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生野島にいってきました!その4

お会いして話を聞きたい!

でも、物音ひとつしません。



人家はありますが、人の気配がしない。

また、人の庭に入り込んで、

「誰か、いらしゃいますか」

なんて言えませんよ。

探検にここに来たのではないのですから。

とりあえず、テレビアンテナがあるし、

家の状態、

つまり木江の木造の建物にあるような、腐って家が潰れたものはありませんでした。

定期的に、

もしくは、誰か住まわれているものと思います。

時計の針は、

9時40分頃です。

家の横の道を登っていくことにしました。

生野島自然休養村の案内の看板がありましたので、それを目安に

歩いていきます。



途中に何カ所か、レモン畑があり

クリなどが、道ばたに落ちています。



道も

「舗装されているから状態がいいよ!」

と地元の人に聞いていたので、安心していましたが、

軽自動車がなんとか通れる幅です。



しかも、大雨の原因でしょうか?

道が崩れていたり、

樹木が道をふさいでいたりして、

ここは、生活道路なのか?

不安になってきました。

車が通った轍もありません。

私が歩く足跡と、猫?イノシシ?かなにか動物の足跡だけです。

しかも、湿度が異常に高い。

昨日も、この日も晴天ですよ。

お昼頃になると、路面が熱で暖められるのか、

所々、湯気がたちのぼっています。

大崎上島では、神ノ峯など高い山にしかない、シダとかも、道ばたに生い茂り

樹木にキノコなど、群生しており、

明らかに、植生が、違う!

歩いて、30分は経過しているけれど、

誰一人として会っていない。


唯一、安心できるのは、対岸の大崎上島がすぐに見えること

人がいることがわかります。

こんな事態になるとは、想像出来ませでした。


続く
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生野島にいってきました!その3

人と会っていない不安の中、

生野島 福浦港に、到着です。

時間は、10分程度

福浦港の後ろにある建物は、

旧東野町時代の、アワビの養殖場だそうです。

平成9年まで事業をしていたみたいですね。

バブル時代の負の遺産なのかもしれません。



福浦港について驚いたのは、

海の色!

エメラルドグリーンです。



生まれて初めて

本物のエメラルドグリーンの海を見ました。

今までも、近い物はありましたが、

ここの海を見ると、それが嘘だったのがわかりました。




いや、

凄い、

海面を何度も見ましたが、天然の色です。

藻の色ではありません。


こんな近くに、こんな素晴らしい海があったなんて驚きました。



そして、横には、

足利浄圓師の記念碑です。


これは、公報資料に次のように説明がされています。


浄圓師は法悦溢れる理想郷を生野島に求めて「念仏道場・新しき村」づくりにかかり、その土台を築きつつあるとき、太平洋戦争が始まり、そして悲惨な敗戦という未曾有の事態に遭遇。理想郷・新しき村づくりの中止の止むなきに至ったのではないかと思われる。


足利浄圓師の理想に共鳴し、行動を共にした多士済々の方々は、生野島の「念仏道場・新しき村」の実現を夢見て来島したが、予期せぬ戦争・敗戦という情勢の中で翻弄され、理想郷「新しき村」は夢となって消えて行った。



以上一部抜粋


今回、出来れば、足利浄圓師と生野島の開拓の関係、

そして、陶芸家「迦洞無坪氏」と山頭火の関係など、

地元の人にお会いして、是非、聞きたかったです。


奇しくも同姓の方もいらっしゃるようなので、どうしても知りたかったですね。

住民の方も高齢だと推測します。

自分の目で確かめたかったですね。


続く

生野島にいってきました!その2

記憶のしっかりしている暖まっている間に、

生野島のことを書いてしまおうと思います。


生野島に行くには、白水港から

町営フェリー「さざなみ」に乗ることになります。

一日に、7便でているみたいです。

気をつけて欲しいのは、

フェリー乗り場で乗客券は販売していません。

直接、さざさみ に乗るときに、船員さんに手渡しとなります。

今回は、9時20分の便を利用しました。


乗船は私一人

しかも、乗船時間も、

普通だと、定刻より少し前、

たとえば、10分前とかに乗船できますが、

ここは違います。

船員さん 総出で、船の掃除をしていました。



民間のように収益を上げるのが目的ではなく

補足農業構造改善事業として、東野町時代に取り組みされたそうです。



正直 なんのことだか、よくわかりません。

人の運搬よりも、農作物の運搬がメインという解釈でいいのでしょうか?



しかし、贅沢です。

私以外、乗客がいないのですから。



中階段を下りると

吹き抜けの乗客席

瀬戸内海のパノラマ画像が見ることができます。



一階の乗客席



そして、2階の乗客席

本当に、

私一人しかいません。

本当に、人と出会うのか?

不安になります。

続く

生野島にいってきました!

8月7日

東野白水港から、生野島に行ってきました。

今回の帰省の目的は、

お盆前の帰省となってしまったため、

東野住吉祭りの櫂伝馬競漕の練習風景を見るため

旅する櫂伝馬

また、

前々から、行ってみたいと思っていた場所

生野島に訪れること

おおまかだけど、

この2つの目的のため帰省しました。



生野島は、

大崎高校時代の同級生、そして、木江小学校時代に非常勤で担任だった

福本清先生の出身です。

木江小学校時代は、

私が、小学校4年の時に、担任をされたと思います。

今から、実に、40年近い昔の話です。昭和47,48年頃でしょうか。

先生の年齢も当時、何歳だったか知りません。

でも、当時もいい歳だったから、もし生きておられたら、

100歳近い年齢となります。



福本先生との思い出は、

生野島から、石器時代の土器や、石のやりとか、持参していただいて

みせて頂いたことがあります。

「生野島に古墳があるということは、昔は陸続きだったのかもしれない」

など色々な思いを巡らしました。

大崎上島に関する資料について

だから、先生のイメージは考古学を趣味でしている、面白い先生のイメージが強かったです。

また、当時、私は、同級生と殴り合いのケンカをして相手の顔はらしてしまったこともあります。

あまりできのいい生徒ではなかったし、どちらかといえば、迷惑をおかけしたことが多かったと思います。

ただ、先生のイメージは、実直な方

へんに教師教師していない、裏表のない方というイメージは、

小学生だった当時から、持っていました。



そんな、できの悪い生徒である私と、福本先生が、再び遭えるきっかけになったのは、

島の歴史の研究をされており、先生が書かれた本があることを、

インターネットをはじめた、1,999年頃から、検索で目にすることが多かったからです。


福本清

この名前と、先生が同一の人で、どんな本を書かれていたのか?

島の歴史の研究とは、どんなものなのか?

凄く興味があり、「生徒と先生」とは、違った形で、

興味をそそるようになりました。

当時は、三町が合併する前に、

インターネットでOCNのサイトに、

「大崎上島に関するページにようこそ」のHPを開設したばかりでした。

資料集めをするのに、どうしても文献が必要となります。

相互リンクで紹介して頂いている、

大崎上島文献目録|島の図書館―離島文献情報サイト

の素晴らしいデータ整理のお陰で、非常に助けて頂きました。

そんなこともあり

生野島にいってみようと思い立った次第です。


続く


色々と考えた

どうしても、頭の中から山頭火が抜けられなくなってしまった。

偶然にも、家内が山下清作品の展示会だろう


その際に本を購入していたので、彼の半生と作品を読みながら、

YouTubeで彼の動画をさがして、それも見ていた。

種田山頭火と同じく、山下清も、物乞なんだなと思った。

物乞とは「乞食」という意味であるが、彼等は、世捨て人、市井から飛び出した人ということだ。

種田山頭火の本の最後にこうしるされている。

---山頭火の境遇は捨てて捨てて、どこまでも捨てられるか、試すかの生き方であった。

時に、今までも捨てようとしたが、どうしても捨てきれないで、最後に残ったのが、

俳句でなかったか。

彼のみずからの念頭は二つ

一つは、本当の自分の句を作りあげること

もう一つは、ころり往生だと書いている。

これは、正直な気持ちだったに違いない。

ところで、ほんとうの自分の句とは、どんなものだったのか。

彼が拠ったのは、自由律俳句で、

いわゆる有季定型の伝統的なものではなかった。

うたうものの、第一義は うたうことこそ でなければならない。

私は詩として私自身を表現しなければならない。

それこそが、私のつとめであり、同時に私の願いである。



自由律俳句

素材を表現するのは、

言葉であり、その言葉を生かすのは、リズムである。

或る詩人の或る時の、或る場所に於ける

情緒(にほい、いろあひ、ひびき)を伝えるのはリズム

その詩のリズム、彼のリズムのみが、

能くするころである。

日本の詩に於けるリズムについて、考えるべく。----

墨跡の効果でもリズムの整えることが可能だ。

こうして考えると、山頭火の句は、

パソコンで文字で味わうよりも、(文字で追いかけても、魅力は十分ありますが、)

やはり、本などで、筆跡を見ながら味わうほうが、正しことがわかりました。

大崎上島の生野島、木江には、

推定で、昭和10年または11年に訪れているようだが、一体どんな句をその際に残したのか、知りたいものだ。

今では彼の句碑は、あちこちで作られているけれど、

生前の山頭火は、世捨て人に近かった。

彼の句は、句として生きている。


往生際の悪い人、私利私欲にはしる人、粉飾麗句を語る人

人が死ねば無になることを認めたくない人

所詮、人は、身勝手な生き物だ


人間として山頭火はそこにいる


私も、山頭火の句が頭から離れられない状態になったということは、

人間の弱さを弱さと認めることができる歳になってきたのだろう。



しかし、大崎上島と山頭火というテーマ

実に奥が深い

東野地区の文化活動は、うなずけるものが多い。


この場所で魂を必要とするものがあることは、実に有難いことだ。

それこそ、山頭火が求めていたものじゃないだろうか。

山頭火は奥床しい

ネットで、

山頭火『草木塔』を読む

山頭火 from 酒と山頭火

を読んでいます。

山頭火の句の、素晴らしさと出会えてことで、少し真の人間に近づけたか感じがします。

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雨ふるふるさとははだしであるく


まつすぐな道でさみしい


うどん供へて、母よ、わたしもいただきまする


山しづかなれば笠をぬぐ

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句を読んで自分で、理解して、解説を読んで再認識してもいい。

実に、いい精神の鍛錬になります。

日本語の奥深さを感じます。


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