッション室のうち最も船首側に位置するエアクッション室内にエンジン冷却水用配管の排水側部分が延設配置され、このエアクッション室内で前記エンジン冷却水用配管が少なくとも2の山状彎曲部を有するように上下方向に彎曲形成され、上端が船体の上方で開口した空気取入管から取り入れられる空気が前記エンジン冷却水用配管と合流して前記エアクッション室内で使用済冷却水と共に排気され、この排気された空気が前記エアクッション室に供給されるように前記エンジン冷却水用配管に於ける前記山状彎曲部間には前記空気取入管の下端が開口連通されてなることを特徴とする。
【0005】
【発明の実施の形態】
以下、図を参照にして本発明の実施例について説明する。
【実施例1】
図1はエアクッション船の実施例における要部を示す縦断面図、図2は要部を示す一部切欠横断面図、図3は要部を示す一部省略底面図である。これらの図において、船体1の船底部には、船体1の両側壁2と船首シール3及び船首シール4とで囲まれ、下方を開口した縦断凹形のエアクッション室を設ける。側壁2は1枚の鋼板よりなり、船底外板に対して垂直な外側部分と、内方に湾曲する下端部と、この下端部から内方において上方に立上がる内側部分とよりなる。船底外板5には、船体1の進行方向に沿って複数の互いに平行な縦仕切板6を、船底外板5に対して直角かつ船体1の両側壁2の下端対応位置まで垂設している。また、船底外板5には、船体1の進行方向に対して直角をなす複数の互いに平行な横仕切板7を、船底外板5に対して直角かつ両側壁2の高さ方向中途位置まで垂設している。横仕切板7と縦仕切板6の下端位置の距離差は船舶の種類により異なる。横仕切板7の下端位置は、縦仕切板6の高さ方向の長さが25000mm程度の場合は、縦仕切板6の下端位置よりも200~400mm上方に位置する。縦仕切板6と横仕切板7とでエアクッション室を区画し、これら区画された各エアクッション室8の縦仕切板6と横仕切板7よりなる区画壁の下部には空気流通孔9が穿設されている。空気流通孔9の直径は25mm程度であることが好適である。区画された各エアクッション室8に公知の圧縮空気供給手段で圧縮空気を供給可能に、船体1に設けたエアコンプレッサー室(図示せず)と空気タンク(図示せず)を介して連通した空気供給管10の管端を、区画された各エアクッション室8に対応する船底外板5に夫々開口している。本実施例では、上記公知の圧縮空気供給手段は特許第3077032号に記載されているものを用いる。
横仕切板7の下方には、横仕切板7に沿って整流板11を平行に設けている。本実施例では、整流板11を、水平に形成された船底外板5と平行な位置関係となるように設けている。つまり、縦仕切板6の下端に於ける横仕切板7の下方対応位置には、所定縦幅を有し横方向に著しく長い平視矩形の整流板11の後端縁を、船底外板6と平行な位置関係となるように、溶接手段等により縦仕切板6に一体的に固着している。整流板11の大きさは、船舶の種類により異なるが、例えばエアクッション室の全長が35000~38000mmで、縦仕切板6の高さ方向長さが2500mmの場合には、肉厚が14mmで縦幅が1000mm程度のものが好適である。
次に作用について説明する。空気供給管10より各エアクッション室8に圧縮空気を供給すると、各エアクッション室8の空気量は、空気流通孔9により均一化し船底外板5から横仕切板7の下端縁に亘り空気が充填され、船体1は浮上する。海面は横仕切板7の下端縁に位置する。図1中の1点鎖線の矢印で示すように、航走中は、海水が船首シール3の下面より船底内に入り込む。入り込んだ海水は整流板11の上面と横仕切板7との間に於いて流速の遅い静流となり、エアクッション室8の空気は横仕切板7の下端縁より船外に出ない。つまり、整流板11は、船体1の下方を流れる海水を上下に2分し、2分された海水のうち整流板11の上方を流れる海水は流れが遅くなり、整流板11の下方を流れる海水は流れが速くなる。整流板11の上方を流れる海水は、流れの速い整流板11の下方の海水に引き寄せられ、整流板11の上方を流れる海水はエアクッション室8の空気に混じらず空気を外部に漏らさない。
【0006】
【試験例1】
本実施例のエアクッション船を6~10ノットの低速で航走させると、空気層が横仕切板7の下端縁水平位置より海面方向に若干膨出するが、横仕切板7の下端縁からの空気漏れも極めて少なかった。
10~13ノットの高速で航走させると、空気層と海面との境界面は、徐々に上方に位置し、横仕切板7の下端縁水平位置に位置する。エアクッション室8からの空気漏れは殆ど生じず、空気層と海面の位置関係が安定化した。又、図4(a)、(b)に示す通り、空気と海水の乱れは、図7(a)、(b)と比較して減少し、空気層と接する整流板11の上方の海水の流れは一層静流化し、その結果、エアクッション室8からの空気漏れも減少したことが判かる。
【0007】
【実施例2】
図5及び図6を参照にして実施例2について説明する。説明を簡単にするために図1~図3と同様の作用をなす部分は同一符号で説明する。エンジンルーム12には、船体1の下方に開口するエンジン冷却水用配管13を設けている。エンジン冷却水用配管13のうち排水側部分はエアクッション室8を経て船首方向に延設されている。つまり、エンジン冷却水用配管13のうち排水側部分は、横仕切板7を貫通し、区画されたエアクッション室8のうち最も船首側に位置するエアクッション室8に於いて2の山状彎曲部13a、13bを有して上下方向に彎曲形成され、管端がエアクッション室8内にて下向して形成されている。山状彎曲部13a、13b間には空気取入管14の下端が開口接続され、この空気取入管14の上端は船体1の上方で外部から空気を取入可能に開口している。
次に作用について説明する。上述の図1~図3に示される実施例1と同様に、圧縮空気供給手段により区画された各エアクッション室8に空気を供給して船体1を浮上させる。航走中は、取水側開口から取水した冷却水(海水)からエンジン冷却水用配管13を通ってエアクッション室8内にて排水される。エンジン冷却水用配管13には山状彎曲部13a、13b間に空気取入管14を連通接続しているが、山状彎曲部13a、13b間の谷状彎曲部を通過する水に対して外側方に遠心力が働らき、この遠心力により空気取入管14の上端開口より空気が吸引される。吸引された空気は、エンジン冷却水用配管13との合流部で海水が80%で空気が20%の割合で海水と共に最も船首側のエアクッション室8で排出される。排出された空気は最も船首側のエアクッション室8内に供給され、空気流通孔9を流通して区画された全エアクッション室8の空気量が均一化される。空気と共に排水された使用済冷却水(海水)は、エアクッション室8の下方開口より直接海に排水される。このようにエンジン冷却水用配管13の山状彎曲部13a、13b間に空気取入管14を連通接続し、冷却水の遠心力を利用して空気をエンジン冷却水用配管13に取り入れ、さらに空気をエアクッション室8に供給可能に構成されているので、従来の如くエアコンプレッサーを用いてエアクッション室8に空気を補給する必要がないので、経費の軽減を図り得るという効果がある。
又、総トン数19(G/T)のエアクッション室を有しない公知の船の積トン数が80tであるのに対し、総トン数19(G/T)の本実施例のエアクッション船の積トン数は1800tであり、積トン数が約22倍であった。船に関する税金や乗船人員数等は総トン数(G/T)で決定されるため、同一総トン数で積トン数が大幅に向上し、利益率が飛躍的に上昇するという著大な効果がある。
又、バラスト水を積まないで出港できるため、異なる海域に生息する生物を寄港する国へ搬出することも、国内に搬入することもなく、地球規模で生態系のバランスを狂わすことがないという効果がある。
【0008】
【発明の効果】
整流板により船底を流れる海水が上下に2分され、整流板の上方を流れる海水が流れの遅い静流となり、この整流板の上方を流れる海水が、整流板の下方を流れる流れの速い海水に引き寄せられるためエアクッション室内の空気が海水と混じり合うことが極めて少なく、船外へ漏れないため、航走速度が向上するという効果がある。
エアコンプレッサー等の装置を用いることなくエンジン冷却水の船首部通過の際の遠心力で空気をエアクッション室に供給し、供給された空気を空気流通孔を流通させ、区画された全エアクッション室の空気量を均一化させることができるので、航走中の燃料費等の経費の軽減化を図り得ると共に、同一総トン数で積トン数を少なくとも22倍以上も向上させることが可能であるという効果がある。
【図面の簡単な説明】
【図1】エアクッション船の要部を示す一部切欠縦断面図である。
【図2】要部を示す一部切欠横断面図である。
【図3】要部を示す一部省略底面図である。
【図4】(a)は船首側の船底流れを示す写真図である。
(b)は船尾側の船底流れを示す写真図である。
【図5】エアクッション船の要部を示す一部切欠縦断面図である。
【図6】図5の要部を示す一部切欠横断面図である。
【図7】(a)は整流板を設けていないエアクッション船の船首側の船底流れを示す写真図である。
(b)は整流板を設けていないエアクッション船の船尾側の船底流れを示す写真図である。
【符号の説明】
1 船体
2 側壁
3 船首シール
4 船尾シール
5 船底外板
6 縦仕切板
7 横仕切板
8 エアクッション室
9 空気流通孔
10 空気供給管
11 整流板
13 エンジン冷却水用配管
13a、13b 山状彎曲部
14 空気取入管
【出願人】 【識別番号】599160217
【氏名又は名称】小池造船海運有限会社
【住所又は居所】広島県豊田郡大崎町大字中野5924番地
【出願日】 平成14年9月20日(2002.9.20)
【代理人】 【識別番号】100050901
【弁理士】
【氏名又は名称】長尾 貞吉

【公開番号】 特開2004-114996(P2004-114996A)
【公開日】 平成16年4月15日(2004.4.15)
【出願番号】 特願2002-313479(P2002-313479)


広島県の「ものづくり」~オンリーワン・ナンバーワン企業~にも選ばれています。


中型造船では、この島はまだまだ時代をリードする技術が残っています。
小池造船海運株式会社は、注目の企業であり独創的技術で、大崎上島をアピールして欲しいと思います。

神戸港・船の大工展の紹介

「神戸港開港140周年記念事業」の一環として、2009年9月25日(金)まで、神戸学院大学・神戸海洋博物館に、神戸港 船の大工展を開催しています。



PDFファイルはこちらから








大崎上島からも協力しています。

明石のマキハダについて

明石のマキハダについて、過去に報道された内容を載せておきます。


日時:
2005/01/19
分類:
その他
見出し:
槙肌運搬船、最後の出航 広島県大崎上島
内容:
瀬戸内文化 鳥羽の博物館に保存へ

木造船の浸水防止に使う槙肌(まきはだ)の生産と行商で栄えた、広島県大崎上島町の明石地区に一隻だけ残っていた木造の槙肌運搬船正宝丸(一九・八トン)が、三重県鳥羽市の「海の博物館」で保存される。十八日、四十年間苦楽を共にした船長西卓男さん(67)夫婦たちに見送られて、明石港を出航した。

全長約十六メートル、幅約四メートルの船は、祖父の家業を継いだ西さんが妻紀美さん(63)と結婚した一九六四年の十二月に進水。船倉に最大五十トンの槙肌縄や船くぎを積み、下関市や萩市の造船所を回った。紀美さんが機関長を務め、一回の航海は二十日間。船上生活のため、二畳の部屋やデッキに台所もある。

明石港には、六〇年代まで二、三十隻の槙肌運搬船がひしめいた。鋼やプラスチック製の船に押されて槙肌の需要が減り、約十年前から一隻に。西さんも足を痛めて三年前に船を下り、車での行商に切り替えていた。

昨年五月、槙肌研究で訪れた同博物館の石原義剛館長(67)が保存を提案。九九年に同町の櫂(かい)伝馬船を受け入れた経緯もあって、寄贈話がまとまった。「まだ乗りたい。でも、船にまた会えるから」と西さん。石原館長は「瀬戸内海の文化を伝える貴重な船」と話している。
槙肌 マキやヒノキの内皮を加工し、縄状にした造船の材料。板の合わせ目に詰めて浸水を防ぐ。明石地区では1801年に、村人が大阪で習った製法を広めたとされる。材料は主に奈良県から仕入れ、昭和初期には全国の7割を生産した。

【写真説明】桟橋から離れる正宝丸を見送る西さん夫婦(左手前)と家族



写真:








また、小説にもなっています。


ポンポン船の旅
倉掛 喜八郎 著 大阪書籍 版
クラガケ,キハチロウ オオサカシヨセキ 
1986年05月 発行

夫婦行商船
大崎上島 (広島・木江町)

要約

香川県坂出市、兵庫県高砂、明石、そして神戸。家移りのたび、海辺の町に住んだ。
塩田、遠浅の海、港、船、荷役、小さな造船所などで、遊びながら海を見て育った。
船大工、漁師、船乗り、浜の男たちは皆、物知りで心優しかった。

見るもの聞くもの、触れるもの、触るものすべてが子供心をワクワクさせた。

海好きなのは、明治の後期、北前船と外国航路船の航海士であった祖父の血筋かもしれない。今も海辺は居心地がよい。

明治30年代、港町の縁日には海から行商船が来た。

行商船は瀬戸物、漆器、日用雑貨品 衣料品と売る品物が船によって異なっていた。
車社会になって、船が伸び立ちをした文化、人や物の交流が年々失われつつある。

商港は次々と漁港に変わった。行商船を見かけることも少なくなったが、まだまだ健在である。

広島、愛媛両県にまたがる芸予諸島や山口県熊毛群島で果物、衣料品、漁網を売る行商船を偶然見た。懐かしくも嬉しかった。

木造船の板の継ぎ目に打ち込み、船のアカ(浸水)を防ぐ槙肌縄の行商船が健在と知り、大崎上島木江町明石を訪ねた。

槙肌縄は檜の上皮を加工したもので、つやのある赤茶色の細い糸。束ねて板の継ぎ目に打ち込む。

明石は、その槙肌縄の特産地であった。製造の始まりは享和元年(1801)。
明治に入ると全国の70%をこの島で製造して栄えた。

木造船華やかかりし頃は、多かった需要も、鋼船、強化プラスチック船の普及につれて減少。残る製造業社は一社、行商船は五隻。全盛時の4分の一に減った。
西卓美さん、紀美さん夫婦は造船資材の行商をしている。

二十トンの機帆船″正宝丸〟で年に四,五回祖父の代からの得意である山口県下関、山陰海岸の萩までの各地造船所を巡る。卓美さんが船長、紀美さんが機関長。一海が二十日ほどかかる。売り物の多くはプラスチックの接着剤、鉛釘、ボルト。槙肌縄はほんの少量である。


商売、航海、両親を案じる中学三年の長男に見送られて、″正宝丸"は冬の日本海へ旅立った。






大崎上島町広報にも関連した内容が掲載しています。

・明石のマキハダ、沖浦の船釘を追って2004年7月
・マキハダブネは伝え続ける2005年12月号


木江では、女の子が生まれるとヒノキを植え、結婚の時の持参金代わりにしていると、いう伝承があるそうだ。私は知らなかった。

明石のまきはだ、船釘について

マキハダについて

木造船造りの際、板と板のすき間につめ水もれ防止用に使われたものをマキハダと言う。
桧の皮で作るやわらかい縄のことで、水分を含むと膨張する性質があるため、これを使うと板のすき間を完全に埋め、船の浸水を防ぐことができました。
このため木船建造にはなくてはならないものです。

マキハダが明石で生産されるようになったのは江戸時代、享和元年(1801)のこと。
その後、急速に発展して明石のマキハダづくりは、安政三年(1856)に保護する目的で、無許可で製造した者を罰するお止め産業に指定され、42の業者に合艦(免許)が交付されました。





明治から昭和のはじめにかけて木船づくりが盛んになるとともにマキハダの製造も伸び、全国の約7割をここで生産していました。

マキハダの原材料桧の主な産地は奈良県桜井市で、そこから明石へ運ばれてきた桧は、まず天日に干し、はいだ上皮を火を使って乾燥させます。

それをベルトハンマーでたたき、繊維状にし、それを水につけた後、ふたたび天日で乾燥、最後に縄になってできあがります。

こうしてできた製品は、古くはマキハダ専用船で四国・九州・阪神や遠く朝鮮半島まで販売に廻船していました。

木船の建造が減少するとともに、生産量も減り、今では漁船などの木船のほか木の風呂おけなどに活用されている程度です。
このため最近では、国の輸出対象物として販路を広く国外に向けつつあります。





正式名称を記述している資料が少ないので困惑する。
紹介されているホームページも、決していい加減な名称を載せるような品格のサイトではないので、非常に悩みます。

資料の名鑑には、槙隙道具となっている。
また、ゲンノウという名前で紹介されている。
また、あるサイトには、ポンコチという名で紹介されている。







沖浦の船釘

マキハダとともに木船造りにかかせないのが船釘

福山の鞆の浦とともに沖浦の船釘は盛んであり船釘は薄手で細目に作られていたため瀬戸内海の小型船舶に適していた。

大正時代は、30軒もの鍛冶屋が沖浦にあったが、木造船から鋼船へ形態が変わると伴に、昭和60年7月24日の山本正一さんを最後に沖浦の船釘製造の火は消えてしまう。













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