海の道:築こう 郷土の「歴史ロマン」 (その1) /広島 瀬戸内海は古くから海上交通の重要な“道”として栄え、独自の歴史や生活文化が築かれてきた。古くは遣唐使や日宋貿易、朝鮮通信使……。今や離島が橋で結ばれ、人の流れや生活様式は大きく変わったが、先人が築いた文化は、現代を生きる私たちの財産。その価値を再確認し、受け継いでいく取り組みが、県内各地で盛んだ。不安の海に漂いながら迎えた2011年、未来に向かって新しい「海の道」を築く航海に繰り出したい。まずは「歴史ロマン」に秘められた郷土の魅力に触れてみませんか。
◆神仏習合
◇大河ドラマで“宮島ブーム”!? 神の島は、仏の島でもあった--? 4年連続で観光客が300万人を突破した宮島(廿日市市)。世界遺産・厳島神社の朱色の大鳥居は、青い瀬戸内海と緑深き原始林と鮮やかなコントラストを描く。来年放送予定のNHK大河ドラマ「平清盛」は“宮島ブーム”を予感させる。秘められた歴史の奥深さを知れば、島により魅せられるに違いない。
「宮島は『神の島』と呼ばれますが、平清盛が厳島神社を修造した平安時代末期は、神仏習合、つまり神と仏が一体となった島だったんです」。空海が806年に開創したとされ、島最古の寺院である真言宗御室(おむろ)派大本山・大聖(だいしょう)院の吉田正裕・第77代座主(50)が、歴史をひもといてくれた。
神仏習合は奈良時代から始まり、平安時代に理論化された。大聖院には、厳島神社に付属した「別当寺」だった名残を確かめられる。寺所蔵の「十一面観音菩薩(ぼさつ)像」は、元々は平家が守護神とした厳島神社にあり、神が仏に姿を変えて現れた「本地仏」として長くあがめられた。明治の廃仏毀釈(きしゃく)で神道と仏教は切り離されたが、菩薩像は歴史の荒波を乗り越えて、今も変わらぬ笑みをたたえる。
大聖院の参道にそびえる「御成門」と、厳島神社の瓦などには亀の甲羅のような同じ紋様がある。厳島神社の大みそかの恒例行事「鎮火祭」も、元は大聖院の祭事だった。神仏習合は、過去のものではない。今年11月、1000人もの僧侶を招く法会で、功徳が高いとされる「千僧供養」が、約30年ぶりに島の千畳閣(豊国神社)で催される。宮島に生まれ育ち、観光協会の役員も務める吉田座主は「清盛に注目が集まるのを機に、神仏が共に歩んだ歴史も知ってほしい」と期待する。【矢追健介】
海の道:築こう 郷土の「歴史ロマン」(その2止) /広島 ◆藻塩
◇先人の知恵、うまみ凝縮--上蒲刈島 夏は海水浴客でにぎわう上蒲刈島(呉市)の「県民の浜」。その一角に、古代の製塩方法で作った「藻塩(もしお)」にまつわる施設が並ぶ。製塩の歴史を学べる呉市立「古代製塩遺跡復元展示館」や、藻塩作りの体験施設もある。現代に藻塩を復活させた松浦宣秀さん(74)は「浜で拾った一片の土器のかけらから、こんなにまでなるとは」と目を細めた。
松浦さんは島にある来生寺の住職。82年、この浜で古墳時代前半(約1500年前)の土器のかけらを拾った。松浦さんは中学時代、石器として使われた黒曜石を拾ったのを機に、考古学に関心を持った。旧蒲刈町文化財保護委員として、島の遺跡の発掘調査にも携わった。かけらは製塩土器の底の部分と、すぐに分かった。83年、県が「県民の浜」として開発する工事で、古墳時代~中世の製塩遺構が見つかった。
しかし、製塩方法が分からない。研究者らに尋ねながら独自に調べ、万葉集の「朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ」と詠んだ歌に着目した。海藻の専門家が「『玉藻』という海藻はない。玉が付いている海藻とは『ホンダワラ』だ」と教えてくれた。島の浜辺に打ち上げられる海藻だった。
古代の人々は、かめに海水をため、ホンダワラを浸して干す作業を繰り返しながら、海水を濃縮した。塩を取り切るため、ホンダワラを焼いて炭や灰にし、濃くした海水に混ぜた。遺跡からはホンダワラを焼いた灰も見つかった。調査を積み重ね、14年がかりで製法に確信を得た。海水とホンダワラのうまみが凝縮した藻塩は評判に。98年に島に第三セクターができ、「海人(あまびと)の藻塩」として生産を始めた。今や全国のホテルや料亭で重宝され、インターネットでも人気を博す。
「藻塩に宿るロマンを感じてほしい」。松浦さんは期待する。【樋口岳大】
◆朝鮮通信使
◇「日本一の景色」たたえ300年--鞆の浦 瀬戸内海に浮かぶ島々を見渡せる景勝地・鞆の浦(福山市)。昨年は坂本龍馬ブームに沸いたが、今年は朝鮮通信使が「日東第一形勝」(日本で一番美しい景色)とたたえてちょうど300年。「縁地連朝鮮通信使関係地域史研究会」(事務局・山口県上関町)副会長の池田一彦さん(72)=同市鞆町=は「鞆の浦は朝鮮通信使がたどった寄港地。海の道構想はまさにうってつけです」と語る。
朝鮮通信使は鎖国下の江戸時代、日本が唯一、正常な国交を結んだ李氏朝鮮の使節団。一行は対馬から瀬戸内海を通り江戸へ向かった。中でも鞆港東側の高台に建つ国史跡の福禅寺客殿「対潮楼」は通信使の正使らをもてなす宿舎として利用され、1711年には従事官の李邦彦がその眺望を「日東第一形勝」と称賛している。
その「最高の景色」を巡り、池田さんは喜劇的な逸話を披露してくれた。1748年に10回目の通信使が鞆の浦を訪れた際、運悪く対潮楼は福山藩の役人が宿舎に使っていた。先人の評判を聞き、期待に胸を高めていた一行は落胆した。「役人たちは『波の音で睡眠不足になる』『高台で水の便が悪い』と言い訳し、揚げ句の果てに『燃えてしまった』とうそをついた」(池田さん)。立腹した一行はそのまま江戸へ向かい、これに慌てた役人は急いで客殿を片づけ、江戸からの帰途に泊まってもらうことでようやく事なきを得た。史料の字面をなぞるだけでは分からない先人の豊かな表情が浮かび上がってくる。
池田さんは「福山で盛んな書道をはじめ、朝鮮通信使が備後地域に与えた文化的な影響も数多い。景色を眺めるだけでも十分結構だが、背景を知ると歴史はさらに面白い」と語る。【豊田将志】
◇魅力向上 「地域資源」磨き、相互に連携 県は、瀬戸内海に点在する「地域資源」を磨き、相互に連携させることで地域の魅力を向上させ、観光客や定住などの交流人口拡大を図り、産業を活性化させる「瀬戸内 海の道構想」の策定を進めている。湯崎英彦知事が09年の知事選で掲げた目玉政策の一つだ。
20年までに、県内の年間観光関連消費を約3200億円(07年)から約6000億円に引き上げ、約1兆円の経済波及効果を目指す。県設置の策定委員会(委員長=石森秀三・北海道大観光学高等研究センター長)は1月中をめどに、構想案を知事に提出する。
今年度約2000万円かけて、18の実証事業を展開中。海辺で特産のカキを焼いて食べられる「カキ小屋」、高齢化が進む大崎上島での朝市・カフェの出店、サイクリング愛好者向けに自転車が運べる電車やバスの運行など、集客を目指して模索が続く。
構想素案で打ち出した方向性では、実証事業の検証などを基に、港町・宿場町のネットワーク形成▽市町や愛好者らとのサイクリングロードネットワークの形成▽アートをテーマにした拠点整備▽瀬戸内海の「食」を通じたにぎわい創出--など、33のプロジェクトを進める。【樋口岳大】
海の道:築こう 広島ユネスコ協会長瀬戸内海事典編集委員・北川建次さん /広島
◇「瀬戸内文化」の醸成を--広島ユネスコ協会長瀬戸内海事典編集委員・北川建次さん 瀬戸内海の歴史や文化、特徴、そして活性化に向けた課題について、広島ユネスコ協会長で、「瀬戸内海事典」(南々社、07年)編集委員を務めた北川建次・広島大名誉教授(75)に聞いた。【聞き手・加藤小夜】
瀬戸内海は古代、陸地の山陽道とともに、畿内と太宰府とを結ぶ重要なルートだった。万葉集にも詠まれ、厳島神社(宮島)の文化も生まれた。鎌倉に幕府が移って以降は重要度が落ちたが、それでも朝鮮通信使や西回り航路などのルートとなり、港町が発展した。
日本は島嶼(とうしょ)国家だが、瀬戸内海があることで、より複雑かつ多様な景観が生まれる。中国のような大陸国家、韓国のような半島国家では見られない風景や文化がある。ただ、「瀬戸内文化」というものがはっきりとあるかは疑わしい。よりスケールの大きな文化となるためには、一人一人が地域の実態を知り、地域全体で縦、横、斜めと連携することで、強力で深みのある個性が醸成されるだろう。
瀬戸内海の自然を忘れてはいけない。広島のような100万都市で、国立公園や自然林が残っているのは珍しい。一時は、利用や開発が優先され、長い間守ってきた自然や景観が、短い間に破壊された。それを保護していく視点が大切だ。
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