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お隣の御手洗の話題、坂本龍馬と近代国家


坂本龍馬がブームなので、

それに関連する話題

御手洗関連の話題を集めました。




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中国新聞   '10/9/20

豊町と竜馬のつながりに脚光


戸期の潮待ち港として栄えた呉市豊町御手洗地区などと、幕末の志士坂本竜馬のつながりを示すわずかな史料が注目を集めている。船で瀬戸内海を行き来した志士たちが頻繁に立ち寄った御手洗地区。NHK大河ドラマによるブームが後押しし、竜馬の足跡を追う観光客も増えている。

 竜馬と豊町をつなぐ史料は主に2点。一つは鳥取藩士、河田佐久馬の手記「河田佐久馬備行ミちの記」(山口県文書館所蔵)で、1867(慶応3)年4月、御手洗に入港した河田が、いろは丸事件直後の竜馬に偶然出会い談笑したと記す。竜馬は鞆から長崎に向かう途中だったとする。

 二つ目は、御手洗に隣接する大長出身の志士で維新後96歳まで生きた新谷(にいや)道太郎からの聞き書き「維新秘話 志士の遺言書」(1936年発行)。竜馬が京都で暗殺される直前の1867年11月3日、竜馬、大久保利通、木戸孝允たち薩摩、長州、土佐、芸州(広島)の志士十数人が新谷邸に泊まり、四藩連合の軍事同盟を結んだとある。

 史料が近年、新聞や雑誌で取り上げられ、市豊市民センターには問い合わせが増加。ただ、新谷の聞き書きにある四藩軍事同盟の真偽は定かでない。

 地元の郷土史家、下鍛冶尚真さん(77)は独自の研究を元に、歴史ロマンの広がりに期待する。「竜馬も当然立ち寄ったはず。四藩同盟があってもおかしくない」



【写真説明】豊町大長地区に残る新谷邸。下鍛冶さん(右)は竜馬が宿泊した可能性があるとみる

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新谷道太郎述書『維新志士 新谷翁の話』の「御手洗島の密議」

【PJニュース 2010年8月18日】

新谷道太郎が二条城の大政奉還の諮問の席に参列していたのか。

あるいは、参列者の誰かから仕入れた話のか。どちらとも判断がつかない。

ただ、新谷道太郎述書『維新志士 新谷翁の話』によると、大政奉還から1ヵ月後に、1867(慶応3)年11月6日に大崎下島・御手洗(広島県)の新谷宅で、四藩軍事同盟が結ばれている。

それが1ヵ月半後に、鳥羽伏見の戦いにつながった。(御手洗港は江戸時代、瀬戸内海で最も栄えた、交易港である)

密議の参列者として、各藩から主力志士が集まっている。

芸州藩からは池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平、そして新谷道太郎の6人。

薩州からは大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞の3人。
長州からは桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介(有朋)の3人。
土州からは坂本龍馬、後藤象二郎の2人である。

『10月14日に徳川慶喜は大政奉還をして、将軍職を辞したが、これは有名無実であるから、この四藩が連合して兵力を以って大改革をやろう』

と龍馬が主導する倒幕の軍議が3日間にわたって練られた。

新谷がこの密議の折、龍馬から二条城の大政奉還の様子を聞いた可能性が高い。

この四藩軍事同盟が決められて、同島の御手洗港を発った龍馬は9日後の、同月15日に暗殺された。くしくも33歳の誕生日だった。場所は京都の醤油商・近江屋で、おなじ土佐の中岡慎太郎と膝を突き合わせて語っていたところ、刺客に襲われたのだ。

龍馬暗殺の動機となると、主だったものは3つある。


1)紀州藩が黒幕説

いろは丸事件で紀州藩は龍馬に8万3千両の賠償金を支払うことになった。「浪人者に大金を取られて、御三家の面子をつぶされた。だから、龍馬を暗殺した」

そう考える、土佐海援隊のメンバー(陸奥陽之助ら)16人が、暗殺の黒幕は紀州藩・三浦休太郎だと言い、12月7日、三浦の投宿先の油小路花屋町の天満屋に襲撃した。乱闘のなかで、「仕留めた、仕留めた」という声で引き揚げた。犠牲者は別人であった。


2) 志士をテロリストとみる、幕府の治安維持のため

事件の当初は、京都守護職・会津藩の新撰組だとされた。新撰組は治安維持のために、長州藩士、不穏な行動の浪人者が捕縛、抵抗すると斬り捨てた。その取締りの一環で、龍馬と中岡は殺された。現に、近藤勇の処刑には龍馬殺害の罪も含まれていた。

3)佐幕思想派による、尊皇攘夷派への仕返し(大政奉還も含めて)

武士たちは、徳川家に忠誠心を尽くしておけば、365日は家族全員が飯を食べられていた。ところが大政奉還で明日の糧を奪われ、どう生きたらよいのかわからない、暗闇に突き落とされた。世界一ともいえる、超一流の安定企業を一夜にして倒産させた、龍馬への恨み。

1869(明治3)年、今井信郎が箱館戦争で捕らわれて、東京に送られてきた。翌年、京都に送られて、龍馬殺しの罪で取り調べを受けた。「見回り組みの犯行だ」と今井が供述した。

これが現在の定説になった。

新谷道太郎の資料は賛否両論ある。勝海舟が極秘で、供侍はひとり新谷道太郎をつれて奄美大島に出むき、西郷に会った。(海舟始めて南州を訪ふ)
司馬遼太郎が「竜馬が行く」で、それを取り上げている。

西郷が勝海舟が初めてあったのは、第一次長州征伐の時とする。西郷が大久保利通に送った手紙に、勝とは初対面だとして、その印象を書いている。(歴史学者は西郷の、その手紙を一級史料だとする)。

歴史学者と歴史作家の司馬との間で、激論が交わされた。

「史実と事実は違う。手紙はすべて事実とは限らない」と司馬は主張した。

「西郷はかつて極秘で薩摩にやって来た勝海舟に会ったことがある。密輸入した武器を勝に見せている。それを薩摩藩内で明かせば、勝に迷惑を及ぼす。と同時に、西郷自身も不利益。だから、勝とは初対面だと、大久保にカムフラージュした」

そのような趣旨からだろう、新谷の話には信憑性が高い、と司馬は作家の目で主張した。そして、新谷の話は事実とした。

(新谷が勝に一人付き添って奄美大島にいった。この期間は勝の行動は史料でも空洞になっている)

ここで紹介した、新谷が記す「大政奉還の諮問の場で、龍馬が勇気ある発言した」という内容が、司馬のように事実とみなせば、大政奉還に命かけた龍馬像がくっきり浮かび上がってくる。と同時に、龍馬暗殺者たる刺客の動機に近づくことができる。

新谷は一級品の資料を残してくれたと思う。【了】

(撮影:穂高健一、8月15日)

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穂高さんは、雑誌「島へ。」の中で旧豊田郡の島々に関する歴史も

詳しく書いて戴いてます。


龍馬の御手洗の話題は、興味深いです。



260年もつづいた江戸時代を終わらし、

日本の将来を見すえた龍馬の行動力は、「革命」・「維新」と言えるもので、

今の日本に一番必要なことだと多くの国民は内心思っているでしょう。

時代を変えるとは、酷なことですが、

「命を賭ける」

ことですね。


せっかくの龍馬ブーム


場所も近いし、

新たな自分を見つめるきっかけになるかもしれません。


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大切に活用して欲しい文化施設

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大望月邸のこと
 

 大望月邸のことは、合併時の時からずっと書いてきました。


  この島にとって文化灯台の意味もあり、また、合併前には、資料館をして再生するために、何億もの、貴重なお金を投資して手直しをしてきました。

歴史資料館なのですから、歴史の学習が目的です。


最近、この資料館が「遊び」の場として利用されたとのコメントを戴き、愕然としました。


子供は悪くありません。

主催者側の問題 

大人の思慮、常識の問題です。

極端なたとえですが、

「広島の原爆資料館」が、彼等のおこなった利用目的の場所として、

  提供されたとすると、どういった反応が市民、県民から来ると思いますか?

人口の大小の問題ではなく、常識の問題です。


歴史と全く関係のない私的流用など、「大望月邸」にはありえません。



この島で思うのは、

「この島の文化を大切に保護しよう」

と表に出ずに、尽力されている方と、

「利用できるものは、徹底的に利用しよう。」

と趣旨を理解されず、

無邪気に振る舞う目立ちたがりやさんです。



大変、貴重な文化的イベントを回数は少ないですが、

この大望月邸では開催されています。


特に東野地区の文化学芸員の方達の

努力は大変なものだと思います。


できることなら、

本来の目的で使用・活用していただき、多くの人に、

大崎上島の歴史を認識・確認していただくことが、

この島に尽力されてきた人達の願望でもあります。


利用するにしても、こういったことが、

配慮できないとは、地域の理解度の欠如を如実に現したに他なりません。

呆れました。


 

癒えぬ深傷

以前も、書いたことがあるけれど、

パソコンにストックしてある、

「ポンポン船の旅」

倉掛 喜八郎 著 大阪書籍 版
クラガケ,キハチロウ オオサカシヨセキ 
1986年05月 発行

で生野島のことが扱われていたので、再度、読んでみることにしました。


この本のことに関して、

大崎上島を卒論のテーマにされた、

アリストテレスな時間:倉掛喜八郎著「ポンポン船の旅 瀬戸内漂白に町興しに関連して詳しく書かれています。



生野島(広島・東野町)



白い一本道を峠まで上がると、見渡す限り色づくみかんの段々畑が広がっていた。

雲ひとつない青空。弧を描く入江、連なり重なる島々は和かな秋の陽に包まれている。

絣のモンペに地下足袋、色褪せた打出の小槌の模様の前掛けをしたおばさんが足元の短い影を見つめるようにうつむいて上がってきた。

白髪頭、陽焼けの顔に深いしわ、節くれだつ両手。

戦争が人生の歯車を狂わせた。大阪の空襲に遭い焼けだされ、戦後二十二年に無人のこの島に入植、開墾。

苦渋の幾年月―暮らしは今も昔もつつましく、不便なままだ。

「夫は町の暮らししか知らず、慣れない仕事の苦労がたたって長患い。三十をとうに超えた一人息子に嫁がこんで……」とまた、うつむいて峠を下る。


「お達者で・・・・・・」、振りかえったその顔にかすかな微笑み。

一家の住む月の浦への野辺に晩菊、あざみ、鳳仙花。磯辺の木立ちの間に数軒の捨て家。


せがむ子のない庭に山桜桃が熟す。雨風にさらされる破れ障子の暗闇に無言のつぶやき。


小鳥のさえずり、磯に群れ遊ぶサヨリ、フグの子。一見平和な風景の島影に、癒えることのない戦争の深傷を負い、ひっそりと暮らす人がいる。やり直しのきかぬ人生――。

せつなく悲しい。

島々を歩いてみると、じっと海の彼方を見つめる年寄りが多くいる。

海のかたの幸せを夢見ながら歳を重ねて、島を出ることができなかった人たちであった。


戦争の痛みをそれぞれが胸に刻んでいた。


と書かれています。


また、最近では、生野島の魅力に魅入られた体験を書かれた店長さんの

「店長日記」には、苦難と戦いながらも、たくましい生野島の人が描かれています。

この方のサイトも、しっかり基礎から研究され、さすがと納得できる内容のブログです。

さすが、書物を扱われ長い間経験された職人さんに近い文章は凄いと思います。


こうした、諸兄の先輩方と、私の年齢はおそらく、二回り以上違うと思いますが、

(世代間の格差は当然あります)

敢えて、私的生野島論を述べさせてもらうと、

戦わずして生活できなかったリアリティの時代と、

物質的に行き分かった環境でのイマジネーションの時代では、

時代そのものの扱い方に違いが出てくる。


倉掛 喜八郎さんが書かれた、「生野島」と、「癒えぬ深傷」は、

この場所だから、

書くことのできた内容なのだろうか?

深い相関関係を、感じることができませんでした。

他の、内容、

夫婦行商船
大崎上島 (広島・木江町)

母-島を動かず
斎島 (広島・豊浜町)

などは、「なるほど」

と納得できるものですから、

ちょっと残念でした。


それと、もうひとつ

福本清先生が編集された、『生野島物語』は、生野島やわらぎ会が、1985年に出版されました。

在庫は、なんと国会図書館の蔵書でヒットしました。

最近では、地元の金原 兼雄さんが、関連書物をだされているようです。

市立竹原書院図書館でヒットしました。

ページ数から判断すると、資料集め、裏付け取材など、

今となっては厳しいのかもと推察します。



足利浄圓師の「光輪」を読んでいますが、

仏法書なるものを、読んだことのない、

(逆に、現代の「仏教界の堕落」の本は読んでいる)

ミーハーな私にとって、足利浄圓師の柔軟な発想を知るにつけ、

一体、どんな人間関係が生野島であったのか、

知りたくなりました。


近くて、遠くにあった生野島

迦洞無坪に

山頭火の訪れた島として、

生活で生きることを実践してきた島


理想郷と逆行し、もっとバブルにふさわしくない場所で、観光開発に挫折した生野島

難を逃れた原生の入江


50年近く経過して、

現代の武器 パソコンで、検索しても、

真実は、遙か彼方です。

ゼロから

人が生きる

歩く

進む

大変なことです。

到底、私には、わかりません。

上空から見た生野島の変遷

国土地理院のサイトで公開している

国土変換アーカイブ空中写真閲覧

を使って、生野島の変化を年代別に調べてみた。




1947年(昭和22年)
足利浄円は昭和7年からこの島に住んでいたそうだ。

迦洞無坪とならび、どんな文化がこの島で花咲いたか知りたいものだ。




1948年(昭和23年)
食糧難のまっただ中、
121軒の人達が大挙この島に開墾に入ったのだろう。

写真から判断すると、裸の山の状態であるから、まだ苗木など植えたばかりで、作物の収穫などできていないのだろう。

収穫まで最低、5年はかかることから、夢半ばにして、放棄して出て行く人も多かったと聞いている。




1975年(昭和50年)
ミカン百姓のせがれには、忘れることのできない
大暴落が、昭和43年につづいて昭和47年に起きる。

この後、生産調整となり、クズ蜜柑は肥やしとなる。

畑は荒らすか、違う作物を作るか
(といっても、市場にでるものはない。気休めだ)

避けることのできない選択を迫られる。

島の百姓にとって、屈辱的なものはないだろう。

傾斜地の強い生野島でこれだけの畑であった状態を見ると、
苦渋の決断だっただろう。





1981年(昭和56年)
放棄された後
元の原生林に戻りつつある生野島

豊になるため、急勾配の山を人力で開墾し、

日夜汗水垂らして、耕してきた恵みの土地も自然の力には逆らえないということか。





1999年(平成11年)
契島は、工業化が進み、みっしりと島全体が工場と化している。

昔の写真を見ると、汚水を海に流していたのだろう。

はっきり海面に白い線が見えた。

また、終戦後は、煙突もあったのだろう、煙も確認できた。

この頃には、工場の公害問題もクリアーできているのだろう。

生野島の変化とくらべると、大きな変化はみられない。





2006年(平成18年)
人口減少、流出のため、世帯数は30程度だろうか。

大崎上島と同じくにっくきイノブタの侵略のお陰で、数少ない農作物は、
食い荒らされているだろう。

今年の8月に初めて生野島をまわったとき、

イノブタの捕獲用のオリと、散弾銃の薬莢の空が落ちてあった。

この翌年には、自然休養村生野島のキャビンビレッジも赤字のため閉鎖される。

民間会社の経営感覚で考えると、

これだけ立派な施設を廃止する前に、もっと有効活用できるよう、宣伝できなかったのだろうかと不思議に思う。

既に、インターネット回線はしかれていたのだから、

実にもったいないことをしたと思う。





2010年(平成22年)

ほぼ、以前の自然のままの生野島に戻っている。

自然の復元力は凄いものだ。

今では、山を歩くと所々に、大金をはたいて敷いたモノレールが、

錆びてしまい、

ジャングルとなった場所に

「ここは以前は畑だった。」

ことを示す道具となっている。

これは大崎上島にも同じことがいえる。

人が生きるということは、大変なことなんだと生野島は教えてくれる。

暑い炎天下の中、

ひたすら、働き続けたものはなんだったのだろうか?

それは、やはり自分の家族・子供のため、

この場所に生きる覚悟なくしてなしえないものだ。

対象が、畑であれ、鉄板の上であれ、楽しことは、ほとんどない。



公報に目を通すと、

「苦労ばかりで生きるのに、一生懸命。

楽しいことはなかったね。」

の言葉が身に浸みる。


昨今、「楽園」などと島を称することが流行みたいだが、

元々、コピーライターが作った軽いキャッチフレーズで、

都会人とキャッチボールを楽しめる場所ではない。



できることなら、

生野島桜祭りとはどんなものだったのか、体験してみたかった。

昨日も、ビデオにとった、生野島の絶景を見ながら、

何度も、頭の中はリフレインしています。

調べ残したことがあるので、もう一度、生野島を訪れることが出来たらいいなと思います。

海と島の歴史資料館(大望月邸)

大望月邸の話をしたいと思います。

この施設ができた過去の経緯は、

色々なところで書いてきたので、(望月圭介のお化けの話も含め)今回は止めておきます。

貴重な写真もありますので、是非 確認にいって欲しいと思います。

池田(父親か?)、宮沢喜一のおとうさん宮澤裕、そして、望月圭介と一同がそろった写真もあります。


つまり少し乱暴な言い方かもしれませんが、

宏池会の前進がここに既にあった訳です。

でも、皮肉ですよね。

呉線を開通させたり(大久ノ島の毒ガス工場誘致など負の遺産もあるけれど)、功労者ですけど、物流の主流が海から陸に変わることにより、

家業の廻船問屋が廃れることになりました。


昔の政治家は穀潰しと言われ、

破産するのも当たり前の時代だったそうですから、今の政治家と較べ価値観がまったく違っていたと思います。


望月圭介大臣のこの実家も 抵当にだされ、人手に渡り、

小学生時代に見学に行ったときには、ボロボロの状態でした。



幸い、大金ですが、町が管理保存する方向で動いたお陰で、この島の文化がどうにかして、保護ができた状態でした。

異論反論はあるでしょうけれど、

私は英断だったと未だに思っています。



毎年ですが、どれぐらい人がこの資料館にこられているのかわかりませんが、

私が訪れる時は、必ず複数の人がおいでになられています。

いつも、学芸員さんにお願いしているのは、

「こんなに、立派な資料館、もっと活用してもらわないともったいないですね。」

「立派な資料を作られてそれが、外部にアピールできないのは、非常に残念ですよ。」

「島の他にある資料館、木江ふれあい郷土資料館と体系的に、連携してみてはどうか」

などなどです。

今回も、

「大崎上島 文化財・史跡名勝マップ」

なるものを頂きました。

郷土史研究会が編集され、平成20年に再販として出されています。



よく調べられています。



こういう素晴らしい作業をされておきならが、

アピール出来ないのは、もったいないと思います。

こういった素晴らしい資料は、

GoogleMapを使って、ネット上で公開してもいいのでは と思います。

もっと顔の見える共同作業をみせて頂けると、

もっと活性化すると思います。

大望月邸は、この島の文化灯台の役割を果たさなければいけない資料館です。

私にとって郷土の誇りであり、

櫂伝馬同様、大崎上島ではなくてはならない存在です。


参考

明石のまきはだ、船釘について

機帆船のできるまでの流れ

大望月邸ギャラリー企画展

大崎上島と種田 山頭火

草木塔 種田山頭火

旅日記

瀬戸内の宝島、大崎上島

山頭火、飄々―流転の句と書の世界



出版社: 二玄社 (2000/09)
ISBN-10: 4544020506
ISBN-13: 978-4544020502
発売日: 2000/09

村上 護 (著)

僕にとって、忘れられない本となりました。

時系列で、山頭火の足並みと作られた句、写真など丁寧に説明されています。

金持ちのぼんぼんに生まれながら、おやじの散財、母親、兄弟の自殺等、一念発起した酒造りも失敗し無一文。

家族とも離縁。


まっすぐな道でさみしい



人の人生とは、自分の意志以前に設定されていることがある。

人とは支え合う漢字であるが、悪い場合も当然ある。

現実を直視することは厳しいが現実からは逃れられない。


その日の食べるものにも、欠く行乞の日々

追い求めて、追い求めて、自問自答の日々

まっすぐ進みしか道はない

究極のゼロから、何が見いだせるか。

結局、山頭火の句に多くの人が、引きつけられるのは、自分の体験と重なり合う物があるからだろう。

いい本なので、中古本でも探してみよと思う。

苦しい時も、この本を読めば、救われる自分がいるのは事実である。

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