「北前船」が、交易船として日本海に踊り出るのは18世紀後半
当時の日本は、幕府は江戸に置かれていたが、経済の中心は大阪、京都などの、いわゆる上方と呼ばれる地域であった。
蝦夷地、現在の北海道や東北からの物資は、もっぱら福井の敦賀、小浜の港を経由して上方に運ばれた。
敦賀、小浜から陸路を経由して琵琶湖に入り、琵琶湖の交易船「丸子船」に荷物を載せ、京都、大阪へ渡った。
しかしこのルートは、海と陸を何度も経由することから、荷物の損傷や、運賃コストがかさみ、新たなルートの開拓が待たれていた。
それが、山陰から瀬戸内を回って大阪に入る、「西廻り」航路である。
そしてこの西廻り航路に最初に挑戦したのが加賀藩三代藩主、前田利常であった。
1639年、加賀藩の蔵米を大阪に運ぶため、試験的に実施したものだった。これを機に前田家は、1650年代に入って大阪へ大規模な蔵米輸送を行っている。
その後、1671年に、河村瑞賢が幕府米を運ぶための西廻り航路を拓いたが、そもそもの生みの親は前田利常だったといえよう。
以来、西廻り航路は日本海交易の主流となっていく。
北海道から内地にもたらされた交易品。その最大の目玉は、ニシンと昆布である。
石川の船主たちは、そのニシンを求めて小樽、江差、松前に渡った。
隆盛を極めた北前船は、明治の半ばを過ぎると、衰退の一途をたどっていく。
汽船や通信技術の進展などで、より早く、大量に荷物や情報が各地を縦断するようになり、物流の主役の座を取って代わられた。
参考サイト 北前船~未来海道ものがたり~
動画
浪華丸で防水用に使っているまきはだ
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