家船とは、いったい何なのか?
詳しくは、ウエッブでは、沖浦さんの書籍「辺界の輝き」に書かれています。
今回は歴史学的な話題ではなく、実体験をもとに家船を書きます。
昭和30年後半の生まれである私は、家船が、どんなものかわかりませんでした。
住んでいる場所が瀬戸内海といえども、造船の町でしたから、家船なるものがどんなものか予備知識もなかったのです。
ただ、当時同じ豊田郡であった豊島の学校に寮があること。
また、遠洋漁業のために子供を預かるための施設であることなど中国新聞の記事を読んでしっていました。
遠洋漁業と言えば、横浜ベイスターズの以前の親会社、マルハなどの水産会社の関連の施設があるのかなと思っていました。
実際は、違っていましたが。
しかし、家船の原形になるものには、祭りの時にのせてもらったことがあります。
小さな木造船ですが、船の中に畳もあれば、ラジオ、テレビまでついていました。
なんとも、贅沢・・・というよりは、船を生活の場にしている道楽の極みだと、無知ながら思っていました。
釣り好きの極みだなと、幼心に思っていました。
恥ずかしいことに、学校教育で、家船のことは教わらなかったし、おちょろ船の話さえも話題にすらならなかった。
農家だからなのかもしれませんが、海のことはほとんど予備知識が備わっていなかった。
まさか船が住居だの夢にも思わなかった。
瀬戸内海は、両極端で、造船の町もあれば、もう一つ違う港を挟んで、漁師だけの町もある。
大三島の知り合いに会えば、「三島には漁師なんておらんのよ。」と言われました。
「魚を殺すことが殺生だから」、だそうです。
櫂伝馬にしても、木江の櫂伝馬は、宮島系、東野の櫂伝馬は、大阪の住吉系、
因果関係もわからず、どうしてこうなったのか、整理が必要です。
支配階級が変更することで瀬戸内海の地域の羅針盤は、少々狂いが生じているのではないかと思います。
本来のアイデンティティを取り戻すことが必要だと思います。
家船の起源など諸説あり似通ったところもあれば、そうでないところもある。
凄く当たり前のことですが、考える上で大切な要素
島嶼部では、開墾できる土地が限られているため、相続する際 限界点が訪れる。
そうなると必然的に漁師になるしか生活が守れなくなる点。
また、彼等は海のプロなのだから、漁業権、縄張りは明確にあったはずである。
そうなると、どこまで限定された海域でカバーできるのか。
これも飽和点があるため、時代と伴に遠洋漁業に向かったのではないだろうか。
実際は国家には、権益の付与に関することだから、こういった資料は残っているのだろうが、しっかりと分析、見極めをしないといけないと思う。
自戒を含め一番いけないことは、混同しないことだと思います。
家船に関しては、色々な文章を読んでいます。
沖浦さんの記述も確かに一理あります。
が、それだけでいいのか という疑問が頭をよぎります。
平家伝説、差別、
う~ん、納得できない。
古代日本は、海の時代です。
畿内から、瀬戸内海経由して、下関を通過して、九州 隠岐の島、対馬まで、
そこから韓国へ
当時の防人に気持ちはどんなものだったのだろうか?
また、瀬戸内海の漁民の漁業区域も対馬あたりもカバーしていた。
また東南アジアの海民に見られる、抜糸、入れ墨などの風習もあったということだから、交易がどうだったのかも、考慮していかなければならない。
単なる差別問題以前に、凄く大きなテーマが現前とあります。
書物の中の活字では、推測できない世界です。
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