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大望月邸ギャラリー企画展


大望月邸では、2月21日から長屋門ギャラリーで、企画展「足利浄圓(あしかがじょうえん)師と生野島・そして迦洞無坪(かとうむへい)氏」を開催しています。

かつて、生野島に農と法悦の理想郷を求めて入植、先の戦争で挫折するまで、その崇高な理想・理念と実践で多くの人々を引き寄せた僧侶足利浄圓師の人となりと足跡をたどります。

また、俳人の種田山頭火が一度ならず訪れ滞在した「阿伊庵」の陶芸家迦洞無坪氏の作品を写真で紹介しています。

展示期間 平成22年5月9日(日曜日)まで

足利浄圓師と生野島・そして迦洞無坪氏

学徳高き「足利浄圓師」の人なりと足跡について、島内ではあまり知られていない。

浄圓師は法悦溢れる理想郷を生野島に求めて「念仏道場・新しき村」づくりにかかり、その土台を築きつつあるとき、太平洋戦争が始まり、そして悲惨な敗戦という未曾有の事態に遭遇。理想郷・新しき村づくりの中止の止むなきに至ったのではないかと思われる。


また、戦後の国・県の農業振興政策のもとに進められた生野島の開拓事業も将来を勘案した計画ではなく、場当たり的な柑橘類栽培の奨励であったため、全国的な生産過剰と重なり、価格の暴落で将来の生活に見通しが立たず離島者や荒廃園が続出した。

秋には全島色づくミカンの収穫を夢見て、額に汗して開墾植栽した柑橘園地の大半が今では元の山野に戻っている。そして今も残る島の柑橘園は旧態依然とした段々畑であり、高齢化と後継者不足がさらに荒廃園化に拍車をかけているのが現状である。


足利浄圓師の理想に共鳴し、行動を共にした多士済々の方々は、生野島の「念仏道場・新しき村」の実現を夢見て来島したが、予期せぬ戦争・敗戦という情勢の中で翻弄され、理想郷「新しき村」は夢となって消えて行った。


異色のある意味での国宝的陶芸家「迦洞無坪氏」もその一人であった。生野島での無坪氏は住居を「阿伊庵」と称し、土地を耕作しながら作陶生活を送っていた。

その晩年は好んで聖徳太子像をはじめ、観音像・菩薩像など、素焼きの多くの仏像を制作している。当大崎上島の各寺院にも安置されているが、あまり知られていないので、ここに写真を展示している。


○ 島 内・・・正光坊・興昭寺・浄泉寺・圓妙寺
○ 他市町・・・長善寺・徳善寺
○ 他・・・・・当資料館(蔵2 階展示コーナー) 豊町・下梶憲氏


人脈は海を越え、迦洞無坪氏から種田山頭火へ、そして正光坊に更に世界的な版画家「秋山巌氏」につながっていった。



海と島の歴史資料館・大崎上島町教育委員会





以上案内抜粋




実は、生野島には、私は行ったことが一度もない。

実際、一度は訪れてみたいと思っている。

生野島には、同姓の方もおられるし、ネットで偶然ヒットしたのだが、恩師である福本性が今も存在しているみたいである。

まさか、現在も生きられていたら、何歳になるか想像できないが、末裔の方かも知れないがあって話を聞いてみたい。

色々なドラマがある島である。

文化・人間ドラマを考えると、非常に興味のある場所である。

旧東野町の有志の方が文化保存で、尽力されているそうだ。

この島で残念なことは、島という大きな視点でこういった文化遺産に対してアプローチされる方がネットではほとんどいないということだ。

お金のなる木には、自然と人が集まるが、そうでないと我関せずでは、度量が狭いとしか思えない。

どちらにしても、大望月邸が文化灯台として、島の情報発信になっていただければと思う。



大望月邸に関しては、昔のサイトで載せていた記事をあげてみたいと思います。


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『私の日本地図6 瀬戸内海Ⅱ 芸予の海』

以前取りあげさせて頂いた、宮本常一さんが1957年(昭和32年)8月27日(火曜日)に訪問した時のルート
豊島→大長→御手洗→木江→宗方→木江→宮浦→大山祗神社
のことを記述した本を読みました。

http://waqwaq500.blog.shinobi.jp/Entry/7/



同友館から1969年に出版された
『私の日本地図6 瀬戸内海Ⅱ 芸予の海』
に木ノ江、豊島、御手洗、大長、大三島のことが書かれていました。

豊島の内輪話、家船の知識も当然、宮本常一さんは瀬戸内海の津々浦々まで現地取材をされていましたので、認識としてあったと思いますが、彼の着眼点はもっと違うところあったことがわかりました。


木ノ江、めばるに関連して特にオチョロ船の話題が面白かったです。

べっぴんさんと船乗りの愛の物語など、井伏鱒二の小説にも出てきたものと少し違いますが、おそらく よくあるストーリーなのでしょう。


これまでの、小説、逸話、など総括すると、

芸事、芸能、貧困、色街、差別、貴賤、争い

人間世界の縮図が瀬戸内海の島々でも繰り広げられたことが確認できました。


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まとめ

宮本常一さんは、昭和8年3月
倉橋島の同天丸という帆船で兵庫県別府から大分県佐賀関ルートを有村さんという船乗りに同乗させてもらい旅をした。
有村さんは、めばる港の寄港した際、色黒だけど気立てのいいべっぴんさんと恋に落ち一時的に船から下りることを決意した。
結局船にもどりべっぴんさんとわかれることなる
20年後再び寄港した際、恋に落ちたべっぴんさんが、「結婚して幸せに暮らしている。」ことを聞き安堵した。


木之江
三原、尾道、鞆とくらべ、古い豪商の家並みがなく港全体が若々しい気風ある
本土では想像できないだろうが、おちょろ船からおりたべっぴんさんは嫁にすると所帯持ちがいいといわれ、重宝された。


宮本常一さんは、昭和初期から、何度か、昭和25年、32年、49年と取材に来島(木之江)されていたことがわかった。

昭和初期に訪れた際は、活気があり木造船の建造が盛んで槌の音がひびき、何だかムンムンするところであった。
昭和25年にきたときは火が消えたようになっていたが、32年にいったときはまたかなりの活気がもどしていた。

民衆信仰をあつめ、宮島と肩を並べるほど来島者のあった大三島がなぜひなびた島になったのか。


各章の最後に島の将来を憂う言葉が何度もでてきた

・郷土発展のためにそそいだ情熱が今より強かったのではないか。
・時勢の渡にのるべき何らかの方法があるのではないか。
土地の盛衰を時勢の推移に託することなくもっと積極的な対策をたてることもあってもいい。

この本が出版されたのが、昭和44年だから、当時から危機感を感じていたのだろう。

巻頭の最後にこうしるされている

私はかって瀬戸内海振興法を考えてみたことがあった。
本土や四国の沿岸が工業的に開発せられるのなら、その利益の何パーセントかを島の開発のためにまわして島の開発をすすめるというものであった。
しかしこのような考え方をとりあげてくれたり問題にしてくれたりした人は一人もいなかった。
ずいぶん多くの人に話しかけてみたのだが―――――。
目に見える公害防止も大切だが、目に見えぬ公害の保障もされていいのではないかと思う。



民俗学者、旅の鉄人といわれるほど全国くまなく歩き著書の量も膨大で、この島でも「宮本常一」という言葉はよくきくことができる。

しかし、彼の本当に言いたかったことを伝えた人はいたのだろうか?

決してそれは、物質至上主義ではなく対局に位置するものだ。

旅行記を読むつもりで簡単に考えていたが、平成21年後半を迎える今も、彼のメッセージは40年以上前に発行されたこの本から発信され生き続けていた。


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1953(昭和28)年離島振興法制定
宮本常一を中心に学会の有志で結成された島嶼社会研究メンバーが中心となって設立に貢献した。
その後初代全国離島振興協議会事務長に就任した。

羅生門を読んで

子供の学習に青空文庫を利用させて頂いている。

『青空文庫 全』

>DVD-ROMには、青空文庫収録作品のうち、著作権の切れた作家と翻訳家407名の、約6500点

この作品はパソコンとPDAにいれてある。


宿題のお供に羅生門を読み、音声ファイルで確認

そして、黒澤明の映画を鑑賞しました。



映画と小説は若干物語が違いますが、まさに温故知新、日本映画の金字塔です。

極限状態での人間のやりとり

なぜか島の現在を思い出しました。

紫雲丸事故を通しての大崎上島を考える(諸々)

ちょっとしんどいかもしれないが過去に取りあげられた報道内容を時系列に列挙していく。
ニュースソースは中国新聞です。
理想は、1999年以前のデータが電子化されていて、整理できることですが、近畿圏ではそういった環境は無理な話です。

頭の整理をかねて読んでいただければと思います。



日時:
1999/02/16
分類:
行政
見出し:
竹原と大崎上島の関係
内容:
芸南地方の広域行政の中で、地方拠点都市として広域連携を引っ張る呉市に対し、もう一つの核である竹原市の求心力の低下が目立つ。従来の広域の枠組みが崩れ、地域リーダーとしての足元が揺らぎ始めているのだ。

「もともと竹原の広域行政は海で分断され、求心力は小さい」。竹原市を中心に豊田郡安芸津町と東野、木江、大崎の大崎上島三町の一市四町でつくる竹原広域行政組合の竹本進事務局長は地域の特殊性を説明する。

▽施設もダブり気味

区域内の人口は約五万七千二百人。広域連携を模索するなら域内にさまざまな施設は各一つでもいい。それが、し尿処理場は竹原、安芸津、島部にそれぞれ各一、可燃ごみ処理場もそれぞれ竹原、島部に置き、消防署も竹原、安芸津、島部の三カ所に配置する。海に分断されているとはいえ、竹本事務局長が「これほどの施設がある組合は極めてまれ」と語るほどなのだ。

さらに、島部の大崎上島三町は補助金などのメリットが多い離島振興対策事業と、広域事業とを使い分け、三町独自の広域圏の色合いを強める。最近では、島内に商業施設が整備され、買い物面でも以前より竹原に頼らなくてもよくなっている。

竹原市と接する陸地部の安芸津町でも変化が起きている。広島大の移転、新幹線駅の開業などで拠点性を高める東広島市とつながる県道安芸津下三永線を昨年整備。竹原市よりも東広島市との関係に重点を置き、ベッドタウンとして団地の開発計画も進めている。

同町の山脇弘史助役は「従来の広域の枠から言えば、本来は竹原市を中心に考えるべきだか、竹原広域は人口の減少と過疎化、経済的低迷などに悩む。小さな町にとっては寄らば大樹で東広島に向かうしかない」と話す。

▽介護保険でも乱れ

今年十月に申請が始まる介護保険の要介護認定業務でも同様の事態が起きている。広域内では大崎上島三町だけが共同で実施し、竹原市、安芸津町ともバラバラに行う。

医者が少なく、竹原市に多くの患者が通院する周辺町は本来、竹原市と協力して事業を進めることが最も効率がいい。竹本事務局長は「高齢化が進むこの地域では将来的に協力しないとやっていけない可能性が高い。だが、竹原市から話が出ずに実現しなかった」と残念がる。竹原市は「時間的な問題と、スタートの時点で一緒にやろうという声がなかったので独自路線を選んだ」と言う。

▽架橋構想に温度差

また、本土と大崎上島を結ぶ大崎上島架橋構想の実現にも竹原市の行動がカギを握る。広域事業として竹原市と大崎上島三町が実施しているバス路線は、竹原港とJR竹原駅を結ぶわずか約二・一キロの短い路線だが三年前から黒字化。島と竹原の結び付きの強さを表した。「島民にとって本土と陸続きになる橋の建設は悲願。だが、われわれ島民の思いに比べて竹原市の動きは鈍い」と大崎町の高田幸典総務課長はやるせない思いを打ち明ける。

都市基盤整備の遅れが目立ち、経済的にも低迷している竹原市。広域内部での求心力の回復のためにもう一歩踏み込んだ「行動力」が求められている。
写真:




日時:
1999/10/10
分類:
交通
見出し:
「オレンジライン」が開通して
内容:
芸予諸島の広島県豊田郡大崎下島と愛媛県越智郡岡村島を、県境を越えて2つの無人島と3本の橋で結ぶ広域農道「オレンジライン」が全通して6日で1年を迎えた。橋はミカン農家の作業の軽減など島民の生活に大きな変化をもたらしている。県境という見えない壁はまだ高いが、行政の壁を越えた人と人との交流は着実に始まっている。(川井直哉)

「橋がこんなにええもんとは思わんかった」。つながった無人島の一つ、中ノ島で農作業に追われる大崎下島、豊町大長のミカン農家越智道昭さん(62)はうれしそうな顔で橋を眺める。

▽弁当いらず

それまで畑への交通手段は農耕船と呼ばれる船しかなかった。その船は橋の開通でトラックに。畑から家まで車で五分、農作業に弁当がいらなくなった。狭い船内でのミカンの積み下ろし作業からも解放された。「これであと十年、農業をやる気になった」。越智さんのほおは緩む。

JA広島ゆたかでは「岡村島の耕作地の約三分の一は豊の出作地といわれ、橋の開通が高齢化の進む農家のやる気を起こさせた」と話す。

橋を通しての交流も進んできた。岡村島にある愛媛県関前村の農業村上隆人さん(72)は昨年七月、歯が痛くなり豊町の歯医者に駆け込んだ。「村には歯医者がおらず、今治市まで行ってたら時間がかかる。橋の心強さを感じた」と話す。

また、村職員の村上正人さん(31)は、趣味のバドミントンを通して豊町のチームと交流、友人もできた。家族で食事に出かけることもできるようになった。

人口約千人の関前村からみれば人口約三千二百人の豊町はにぎやか。医療や買い物に訪れる人も多い。また、夏には、海水浴場のない豊町から関前村の海水浴場に多くの人が訪れ、人の行き来が増えている。

▽介護も支援

来年四月から始まる介護保険でも橋は大きな役割を期待されている。関前村は、人口に占める六十五歳以上の割合を示す高齢化率は四六%で全国三番目。人口が少なくヘルパーなど自前で用意するのが難しい。地理的にも愛媛県から離れているため、「ヘルパーが来てくれるのか」と不安が襲う。

そんな時、助け舟を出したのは橋でつながった隣の島だった。「命がかかわることに県の違いを言うとられん」。豊町と先に豊浜大橋でつながった豊田郡豊浜町の社会福祉協議会が、関前村の社協と連係を開始した。豊町と豊浜町が新たに設置した特別養護老人ホームの「豊寿園」で関前村の住民のショートステイを受け付け始めた。

とはいえ、目に見えない県境の壁はまだ厚い。例えば豊町と豊浜町が、呉市消防局に委託して十月からスタートした初の常備消防。豊浜町に呉市東消防署大崎下島出張所を置き、職員十八人が三交代で対応。救急艇、消防ポンプ車、救急車などを配備し、高齢化が進む両町の消防・救急業務の拠点として早くもフル稼働している。この常備消防設置に当たって、豊、豊浜両町は「陸続きになった関前村も誘ったが、いい返事を得られなかった」(長本憲豊町町長)という。

県の違う関前村は既に愛媛県の組織に加入し、新たな分担金は負担が大きすぎた。関前村の井村旦助役は「島に常備の救急艇もなく、本音を言えば一緒にやりたかった。しかし、財政を考えれば手が出なかった」と唇をかむ。

▽離島脱却へ

今年三月、島民の夢だった本土へと続く最後の橋、豊島と上蒲刈島を結ぶ安芸灘三号橋の実施設計費がついた。三号橋が完成すれば、オレンジライン―豊浜大橋―安芸灘三号橋―蒲刈大橋―安芸灘大橋と結んで岡村島を含む五つの有人島が本土と直接結ばれる。

「三号橋の実施設計決定以来、島民の顔に自信があふれ、島が明るくなったようだ」と北山峯生豊浜町長。オレンジライン開通から一年。離島脱却の夢はさらに大きくなり、実現に近づいている。県は違っても、助け合って生きてきた島の人の心の豊かさは健在。橋は、物理的なつながりだけでなく、人の心と心のきずなをも着実につないでいる。

《オレンジライン》広域農道として建設され大崎下島と岡村島を、無人島の中ノ島、平羅島を経てアーチ形の岡村大橋(二百二十八メートル)、中の瀬戸大橋(二百五十一メートル)、斜張橋の平羅橋(九十九メートル)で結ぶ。総延長千七百八十メートル。一九九二年に着工した。建設費は約六十四億八千万円。

芸予諸島と本土を八本の橋で結ぶ広島県の安芸灘架橋構想の一環。同構想は来年一月には同県安芸郡下蒲刈島と本土をつなぐ最長橋の安芸灘大橋が完成し、都合六本が実現する。豊島と上蒲刈島を結ぶ安芸灘三号橋は、現在、実施設計中。来年度から用地買収に入るが、着工、完成時期は未定。残る大崎上島と岡村島間の八号橋は構想段階。
写真:




日時:
2000/02/15
分類:
交通
見出し:
大崎上島架橋 期成同盟会を設立
内容:
竹原市と豊田郡の大崎上島を結ぶ大崎上島架橋の早期実現に官民挙げて取り組む「大崎上島架橋促進期成同盟会」が十四日、同市内のホテルで設立された。竹原市と同郡安芸津、東野、大崎、木江町の一市四町から各首長、議長、商工会議所・商工会の代表らが参加。会長には中尾義孝市長を選んだ。

大崎上島架橋については、九四年に竹原市を中心に一市四町の首長と議長で大崎上島架橋構想促進協議会を設立。三年間かけて架橋ルートの調査をするなど活動を行ってきた。

しかし、いまだに芸南地方の八島を橋でつなぐ県の「安芸灘架橋構想」の九号橋として認められておらず、県の交通総合計画の中で、二〇二八年を目標年次に位置付けるにとどまっている。昨年二月に竹原商工会議所(平健一郎会頭)が、大崎上島架橋促進特別委員会を立ち上げるなど、民間での機運が高まってきたため、官民が一体となった組織を新たに結成した。

大崎上島架橋は、大崎上島から竹原市の阿波島を通って本土につながるルートが構想され、総工費は約千八百億円と見込まれている。期成同盟会は新年度から国や県などに早期実現を働きかけていく。

◎大崎上島架橋へ期成同盟会 来月にも設立(広島県)

豊田郡の大崎上島と本土を結ぶ架橋の実現を目的に、竹原市や同郡安芸津、東野、木江、大崎町の一市四町でつくる大崎上島架橋構想促進協議会は五日、広島市中区で総会を開き、各町商工会など民間と協力して十一月中にも大崎上島架橋促進期成同盟会を新たに立ち上げることを決める。

これまで同促進協議会は、県中部島地域架橋促進期成同盟会の下部組織として陳情などを行ってきた。県内で一万人以上住む島で本土と橋でつながっていないのは、大崎上島だけで、現在も「大崎上島架橋」は構想段階にとどまっていることから、民間の活力も加えてより活発な運動を展開するために設立する。

既に竹原商工会議所は今年二月に、大崎上島架橋促進特別委員会を設置するなど、民間レベルでの建設促進への体制づくりは進んでいる。竹原市は「まずは大崎上島と本土間の橋を県に安芸灘架橋の九号橋として認めてもらい、調査費がつくように頑張りたい」と話している。
写真:



日時:
2000/05/23
分類:
行政
見出し:
「大崎上島架橋促進期成同盟会」開催
内容:
竹原市と豊田郡の大崎上島を結ぶ架橋の早期実現に官民が一体となって取り組む「大崎上島架橋促進期成同盟会」(会長・中尾義孝竹原市長)の総会が二十二日、同市中央五丁目の竹原商工会議所であった。

中尾会長は「約二千億円の事業費が見込まれるが、地域活性化や中四国地方の交流を図る橋として実現を目指したい」とあいさつ。芸南地方の八島を橋でつなぐ県の安芸灘架橋構想の九号橋としてまだ認められていない「大崎上島架橋」の具体化を求める要望書を採択し、六月から七月初旬までに県庁を訪れて要望活動をすることを決めた。

この日は、広島大学学校教育学部の地井昭夫教授による架橋と地域づくりをテーマにした講演会もあった。

地元経済界でも架橋建設に向けての機運が高まってきたため、同盟会は今年二月、設立された。竹原市と同郡安芸津、東野、大崎、木江町の一市四町の首長、議長、商工会議所・商工会の代表らが参加している。
写真:



日時:
2000/05/24
分類:
交通
見出し:
広島県大崎上島で架橋の夢膨らむ
内容:
しまなみ海道や安芸灘大橋の開通など、瀬戸内海の島々が次々と 本土と橋で陸続きになる中、豊田郡大崎上島でも本土架橋建設への 期待が高まっている。過疎と高齢化が進んで十年後や二十年後の島 での生活に不安を覚える島民と、地域活性化の起爆剤として架橋を 熱望する本土側の竹原市が、官民一体で「夢の懸け橋」の実現に向 け、動き始めた。(川井直哉)

大崎上島には、豊田郡東野、木江、大崎の三町がある。約四キロ 離れた竹原港とフェリーで三十分、高速船だと十分で結ばれてい る。

しかし、竹原発の最終便は午後九時半。年に何度かは天候不順の ため欠航する不便も強いられている。船にだれが乗ったかが分かる ため、プライバシーにこだわる若者にとっては、「関所」にもなっ ている。

■65歳以上3~4割

かつて造船とミカンで栄え、ピーク時には三町で約二万三千人い た人口も現在は約一万一千人と半減。六十五歳以上人口の割合は三 割から四割と高く、将来の生活に不安を感じる島民も多い。

本土架橋の建設に向けて本格的な取り組みが始まったのは一九九 四年。

芸南地方の八島を橋でつなぐ県の「安芸灘架橋構想」によると、 大崎上島は愛媛県岡村島と「八号橋」で結ばれ、豊田郡川尻町と地 続きになる構想に組み込まれている。しかし、橋がつながっても川 尻町まで車で一時間かかるほか、生活圏も違う。九四年、竹原市と 豊田郡安芸津町、大崎上島三町の首長と議長で「大崎上島架橋構想 促進協議会」を設立し、島北端の東野町鮴崎(めばるざき)から佐 組島と唐島、阿波島を経由して竹原市にいたる全長約六千二百メー トルのルートを選定。国や県に陳情してきた。

しかし一方で、建設費が約千八百億円と見込まれたことから、 「現実味が薄い」として活動がトーンダウン。そんな状況が一変し たのは、昨年二月、竹原商工会議所がこれまでの行政主体だった活 動から、民間主導の官民一体活動を目指し「大崎上島架橋広域交通 促進特別委員会」を立ち上げてからだ。

■7月初旬には要望

それまでの架橋構想促進協議会が一市四町の首長と議会だけだっ たのに対し、それぞれの商工会や呉市にも呼び掛けて今年二月、官 民一体の「大崎上島架橋促進期成同盟会」(会長・中尾義孝竹原市 長)を発足させた。今月二十二日の総会で中尾会長は、「官民合わ せた活動で、まずは安芸灘架橋構想の九号橋として県に認めさせた い」と語った。七月初旬までに県へ要望する。

橋がもたらす島民や周辺地域への影響は、経済効果だけでは計れ ない。約十年後に安芸灘架橋の三号橋で地続きになる豊田郡豊浜町 では昨年、橋ができることが決まっただけで町民の顔が明るくなっ た。木江町の徳森和範総務課長は、「九号橋をつくって、島をルー プ状につなぐことが、全ての橋のメリットをいかすことになる」と 熱っぽく語る。
写真:



日時:
2000/05/24
分類:
交通
見出し:
架橋の夢膨らむ 竹原・地域活性化の起爆剤 大崎上島・高齢化の不安解消へ 民間主導で弾み
内容:
しまなみ海道や安芸灘大橋の開通など、瀬戸内海の島々が次々と本土と橋で地続きになる中、豊田郡大崎上島でも本土架橋建設への期待が高まっている。過疎と高齢化が進んで十年後や二十年後の島での生活に不安を覚える島民と、地域活性化の起爆剤として架橋を熱望する本土側の竹原市が、官民一体で「夢の懸け橋」の実現に向け、動き始めた。

大崎上島には、豊田郡東野、木江、大崎の三町がある。約四キロ離れた竹原港とフェリーで三十分、高速船だと十分で結ばれている。

しかし、竹原発の最終便は午後九時半。年に何度かは天候不順のため欠航する不便も強いられている。船にだれが乗ったかが分かるため、プライバシーにこだわる若者にとっては、「関所」にもなっている。

▽65歳以上3―4割

かつて造船とミカンで栄え、ピーク時には三町で約二万三千人いた人口も現在は約一万一千人と半減。六十五歳以上人口の割合は三割から四割と高く、将来に不安を感じる島民も多い。

本土架橋の建設に向けて本格的な取り組みが始まったのは一九九四年。

芸南地方の八島を橋でつなぐ県の「安芸灘架橋構想」によると、大崎上島は愛媛県岡村島と「八号橋」で結ばれ、豊田郡川尻町と地続きになる構想に組み込まれている。しかし、橋がつながっても川尻町まで車で一時間かかるほか、生活圏も違う。九四年、竹原市と豊田郡安芸津町、大崎上島三町の首長と議長で「大崎上島架橋構想促進協議会」を設立し、島北端の東野町鮴崎(めばるざき)から佐組島と唐島、阿波島を経由して竹原市にいたる全長約六千二百メートルのルートを選定。国や県に陳情してきた。

しかし一方で、建設費が約千八百億円と見込まれたことから、「現実味が薄い」として活動がトーンダウン。そんな状況が一変したのは、昨年二月、竹原商工会議所が行政主体だった活動から、民間主導の官民一体活動を目指し「大崎上島架橋広域交通促進特別委員会」を立ち上げてからだ。

▽7月初旬には要望

それまでの架橋構想促進協議会が一市四町の首長と議会だけだったのに対し、それぞれの商工会や呉市にも呼び掛けて今年二月、官民一体の「大崎上島架橋促進期成同盟会」(会長・中尾義孝竹原市長)を発足させた。今月二十二日の総会で中尾会長は、「官民合わせた活動で、まずは安芸灘架橋構想の九号橋として県に認めさせたい」と語った。七月初旬までに県へ要望する。

橋がもたらす島民や周辺地域への影響は、経済効果だけでは計れない。約十年後に安芸灘架橋の三号橋で地続きになる豊田郡豊浜町では昨年、橋ができることが決まっただけで町民の顔が明るくなった。木江町の徳森和範総務課長は、「九号橋をつくって、島をループ状につなぐことが、すべての橋のメリットをいかすことになる」と熱っぽく語る。
写真:




日時:
2000/10/06
分類:
行政
見出し:
「なぜ今、三町だけでの合併なのか」その背景
内容:
瀬戸内海の中央に位置する大崎上島の豊田郡の東野町、木江町、大崎町の三町が二〇〇三年春を目標に合併に向けて動き始めた。今年八月には、東野町に大崎上島合併問題対策室が発足。事務レベルでの準備が始まっている。「なぜ今、三町だけでの合併なのか」。背景には、厳しさを増す町財政、過疎・高齢化があり、「島への関心が薄い本土と合併するよりも島だけでやっていきたい」との島の思いが見え隠れする。(川井直哉)

先月十三日、豊田郡豊町であったJA大崎上島、JA木江町、JA広島ゆたかの合併の予備契約調印式に出席した大崎町の長岡昇町長はあいさつの中で、「次は三町の合併調印式に臨みたい」と、意気込みを語り、参加者から盛んな拍手を浴びた。

前日には、県広域行政検討委員会が、県内の市町村の合併パターンを発表。三町については、竹原市と豊田郡安芸津町との合併案のほか、島だけの合併案が示され、合併への関心はいや応なしに高まっていた。

三町では、これまでも何度となく合併話が出た。しかし、合併しても市に昇格するほど人口がおらず、島のほぼ中央にある神峰山で地形的に区切られている三町は、「合併は必要だが、まだ単独でもやれる」と、それぞれ独自の町づくりを進めていた。

そんな町の合併が現実味を帯びてきたのは、国や県の財政悪化と止まらない過疎と高齢化が背景にある。

大崎上島は、古くから造船業とミカンづくりで栄え、一時は国内の小中型鉄鋼船建造量の三割を生産し、活気にあふれていた。

▽特効薬なく人口減

しかし、産業構造の転換や離島という地理的ハンディもあり、特効薬のないまま人口は減少。一九四七年に約二万四千人いた人口は、現在、約一万人に減少し、三人に一人が六十五歳以上。十年後の将来人口の予測でも過疎と高齢化は止まらず、約七千人に減少。十人に四人が六十五歳以上という超高齢化社会に突入する。

財政面でも、既に自治省は九八年から人口四千人未満の町村への地方交付税の配分を段階的に縮小。自主財源が一割程度の島にとって、収入の大きな割合を占める交付金の減少は直接、住民生活に影響し、現在のサービスレベルの維持ができない不安も出てきた。

▽「10年は予算確保」

一方、国は市町村の合併を促進するため、地方交付税の保障期間を五年から十年に延長するなど新たな優遇策を盛り込んだ市町村合併特例法を昨年七月に改正。「法律の効力が切れる二〇〇四年度末までに合併すれば、十年間は予算が確保でき、島民の生活が維持できる」と、三町が合併に一気に傾いた。

木江町の藤原正孝町長は、「十年間あれば、合併後の職員削減など、ゆっくりと問題解決ができ、町民への影響や負担も少なくてすむ」とメリットを語る。

島の三町は、古くから交流が深く、竹原広域行政組合の中でも三町で島に、消防やゴミ処理場などを共同で設置し運営している。九七年度には県の中山間地域対策モデル地域に指定され、大崎町に老人ホームを三町で建設したほか、木江町に観光物産館を計画するなど共同の事業を進めている。介護保険でも認定作業を三町で実施するなど、合併へ向けての下地が作られてきた。

▽来月に研究協発足

島だけが先行して合併することについて東野町の浜田紀幸町長は、本土住民の島への関心の薄さを指摘する。「われわれは、本土に行く時、必ず竹原を通るが、竹原の市民は島を訪れたことがない人がほとんど。このままの状態で、本土と合併すれば、島の意見は通らず、ますます寂れる」と訴える。

来月には、三町の町長、議員、町民代表の二十七人で構成する任意の大崎上島三町合併研究協議会(仮称)が発足し、住民を交えた話し合いが始まる。「あと十年は島だけでやっていきたい」。二十一世紀に、島のアイデンティティーを残すため、三町は利害を超えて合併へ向けて動き出した。
写真:



日時:
2005/02/00
分類:
行政
見出し:
合併してもいい事はないのぉ
内容:
自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版26号(2005年2月発行)

大崎上島町の合併の現状
合併してもいい事はないのぉ
広島県大崎上島町議会議員 松本 進
はじめに

2003年4月1日に大崎上島にあった3つの町、大崎町、東野町、木江町が対等合併しました。新町名は、大崎上島町で人口約1万人、世帯4600、面積43K㎡の島の町です。もう半年を迎えますが、まだ新町の機能がうまく行っていない現状です。検証が、まだ十分でなく丁寧な報告できませんが、県内でもいち早く合併をした町であり、現状と問題点などを報告します。

「合併してもいい事はないのぉ」

この言葉は、最近住民から時々聞く言葉です。町民から見れば、この間合併の話が起こり、実施になるまで、合併は仕方がない。合併してもあまり関係ない。無関心。これが多かったです。
少子・高齢化が進んでおり高齢化率は35%。私のいる旧木江町は43%で2人に1人が65歳以上で50代はまだ若者といった感じです。いいことは無いと言われるのは、

(1)最近行われた敬老会が、これまでは町内2カ所で行われていたものが、1カ所にされた。そして皆に出ていた祝い金がなくなった。
(2)役場のどこへ要望や苦情などをいったらいいか分かりにくい。
(3)いいことが見当たらない。
(4)役場が動かない、仕事が減った。組織機構が悪い。
(5)「負担は安い方に」といっていたが、健康診断の料金が高くなった、旧木江町にあった出産や入学時の祝い金がなくなった。

等々、町民からの素直な声です。

同じ島内でも3町で制度や仕組みが違っていた。条例、規則など2町以上で実施していたものは継続、一町でしていたものは大方廃止や見直し。そのもとで地域固有の良いもの、住民要望や、過去の経緯で制度化されたものがなくされていった。行政の根本狙いが、経費の削減、効率化にあり、面倒なことは後回しになったと思います。スケールメリットといっていたが目に見えるメリットはなく、県から買っている用水の契約見直しで、一世帯水道の基本料が100円安くなったぐらいです。

合併問題研究会、そして法定合併協議会が作られ合併が実現化するまで丸2年間。強引にお膳立てされ、十分な議論、意見集約もなく突き進んできたことは否めません。当時の会長(町長)はまず、合併時期を早め、県内トップクラスで行きたいと意欲を誇示していました。その強引さ、性急さ、そのようなツケが現在に回ってきているといえます(一応は、合併協で図り、決定してきたといい訳はするが)。

新町建設計画、予算

合併に伴い新町の建設計画を作るようになっています。町村の長期総合計画のようなものです。町建設の基本方針、10年間のハード、ソフトの事業、財政計画などです。町民アンケートで要望を聞きそれを基にしていますが、これまで作成されていた、過疎地活性化計画や離島振興計画事業に示されていた大型事業などを踏襲しています。

アンケートは、2001年10月に島内の18歳以上約9000人を対象に行われました。答えたのは4700余人で回収率は52.8%でした。島内では、初めての大がかりな住民の声の集約であったと思われます。この結果は、今後の町の運営に私たちの政策にも反映させたいと思います。聞いた要望の柱の一つに「安心して暮らせる、医療と福祉のまち」があり、これを選んだ人が3600人とダントツで1位でした。その他合併後の施策要望には、(1)診療所の整備(2400人)、(2)船・交通の整備、(3)本土との橋(2000人)と続いていました。
日頃、議会の中で福祉の充実を追求すると、町長は「福祉は金がかかる。財政の許す範囲内でする」と答弁しています。これまでしなかったものを、合併したらしますとはとはならないでしょう。しかし、町民からは、生活の中からの声として前記のような強い希望があるわけです。
財政計画の裏づけなどは議員もよく分かっていません。概要も公表していませんし、分かる人はほとんどいない中で決まった状態となっています。10年間は国の交付金額旧3町分を保障するといっていましたが、既に小規模自治体は毎年金額が削減されてきています。
合併協議会で提出された財政計画の推計を見ると、2001年度3町の一般会計の予算規模は94億円。合併初年度の03年度は、84億円。10年先の12年度は、62億円。その後5年間で毎年交付金額を逓減させていきます。合併10年間の普通会計総事業費は、243億となっていますが、今でも起債は、過疎債を使いますが、合併特例債を使わなくても同様な条件で事業はできる仕組みです。
ただ、起債は、言うまでもなく町の借金であり、先で返さなければなりません。長い時間と労力をかけ町民に約束した建設計画ですが、議員の中には、計画が始まる前から、既に事業の見直しや廃止の声を出している人がいます。見直しがなくても良いとは言いませんが、合併間無しにこんなことがボンボン発言に出ることに、何のための合併だったのかと憤りを感じます。私たちは、せめて、住民要望や、福祉や、暮らしを守るように監視や、提言をし続けねばと強く思います。
写真:

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大崎上島架橋促進期成同盟の会長であった中尾義孝元市長は昨年お亡くなりになりました。

また地元選出の池田 行彦さんも2004年に亡くなられています。
また姪にあたる、寺田稔さんも今回の衆議院選挙で落選。

ここにきて権力の構造が完全に逆転しました。

理解者であった地元選出の有力者と縁がきれた訳です。



大崎上島町の選挙結果を見ると

投票結果 当日の有権者数 7,416人(男3,334人 女4,082人)
     投票者数    5,828人(男2,652人 女3,176人)
     投票率     78.59%(男79.54% 女77.80%)
     有効投票数5,747人 無効投票者数80人
*有権者数・投票者数には在外投票者を含む
開票結果(得票順)
     てらだ 稔  3,395票
     三谷 光男  2,314票
     塚本よしてる   39票

8月30日に行われた衆議院比例代表選出議員選挙(中国選挙区)の大崎上島町開票区の結果をお知らせします。
投票結果 当日の有権者数 7,416人(男3,334人 女4,082人)
     投票者数    5,828人(男2,652人 女3,176人)
     投票率     78.59%(男79.54% 女77.80%)
     有効投票数5,592人 無効投票者数236人

となっています。


与党でなければ予算執行権などありません。
中央からも完全に分離した状態となりました。

地方行政の流れをおさらいすると、
官から民への小さな政府の樹立
中央集権から地方市民主体の地方分権の確立
また市場競争原理の一部導入でした。

ただ、当然段階がありますので、地方自治体を司る住民から依託された人には、
地域特性の分析(メリット・デメリットの把握)
問題提起能力を含め交渉能力が含蓄された人でなければ地域社会は維持管理できません。

医療問題と同様に交通問題解決は、住民の非常に切実な願いであり優先順位の高い案件であるにもかかわらず、住民主権不在の金太郎アメ的手法でリスク回避を繰り返していては、だれの主権の島なのかわからなくなります。

交通問題を含め諸問題を住民に喚起することは、実は地域社会が活性化する一番の近道なのです。



紫雲丸事故を通しての大崎上島を考える

本四架橋ができるまでの経緯(事故)をまとめてみた。


せきれい丸沈没事故
1945年12月9日の明石海峡は台風並の突風が吹き荒れていた。当時は、船舶の運航権限は全て船長に任されていて、播淡連絡船せきれい丸の船長も欠航の予定であった。しかし、淡路島から対岸の明石市や京阪神方面の闇市に買い出しに行く人や、生鮮品の行商人にせがまれて岩屋港を出航し、対岸の明石港に向かったものの、9:00頃、松帆崎2Km沖合で突風に吹かれて転覆沈没した。付近で操業中の漁船が45人を救助したが死者・行方不明304名を出す惨事になった。

時代は戦後の混乱期であり、戦前の古い船舶に定員以上の乗客を乗せるのが当たり前のように行われていた背景がある。


紫雲丸事故
1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、上り第8便で運航中、同じ宇高連絡船・下り153便大型貨車運航船「第三宇高丸」と衝突して沈没。最大の被害を出した事故であり、国鉄戦後五大事故の1つでもある。「紫雲丸事故」といった場合はこの事故を指すことが多い。修学旅行中の広島県豊田郡木江町立南小学校(現・豊田郡大崎上島町立木江小学校)の児童などを中心に死者168名を出した。



犠牲者

この事故での犠牲者は168名に上り、うち児童生徒の犠牲者は100名を数えた。 犠牲者の内訳は次のとおりである。



紫雲丸関係者 2人(船長他1人)
一般乗客 58人
修学旅行関係者 108人 〔児童生徒100人(男子19、女子81) 引率教員5人 関係者(父母)3人〕
愛媛県三芳町立庄内小学校:30人(生徒77人中29人、PTA会長1人)
高知県高知市立南海中学校:28人(3年生117人中28人)
広島県木江町立南小学校:25人(6年生97人中22人、引率教員3人)
島根県松江市立川津小学校:25人(6年生58人中21人、引率教員5人中2人、父母3人中2人)



第五北川丸沈没事故
1957年(昭和32年)4月12日は穏やかな天気であり、「西の日光」といわれる生口島(当時:広島県豊田郡瀬戸田町、現在:広島県尾道市瀬戸田町)・耕三寺には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていた。午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第5北川丸(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名)が出航した。この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていた。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船であり、乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていた。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまった。付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事になった。

海難審判(1959年3月26日・言渡)では操船を未熟かつ資格のない甲板員見習にまかせた船長の職務上の過失に加え、老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど運航会社による運航管理が不適当であったとして責任があるとされた。


事故の後、海上保安部による停船勧告基準が厳しくなり、宇高連絡船は一切人身事故を起こすことはなかった。しかし、初夏から梅雨にかけての濃霧でたびたび停船勧告が出されるようになったことが輸送上の障害となったため、瀬戸大橋の建設機運が高まることになった。これは、本州四国連絡橋の3計画ルートのうち、児島・坂出ルートが最初に建設されることにもつながっている。


先の事故を契機に各ルート沿線自治体で架橋推進協議会が発足し、架橋誘致運動が活発化。架橋協力預金制度や、「歌」「架橋音頭」まで作られた。なお、1954年の洞爺丸事故を含めて被害者救済が国会で問題になり、船客傷害賠償責任保険が整備され、今日に至る。


********************


2004/05/11 【共同通信】
紫雲丸事故の同期生ら 沈没現場で花ささげる
 旧宇高連絡船・紫雲丸の衝突沈没事故犠牲者の50回忌に当たる11日、乗船して助かった高知市立南海中学の同期生や遺族ら約90人が事故から約半世紀ぶりに沈没現場海域を訪れた。  現場で停止した船から一人一人が海に向かって花束を投げ、手を合わせて犠牲となった生徒の冥福を祈った。  親友を事故で亡くした無職若松幸三郎さん(63)=高知市=は「(事故当時は)地獄のような光景だった。元気な姿を親友に見せることができたと思う」と話した。  同期生のうち約40人は事故で中断した修学旅行に出発。犠牲者の遺影とともに、京都へと向かった。  現場訪問に先立ち、高松市の西方寺で開かれた追悼行事には、犠牲者を出した松江市西川津町の川津小学校から卒業生5人が参加。広島県大崎上島町の木江小学校でも、同期生や遺族ら約70人が追悼法要を営んだ。

********************



本四架橋実現に、これら海運事故が要因となったのは有名な話である。
また、大崎上島では、事故にあった遺族の方の深い悲しみと伴に、引率で同伴し難を逃れた先生達に浴びせれた非難は凄かったと聞いている。


事故から50年近くが経過し、改めて、この事故の持つ意味を多方面で考えなければいけない。

25人の犠牲者がでた、今では離島となった大崎上島は、特に考えなければいけない。

政争、利益誘導の道具ではないのだ。

人道的見地からみて矛盾がある。

本四架橋ができるきっかけとなった要因となった大崎上島には、未だ橋が架かっていない。

今回の写真も、毎日新聞、本四公団に記載されているものである。


もっとも橋と遠い場所になってしまった大崎上島

時代の波に主体性を持つことなく翻弄され続けているこの島を反映している。


交通問題にリンクして諸々を次の号で列挙していく。


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参考サイト

JB本四高速:会社・IR情報:沿革

広報誌 【No.89(2003年11月発行)】


紫雲丸の悲劇は終っていない

宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか (単行本)

宮本常一 

宮本常一は、日本を代表する民俗学者の一人である。

生前、彼は、全国津々浦々を日本の原風景を写真で撮影している。

宮本常一データベースの中にも掲載されていない写真を見つけた。

写真・日記集成 上巻 毎日新聞社

昭和32年に撮影となっているが、このブログで紹介した、消えたオチョロ船  井伏鱒二も、ほぼ前後して来町している。

これは偶然なのだろうか?

1957年(昭和32年)8月27日(火曜日)ルートは、 豊島→大長→御手洗→木江→宗方→木江→宮浦→大山祗神社 となっている。

撮影した場所を考えると、中央区~栄通~港区を歩いて撮っていったのだろう。
翌日は大三島に滞在となっているため、限られた時間で慌ただしく撮影に集中したに違いない。



木造建築としては、5階建てのユニークな建物。
当然、重量がかかるので、基礎部分での加重は大変なものがあるだろう。
写真をみると、傾いているように見える。いや、撮影当時は傾いていた。
平地の少ない瀬戸内海の町は、坪効率を高めるため、こういう作りとなった。
また、本書では、間違って四階建てとなっている。




これは、おそらく港区辺りだろう。
酒屋の手前に靴の看板が見える。
また、車に甲姫(かぶとひめ)の文字が見える。
これは、今は亡き高田酒造のブランドである。
一方、瓦には、金泉と看板がある。
これは、安芸津町にある堀本酒造の金泉(Kinsen)なのだろうか。

高田酒造に関しては、島唯一の酒屋であり、水は地下水を利用していたが、塩分が若干入るのか、辛口の酒として知られていたそうだ。

煙突も無残に壊れて今では更地になり当時を忍ばせるものは何もなくなったが、これも時代の流れなのだろう。





また、宮本常一がチョロ船を撮影していたことは大変興味深いことだろう。
表記では、チョロ船となっていたが、オチョロ船と、チョロ船はその目的が違う。

ふれあい郷土資料館にあるオチョロ船の形がほぼ同じということで、撮影した船を浮かべている場所からしても、オチョロ船と断定してもいいのではないか。

となると、この撮影した8月27日の来島の目的のほとんどは、昭和31年に施行された売春防止法後の視察なのかもしれない。

御手洗、木江と遊郭で有名だった場所なのだから、偶然ではないだろう。


追加

昭和49年にもう一度木江の栄通りにある木造船の建築現場を撮影した写真がある。
いずれにしても、短時間の滞在であり、彼にとって特筆すべき発見はなかったのだろう。
また、常識的に考えて、こういった滞在方法だと満足いく取材など不可能だと思う。
2回の大崎上島の来島といっても、木江町だけの短時間の滞在であり島全島をくまなく見れる時間はない。
民俗学者として有名な方で、島の歴史を語る場合、固有名詞が話題に出てくるケースが多く見られるが、大崎上島との関係はきわめて薄いと思わざるえない。




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