・因島(いんのしま)村上氏
・来島(くるしま)村上氏
・能島(のしま)村上氏
の運命と、その後に関して調べていこうと思います。
徳川時代になり、瀬戸内海のルートの安全が確保され、西廻り航路が開発され、飛躍的に海運のニーズが増え物流量が伸びることになります。
※村上氏の姻戚関係は複雑に入り組んでおり、簡単に割り切れないことが多い。また同族の争いもたくさんあり、複雑怪奇である。
活動範囲、交流範囲を考えると、単純に瀬戸内水軍というよりは、対馬を含め海民と捉えたほうが、適切ではないかと思う。
日本国として海外勢力の侵略に備えるため、対馬に防人を置いて徴兵制を敷いていたのだから、当然、畿内本土から太宰府、対馬ルートの海の道(航海技術)は、必要最低限のものだったのだろう。
間違いなく日本は海洋国家だったのだろう。
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櫂伝馬の歴史も近世以降は形骸化していったものと思います。
勉強していきます。
能島村上水軍の本拠地は、能島
島全体が、要塞化され城が造られていた。
しかし、国定史跡になりながら、なんと情報が少ないことか。
この能島城がどんなものだったのか、調べても画像がでてこない。
前の「櫂伝馬の歴史を考察する」で紹介したビデオには、想像図が載っていたので、やはりあのビデオは貴重な資料だと改めて思う。
愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』にも最近の能島が取りあげられている。
昔のブログで、リンク紹介させていただいいた、●瀬戸内和船工房●の工房は、実は能島の手前の鵜島の海岸にある。
ネットで見ていると建物が確認できたので、すぐ側にあるではないか。
なんとも奇遇、というよりは、これは間違いなくネットワークなんだと思った次第である。
決して偶然ではない。
瀬戸内海によくある姓、河野、村上、藤原、は珍しくないけれど、もっとみなさん、歴史を研究し興味をもって頂きたいとお願いしたい。
能島の姿を見ると古老がおっしゃるとおり没落し埋没して恨みの一つも言いたくなる心境は察するに十分である。
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