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機帆船のできるまでの流れ

木江ふれあい資料館で貴重な機帆船の建造過程を写真で丁寧に説明してくれていたので、掲載します。

今では、非常に貴重な資料となっています。
※カメラの腕が悪いので、一部焦点のあっていないものもあります。


宮司さんがこられ、建造の安全を祈願
如何に、船を造ることが神聖なことなのか、張り詰めた空気が読めるのでよくわかる。


この場所は、見覚えがある。
しかも、手前の大三島の位置からいって場所は特定できた。
今では埋め立てしてしまい、駐車場になっている。


助骨の固定
できれば、木材を湾曲する作業を見てみたかった。


当時の記憶があるかたなら覚えれているだろうが、建造している写真は、望月造船所だろうが、この横に材木商があり、塩漬けした丸太がたくさんあった。

オイルショック前、外材が入ってくるまでは、国内の木材は高い値段で取引されていた。その後暴落することになる。
元が山林地主なのでよくわかる。島にこなければ、自分の運命も劇的に変わっていただろう。


これだけの大きさの船だと、使われる材木の数はどれだけのものだったのだろうか?














ある程度の基礎ができたので船大工の安堵感と、プライドを感じる写真だ。
井伏鱒二の小説に出てくるように、昭和32年頃から、木造船の建造が急激に減少してくることになる。

木江は駄目だと落胆する人も多かっただろう。

鉄鋼船にうまく切り替えたところは息を再び吹き返すことになる。


船大工と言われる時代は終わり、新しく溶接工の時代に切り替わる。



しかし、木造船建造は、人力で船の肋骨を組み立てていく作業であり、力とチームワークを必要としたに違いない。

厳しい徒弟制度は必然であり、そうでなければ、木と格闘して一つの作品など作れるはずがない。



海岸線から見える新造船が月日の経過と伴に、形ができあがっていくのは、造船と関係のない人達にも勇気や夢を与えることができた。





ここまで写真をみて、あることに気がつかないだろうか?
造船所に、必ずあるものが、木造船には見あたらないのだ。



答えはクレーンです。

機帆船を建造する際、ほぼ人力で作業をしていたことになる。

今では当たり前になったクレーンだが、昭和30年代初期の写真には、はまだ見あたらない。



昭和32年6月24日から着工して、3月頃に完成することになると、8ヶ月程度費やすことになる。
この船の名前は、第三 芳栄丸という文字が見える。


造船所にとって一隻の船が完成するということは、子供を送り出すようなものなのかもしれない。

万感の想いで一杯だっただろう。

下の年表でわかるように、

昭和32年(1957)木と鉄による木鉄交造船から鋼船建造に切り替わる

となっている。

鋼船建造に切り替わることは、大量輸送時代の幕開けを意味する。



オチョロ船の終焉と、木造船の停滞

小さな瀬戸の港町にとって激動の時代の幕開けとなる。





現代の船の建造過程を見るには、松浦造船 日記 を是非参考にしてください。

機帆船と対比すると面白いです。





焼玉エンジン船 「ポンポン船」

この音をきけば思い出す人が多いかも




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大崎上島 船の歴史

歴史
ふれあい資料館の年表から

奈良時代(710~) 奈良平安京~太宰府ルートで瀬戸内海重要性高まる


平安時代(794~) 安芸国から京都までの運賃は陸上より海上の方がやすいため利用盛んになる


南北朝時代(1336~)大崎上島 近衞家の荘園となる


室町時代


嘉吉2年(1442) 小早川氏の領土となる。
天正16年(1588) 小早川隆景 斎島の取り締まりを命じられる。


安土桃山時代

文禄年間(1592~) 豊臣秀吉 朝鮮出兵 大崎島(木ノ江、垂水)軍船を建造の伝承あり。


文禄4年(1595)小早川隆景の「備中船手衆」より大崎衆の記述あり。
          金山清兵衛(中野)
          有田善右衛門(東野)
          田坂床兵衛(原田)
          土倉源右衛門(沖浦)



江戸時代


寛文年間(1666~)一般の船にも木綿帆船使われ帆船の性能アップ、沖乗り始まる。

寛文12年(1672)江戸商人 川村瑞賢 西廻り航路整備

享和年間(1801~)明石でマキハダ生産始まる。

天保7年(1836)船の出入港の安全のため矢弓に常夜灯建立

嘉永2年(1849)三池(福岡 大牟田)の社寺に奉納された燈明に大崎島の18艘の船の名前・船頭の名前が刻まれていることから、当時玄界灘を越えて石炭を運んでいたことがわかる。

安政3年(1856)広島藩は明石のマキハダをお止め産業(免許制)として保護育成
          大崎島最初の造船所 木ノ江で創業※社名は作字しないといけない)

安政5年(1858)広島~竹原間で帆船の定期便始まる

文久元年(1861)芸州藩主 浅野長訓がマキハダづくりを明石に視察
          この頃から、木ノ江、鮴崎沖を通って糸崎へ抜ける航路が利用される

慶長元年(1865)船数改め帳による船数は220艘に及ぶ



明治時代


明治元年(1867)小松屋造船所(木ノ江)創業

明治12~22年(1879~1889)造船業用地として木ノ江宇浜地区の海岸1町1反3歩にわたり埋め立て

明治15年(1882)木ノ江郵便電信局設立

明治26年(1893)木ノ江 藤原弥一が、大阪から米沢金造を招き西洋型帆船(スマント造り)を建造

明治27年(1894)鮴崎、中ノ鼻に灯台建設

中ノ鼻灯台


鮴崎灯台




明治31年(1899)芸陽海員学校(広島商船高等専門学校)設立

明治33年(1900)糸崎海務所木ノ江出張所(現 中国海運局木ノ江海運支局)設立

明治33年7月 大崎島郵便電信局設立

明治34年(1901)鮴崎、木ノ江港船舶入港数(1月~9月)
           汽船   西洋型   日本型   合 計
       鮴崎 515  2774  1927  5216
      木ノ江 515  6235  4163  10913

明治36年(1903)巡航船「清丸」(20人乗り18トン)が久友~尾道間を運行開始

明治37年(1904)丸殿船渠造船所(木ノ江)設立(木ノ江町にできた初めてのドック)

明治30年代後半 洋式帆を取り入れた西洋型帆船の建造始まる

明治40年(1907)木ノ江汽船株式会社設立 4艘の巡航船 運転始める

明治時代末期 曳船制度 誕生 ※曳船 曳ボート(蒸気船)が200トンほどの船を曳くもの


大正時代


大正5年(1916) 丸殿船渠造船所で豊田郡一の木造蒸気船「殿丸」700トンが進水、以後1000トン級船舶の造船が増える

大正6年(1917)新設の6造船所を含め造船所数29 職員数1553人となる

大正6年10月 大崎造船組合が設立

大正7年(1918)中村汽船(持ち船82艘)が木ノ江野賀を寄港地とする



大正9年(1919)豊田郡木ノ江造船徒弟学校(現 木江工業高校)創立


昭和


昭和初期 発生機関(エンジン)をもつ機帆船が登場

昭和3年(1928)全国の港湾中、帆船入港数、木ノ江3位、鮴崎5位

昭和5年(1930)木ノ江 鮴崎港、内務省告示一号により指定港となる

昭和11年(1936)マライ半島コタバルに船大工13名派遣

昭和16年(1941)中国造船株式会社 合同企業として設立



昭和24年(1949)大型汽船による大量輸送が主力となる

昭和32年(1957)木と鉄による木鉄交造船から鋼船建造に切り替わる

昭和35年(1960)新鋼造船10艘建造

木江ふれあい資料館から

館内の資料を撮影してきました。



これは、旧町役場。手前の石楼から、厳島神社から撮影したことがわかります。

うっすらながらこの役場、記憶にあります。



これも木江旧警察署

経済活動が活発だったこと、人口が多く、オチョロ船にも関係があったでしょう。
また、愛媛県との県境ということで、暴力団の勢力争いなどもあったと思います。



広島県木ノ江港風景(吉井勇伯短歌入) 木ノ江町発行 千代田スタジオ写

千代田スタジオ※広島県豊田郡大崎上島町中野片浜にある写真店が同名である。



絵70063 絵葉書広島県木ノ江港風景 6枚
袋に記念印 吉井勇伯短歌入 木ノ江町発行 戦前



宇浜より天満を望む



天満より宇浜を望む



いにしへは 筑紫へくだる防人も 船のわかれを 惜しみたりけん


戦時中に発売された絵はがきです。

当時の帆船の多さに驚きを感じます。
当時有数の港町だったことがわかります。

おそらく、南村と合併する前の全盛期には5千人以上がこの小さいな港町に住んでいたと思われる。
船具屋は当然として、バー、映画館、豆腐屋、複数の銀行をはじめ、出先機関である海運局など登録できるようすべて備わっていた。
戦時中は、半官半民の中国造船株式会社が設立されていた。
人口の流動率はかなりのものだっただろう。

当然色街の要素もあっただろうが、終戦から30年頃までは、一種の造船バブルがこの地域に起こっていたと思われる。

この写真でわかるように、当時の木江港は、木造船の修理しやすい地形、遠浅だった。

木造船は、周期的に陸に揚げてメンテランスをしないと、フナムシに船底を食われてしまう。

詳しくは、瀬戸内和船工房と舟宿「ひな」の物語のところに書かれているように、

>引用

その昔、木造船は毎日漁を終えたら巻き揚げ機などで曳き揚げられた。船底に海藻や貝などが付着しないようにするためと、海水温が高い夏の間にはフナムシが船底に卵を産み付け孵化すると、木質を食い荒らし高価な舟に穴を開けてしまうからだ。

木造船の時代は一月に一度ほどは舟を船台に上げ、船底を杉葉のたき火で燻し船虫退治をした、これを「たでる」と言う。当時は船底塗料などのない時代だから手間が掛かることおびただしいものだった。

>引用終わり


※「たでる」という作業、昔の記憶を呼び起こしてみると・・・・
木江は造船業の発展とともに、家々が異常に密集した小さな港町であり、そういった港にところ狭しに造船所が乱立していた。
ある造船所が、この「たでる」という作業で、船底を何日もかけて、杉の木などを燃やしながら煙でいぶすとあたりはどうなるか?
風向きで人家に煙りがはいることが多々あり、クレームの嵐となる。人間にとっても、煙は気持ちのいい匂いではなかったのだ。時と場合で異臭が何日も漂うことになる。






だから、木造船中心の時代は遠浅の海岸が優遇されたはずだ。


櫂伝馬なども、木目に海水がしみこみ過ぎると、重量が増え、漕ぐ抵抗力が増えるそうだ。

船底にはロウや、松ヤニなどを防水と抵抗力を減らすために塗るそうだ。

木造船がすたれ、鉄鋼船に切り替わる昭和30年後半頃には、海岸の埋めたが進み、遠浅の港は、変貌することになる。



消えたオチョロ船  井伏鱒二

 局長さんの話では、木ノ江の町は、木ノ江千軒と云い、木造船の造船所として栄えた町で、これにオチョロ船がいたから停泊する船で尚ほ栄えていた。

「いつか、或る機帆船の船長がこぼしていました。船が木ノ江の港に近づくと、若い船員がこっそり飲料水を流してしまう、ボイラー用の水も流してしまう。止むなく木ノ江に船を着けることになる。」

 それに、木ノ江は山陽道側と四国との中間に位する。西風以外のときには風待ち潮待ちに便利な港であって、木ノ江、鞆の浦、玉島、牛窓というように、帆船の一日行程の足だまりの場となっていた。



木江ふれあい資料館

里帰りということで、短期間ですが、木江に帰ってきました。

地図をのせておきます。

大きな地図で見る

平日だとほとんど来客はないでしょう。



木江の船の歴史資料館と名前を変えたほうがいいと思います。
施設は立派ですが、せっかくの資料が、どんなものか全国に皆さんは知らないと思います。



特に木造船の建造に関しての資料は充実しています。

「こんな離島になぜ?」と思う人がいると思いますが、木江町は、全国でも有数の中型造船の中心地の一つでした。




また、ネットにおいてこの「木江の造船の歴史」を記述している人がほとんどいないので、今回は、しっかりレポートしていきます。




ところで、この写真の船はなんだと思いますか?
おそらく倉橋の遣唐使船だと思います。

まったく、ニュースにもなっていませんが、たまたま、偶然にもこの資料館に近くにある海岸で撮影することができました。

まさか、帆船が目の前(愛媛県側)に向かっ走っているはずはないと思いましたが、慌ててデジカメで撮影しました。

パソコンで拡大してみると、間違いないでしょう。

倉橋の遣唐使船でしょうね。



復元北前船、津軽海峡を初航海 函館開港150年を記念

 2005年に青森市で復元された木造帆船「北前船」が8日、同市を出港し北海道函館市へ向かった。函館開港150周年と、青函連絡船などで関係の深い両市の「青函ツインシティ(双子都市)」提携20周年を記念したイベント。これまで陸奥湾で実験航海を行ってきたが、初めて津軽海峡を渡る。

 全長32メートルの北前船「みちのく丸」には函館市への贈り物としてリンゴが積み込まれた。ねぶた囃子と観客の拍手の中、正午前に出港。快晴の青森湾に出た後、高さ28メートルの帆柱いっぱいに帆を広げた。

 乗組員は船長の木村透さん(43)ら約30人。8日午後に青森県むつ市に寄港した後、9日に函館港入りし、同港で16日まで船内を一般公開する。

 北前船は江戸時代から明治時代にかけて、日本海を大阪から北海道まで結んだ輸送船。青森市の「みちのく北方漁船博物館」が北前船の歴史を伝えようと建造した。NHK大河ドラマ「篤姫」のロケにも使われた。



実際 海に浮かんでいる北前船を見ると、実に優雅で、落ち着いた気分になるのはどうしてなのだろう。



和船、帆船に関して、かなりの資料を手に入れることができた。
写真も200枚近くとっているので、編集するのが忙しいぐらい。



つくづく思うのは、和船のネットワークが日本では、できていないことです。

実にもったいない。




・海の時空館 

浪華丸

船の型 菱垣廻船

重さ90トン
全長30メートル
高さ27.5メートル
幅7.4メートル


・みちのく丸

船の型 北前船

重さ150トン 千石船 一石 180リットル 150㎏
  1000×150=150トン

全長32メートル
高さ28メートル
幅8.5メートル



参考URL

青森県立郷土館ニュース
みちのく北方漁船博物館





みちのく北方漁船博物館は大崎上島の櫂伝馬と密接な関係があります。

大崎上島町広報

・みちのくへ夢を載せて2003年10月

東野の櫂伝馬船を、みちのく北方漁船博物館(青森市)に寄贈しました。東野外表区では1998年以降、競漕に参加しておらず、その保存と継承については課題となっていましたが、このほど地元の意向と瀬戸内の木造船を所望する同博物館との合意が叶いました。櫂伝馬船を博物館等に寄贈するのは、高松市の瀬戸内海歴史民俗資料館、鳥羽市海の博物館に次いで3隻目。


島の文化の架け橋に、愛娘を嫁に出す気持ち
今の心境?愛娘を嫁に出す気持ち、誇らしさと寂しさと。
この船に私は19年乗りました。この間のレース一つ一つにドラマがあり、どれも忘れられません。東野に櫂伝馬の歴史は古いとはいえ、外表区に櫂伝馬はありませんでした。毎年夏になると、櫂伝馬の話でもちきり。練習がいかにきついか、手にマメができた等も誇らしそうに。海岸の集落にありながら船を持たない私たちは話にも入れず、寂しい悔しい思いをしました。なんとか櫂伝馬競漕に参加したいという願いが叶い、昭和49年に初参加。ただし船は他の地区が十何年も使用した古い船です。これがとにかく進まない。(笑)新造の櫂伝馬船とは比較になりません。船が欲しい、資金が必要です。寄付を募らねばなりません。区長に再三願い出ていましたら、昭和53年、外表沖の競漕でAクラス(4位以内)に入れたら船を作ってやろうということになりました。若いもんの道楽でなく区の誉れとなるよう認めてもらう必要があったのです。水夫(かこ)一同奮起しました。そうしたら3位に入れたのです。うれしかったですね。こうして、作られたのがこの船です。
かつては、1日8レース、海岸線には観戦する人々が鈴なりに連なっていました。
レースは口から心臓が飛び出るかと思うほどきつい上に、太鼓の音だけで心をひとつにしていく細やかさが要求されます。船頭にはさらに、その時の気象、潮の流れ、水夫の心身の状態を読み、瞬時に作戦の変更、即決していく力が求められる難しい競技です。しかし、そんなことが200年も続いてきたということに、この地域の昔の人の強いこだわりと思い入れ、ロマンを感じますね。私たちに櫂伝馬が教えてくれたものは計り知れず、船だけでなくその心も、みちのくへ、そして全国へ伝えられたらと願っています。





帆船「ひな」の実写帆走



瀬戸内和船工房と舟宿「ひな」の物語から

帆船「ひな」は一枚帆二丁櫓帆柱高6m80cm艇長7m40cm幅2m10cm総重量1200kg定員7名の純木造船となっている。

有難いことに、鮮明な動画で海上を疾走する帆船「ひな」の姿が見ることができる。
帆船が風の力でこれだけ軽快に海上を疾走する姿をみると、能島村上水軍が、3日間で、淡路島沖に到着したとの記述が本当じゃないかと思えてくる。

木造船は、昭和40年後半までは、大崎上島でも製造している様子を間近でみることができた。
垣根を越えると造船所があり、木造船と鉄鋼船の両方を作っていた。
木造船に関していえば、松(すぎかも?)の匂いが強烈で、鉋で削った木屑からでる香は、一生忘れることのできないぐらい、強烈なものだった。
芳香剤に通じるツンとして匂いだ。

当時は当たり前と思えた風景も今では大変 貴重なものになってしまった。

しかし、平成の時代に、中世で活躍した源平合戦で使われた戦闘艇が復元され、海原を走る姿を拝めるのは、実は、贅沢な瞬間であることに感謝しなければいけない。

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